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8.簡潔な支度

 モノ・シズによる海洋コンピューターの開発は休みなく行われていた。

 モノは小さなボウルを新しくこしらえ、海から汲んで来た水をそこに張り、情報の処理を担う海洋コンピューターとは、水面の揺れを感知できる三叉状の細いチューブによって接続した。こうして準備を整え、今は外部からの信号がそこに落ちてくるのをひたすら待ち構えているのだ。水面を安静に保ち、開発者であるモノや先住民である少女と共に、ただひたすら待ち構えていた。

 少女性愛の思想が息づくこの想像域では、少女にはあらゆる知識が必要ないものとして扱われる。そんな誰にも大っぴらにできない願望から生まれた彼女は、言葉を話さない。そこにモノは助けられていた。子供といえばとてもお喋りで、ときに人の邪魔をして楽しむ小悪魔のようなものだ。もしもこの世界を支える少女性愛が小悪魔派であったなら、今回の実験はスタートも切れずに断念していたことだろう。海洋コンピューターが無事に完成していたかどうかも分からない。

 モノは自分の隣で大人しく待ってくれている少女のことを見た。顔立ちは想像の産物でありながらあまりに自然なつくりで、想像の上を行く美しい心が窺える。モノは、エンジニアらしい合理的な手つきで少女の頭を三周ほど撫でてやった。すると少女は柔らかく笑ってみせる。その瞳の奥には小さく畳まれた知性を宿し、誰かに見て欲しそうにひらひらと隠し持っている。モノはどうしてこの女の子に様々な欲望を抱く男たちがいるのか、直感によって理解しかけるが、すぐに危険を察知し、切り上げ、海がある方へ視線を飛ばした。少女は言いつけられた通り、静かに実験を待機している間、モノの腕に頭を寄り添わせた。こうして年月という単位の時間が彼らの中を過ぎて行った。モノ・シズにとって、何も手を動かす仕事のない期間は本当に久しぶりに訪れたものだった。純粋派少女性愛者フモフ・ジャケッツは自分の部屋から、かれこれ三十分、指をくわえ、二人のことを覗いているだけだった。

 ついにそのときが来て、モノと少女の二人は穏やかに眠りについているタイミングだった。海洋コンピューターがサウンド機能用の水槽に空気を送り込み、強烈な気泡のビープ音を鳴らした。そしてディスプレイ砂山に水を行きわたらせ、そこに表れる砂の濃淡の模様によって受け取った文字列を表示する。表示処理は砂山の上から下へと、しばらく時間を要し、

 "WAITING IN HELL"

 『地獄で待っている』とだけ滲みだした。

 それを見ると、モノ・シズは急いで海洋コンピューターを緊急停止し、データ排出口の蓋を閉じた。このコンピューターはほとんど演算処理にのみ機能を特化しており、使用したデータは処理循環を終えると排出口から海へと流れ出て取り返しが付かなくなる。幸いなことに、受信した"WAITING IN HELL!!"の信号データは大部分が無事に救出でき、あとはその物理的な痕跡から、角度世界の計算手法によって、電信のいう地獄とやらの在処を突きとめるだけとなった。モノはまず隣にいる少女に、もう静かにしていなくてもいいと言って自由にしてやった。任を解かれた少女はすぐに砂浜を駆けだし、わざとらしく砂の上や海の中を踏み鳴らした。友達のバレー・トレイはもう長い間遊びに来てくれていない。向こうの世界ではまだ夜中であり、バレーが家を出れない時間だった。少女はときどきモノが計算作業をしている元へ顔を出したが、その砂の手記と海洋コンピューターで一体何をしているのか分からず、すぐに飽きてまたどこかへ遊びに行ってしまった。モノの海洋コンピューターの性能はさすがに電子コンピューターには劣ったが、手作業による計算の苦労を緩和してくれるほどには改良が進んでいた。地獄の場所を突きとめるまでには追加で三ヶ月を──フモフ・ジャケッツが見守っている世界に置き換えて数秒。両世界間の時間レートには人間の微妙な意思が介入するため常にバラつきが生じる──、そして地獄まで行くための船を開発するまでには六ヶ月を要した。

