第16話
──ギィィィッ……ドガァンッ!
鉄輪が納品所の濡れた石床を削り、激しい摩擦音とともに馬車が停止した。
湧き立つ湯気のような馬の吐息が、冷たく薄暗い納品所の空気を真っ白に染め上げる。車軸からは、焼き付いた油の匂いがうっすらと漂っていた。
薬臭い独特の香気が充満する室内には、重苦しい沈黙が落ちていた。棚には茶色く変色した乾き草の山が並び、足元には白濁した試薬品の破片が転がっている。
「なんだ、外の騒ぎは……」
奥の調合室から現れた上級錬金術師ヴァルターは、眉間の溝を深めたまま、手にした濁った薬瓶をコトンと作業台に置いた。
「何だ商人か。……どこかの使いなら、荷物を置いていけ。見ての通り、ゴミを検分している暇はない」
ヴァルターは吐き捨てるように言い、棚の枯れ草へ視線を戻しかけた。
ルーカスは返事をせず、御者台から飛び下りると、荷台の端をポンと叩いた。
トビーが動く。かじかんだ指先で、荷台を覆っていた厚手の麻布の結び目に手をかけた。
麻布が、音を立てて引き剥がされる。
──フワッ。
濡れた布の隙間から、刺すような冷気とともに、濃厚な青く甘い匂いが一気に室内へ広がった。作業台で薬瓶を洗っていた弟子の手が、ピタリと止まる。
「な……」
ヴァルターの足が止まった。視線が吸い寄せられるように荷台の中央へ落ちる。
竹かごの中で、二枚の葉が丸みを帯びてピンと張っていた。その頭上には、真珠大の水滴が逃げ場を失ったまま留まり、エメラルドグリーンの表面で小さく光を跳ね返している。
「朝露が……水滴が、残って……?」
ヴァルターの手から、小さなガラス棒が滑り落ち、石床で乾いた音を立てて割れた。誰もそれを拾おうとしない。
ヴァルターは膝を折り、震える指先をかごの縁へ伸ばした。葉の表面をかすかに擦る。弾けた透明な汁が親指の腹を濡らし、濃密な青い匂いが鼻腔を穿った。
「……生きている」
ヴァルターの喉仏が大きく上下した。
「傷がない。死んでいない……水分が、指に絡つく……」
「おい、これ……!」
周りの弟子たちが作業台を離れ、吸い寄せられるように馬車を囲んだ。一人が手持ちの魔導具をかごにかざし、その指示針の揺れを見つめたまま固まる。
「減っていない……。魔力が、そのまま残っているぞ……!」
納品所のあちこちで、小さく息を吸い込む音が重なった。乾いた紙を弄っていた老職人が、椅子から立ち上がって目を見開く。
「お前」
ヴァルターの肩が激しく上下していた。ルーカスの胸元へ掴みかからんばかりに一歩踏み出し、目元の血筋を浮き立たせる。
「いくらだ。……いや、幾らでもいい。この五箱、全部だ」
「イザックさんの指定は二束でしたよ」
ルーカスは鼻から静かに息を吐き、隣で汗を拭うトビーの背中に掌を置いた。
「だが、こいつが風の通り道を作って、水気を生かした。村にある分、全部積んできた」
「全量買い取る!誰かイザックを呼んでこい」
ヴァルターの声が上擦り、納品所の天井に反響した。
「金貨で払う。提示額の三倍だ!すぐに運べ、作業場へ回せ!!」
奥の弟子たちが一斉に動き出し、竹かごを慎重に持ち上げる足音が石床を打ち始めた。
トビーはポケットから小さなメモ帳を取り出し、固く握りしめた。指先に残る冷たい水の感触と、指甲に挟まった泥の黒ずみを確かめる。
トビーの喉が小さく鳴り、指先がメモ帳の端を少しだけ強く折った。ルーカスがその首筋をポンと軽く叩き、二人の影が、歓喜に揺れる納品所の光の中に長く伸びていた。
詰所に研磨剤を届けた頃には夕闇が街の輪郭を削り、石畳の路地に灯る街灯の橙色が薄く広がりはじめていた。
ガルドの鍛冶工房の前で、馬車が輪を休ませている。炉の隙間から漏れる赤い光が石畳を舐め、槌の打撃音が低く腹に響いていた。
ルーカスは荷台のフチに腰を下ろし、指先で革袋の口を締めた。金属同士が擦れ合う固い重みが、膝の上でズシリと収まる。羊皮紙の端を指の腹でなぞり、帳簿を静かに閉じた。
トビーは隣で膝を抱え、自分の手首をさすった。早朝から握りしめ続けた手綱とメモ帳の感触が、まだ指の節に残っている。呼吸を整えるたび、胸の奥が熱く揺れた。
「おい、ルーカス、トビー」
工房の奥から、ガルドが煤けた腕で額の汗を拭いながら歩み出てきた。手には、端の巻いた厚手の羊皮紙が握られている。
ガルドは返事を待たずに紙を荷台の上へ放り投げた。乾いた音がひとつ。
「ヴァルターの親父がギルドで怒鳴り散らしたそうだ。『あの二人の荷台以外、この門を潜らせるな』とな」
ガルドの太い指先が、羊皮紙の底に捺された青い蝋印を軽く叩いた。
「月二回。コモレビの生薬草は、お前たちの馬車が運ぶ」
トビーの爪先が、無意識に地面の石を強く踏みつけた。
行きの荷台には都市の薬と工具、日用品、帰りの荷台には産物に塩と布、そして濡れた麻布の下の緑。一度も空になることのない木床の感触が、足裏を通して伝わってくる。
「……飲むか」
ガルドは冷えた木樽のジョッキをふたつ、雑に差し出した。
ルーカスとトビーはジョッキを受け取り、縁を低く打たせた。コン、と乾いた木音が夜気に落ちる。
冷たい液体の苦みとほのかな甘みが喉を通り、カサついていた気管を濡らしていく。トビーは息を吐き、袖口で口元を拭った。
胸のポケットから、端の擦り切れたメモ帳を取り出す。
緑の丸、槌の形、波の線。トビーはかじかんだ指先で鉛筆を握り直し、その三つの記号を太い円で囲んだ。芯が紙を深く引っ掻く。
(……繋がった)
トビーはメモ帳を掌で包み込み、胸元へ押し当てた。肌に伝わる薄い紙の厚みが、自分の存在を確かに繋ぎ止めていた。
──カツン。
大通りの向こう、路地の影で硬い靴底が石を叩いた。
暗がりの中に立つ二つの影。シルクの外套の胸元で、銀色の小さな紋章が街灯の光を鈍く跳ね返している。
「……あれか」
低く濁った声が、夜気に紛れて落ちた。
「あの小僧が積んだ」
言葉はそれ以上続かず、足音が遠ざかる擦れ音だけが暗闇の奥へ消えていった。
ルーカスはジョッキを置き、ふと路地の闇へ視線を向けた。手綱を握っていた右手の指先が、微かに収縮する。
夜風が路地を吹き抜け、馬車の濡れた麻布の端を静かに揺らしていた。