 船の名前は"COMING IN HELL!!"。モノ・シズが『地獄にやって来る!!』。この"COMING IN HELL!!"船には、海洋コンピューターの改良と並行して行っていた、古典的錬金術により錬成した鋼をふんだんに使用していた。モノ・シズ製の鋼は、地中よりも上層にありながら山岳よりも下流にある海辺の自然物からできているから、環境固有の位置エネルギーを考えたときに、構造が自由な空気や性質の似た大岩から鋼を作るよりもずっと錬成が簡単である、というのがモノの見た根拠である。これまでとにかく行動を続けてきたモノの体にはエンジニアの精神が根付いており、作ったものが動きさえすればそれで満足なのだ。

 モノ・シズは完成した船に一度背を向け、よく使い込んだ海洋コンピューターを目にした。コンピューターはもう海水の循環を切ってある。その前には少女が一人で立っていて、出発しようというモノのことを見つめている。

「長いことありがとう。行ってくるよ」

 と、モノは言って再び船に体を向けた。

 少女は小さな手を伸ばし、歩きだしたモノの腰を後ろから叩いた。モノの背中を追いかけて何度もタッチし、モノが船に乗り込んだところで安全なところへ離れ、煙を吹いて空に打ちあがる船に両手を大きく振った。

 その少女の姿をモノは小窓から見下ろしていたが、出発してすぐに見えなくなり、窓の景色は暗い宇宙へと変わった。ずっと遠くより無数の光に囲まれ、船の近くに着陸可能そうな地面を持ったピンク色の惑星さえ見える。モノ・シズは意外だと思った。あの少女がいた海は、フモフ・ジャケッツの想像の産物だったはずだ。ある人の想像が、その人がいる場所と宇宙を挟んで継続していることなど、まだ誰にも知られていない新しい事実ともいえるし、同時にかなり無理のある妄想ということもできる。それとも想像の持ち主であるフモフが、ただ少女を眺め、むなしく愛を振るっていただけでなく、海の上を覆っている空の上には宇宙が広がっていて、そこには宇宙が宇宙らしくなるだけの星々が漂っているという、当初の目的を超越した環境についてまで考慮していたというのだろうか。もしそうだった場合、自分はまだ彼があらかじめ想像していた世界を脱出できていないのかもしれない。

 しかし少なくとも、これからの目的地である『地獄』の座標は、モノ・シズが扱える限りの計算によって算出することができたのだ。着いてから分かることもあるだろうと、モノは考えることを止めた。この船はあらかじめ設定した場所へ最短経路を通って進む、最低限の機能だけを持っている。操作のためのレバーやハンドルはない。速度は燃料のある限りひたすら上昇を続ける。窓に見えていた無数の光は、一面の光へと様子を変える。モノ・シズはこの船、唯一の設置物である安全ポッドの中へと入り、全てが無事に終わることを祈って眠りに就いた。

 光速まで目前となった船は、速度に耐え切れず空中で破裂してしまうその寸前、全く他の要因によって木っ端みじんに壊れてしまった。"COMING IN HELL!!"船は実に長い時間をかけ、固い地面に接触し、ついに地獄へと到着したのだ。その衝突によって貫かれた直径三十メートルの大穴の中、安全ポッドの中からモノ・シズが目を覚ました。モノは穴から這いだし、周りを見渡す。そのあまりにも地獄然とした景色にしばらく身動きが取れなかった。業火が辺りを闊歩し、誰もいない場所からでさえ懸命な嗚咽が響いている。モノは肺を焦がすような風を吸い込んでクラクラした。

 地獄は広大だった。それは地獄からの脱出を試みてきた数々の罪人による成り行きで、地獄は逃れられないから地獄なのだと、哲学のように応じ、領域を拡大してきた。赤黒い空から降って来たモノ・シズのつくった幅三十メートルの大穴のことなど、地獄の住人は誰も気にしないだろう。地獄は、モノ・シズがやって来たことなど誰も知らないし、そもそも誰がやって来ようと気にも留めない、究極の個人主義が蔓延っている世界なのだ。

 モノ・シズは一番大きな活火山が見える方を目指した。

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