7.昔には帰りたい
トルキィ・マーチが運転する車に揺られ、新しく連れてこられた解体現場は住みよい住宅地に穴をあけてまだそこに残っていた。そこでは住人が誰も生還することのなかった大変な火事があった。そしてその騒ぎが鎮まったあと、指で紙を一枚一枚めくっていた市役所職員の気づきによって、不可解な失踪事件が浮かび上がった。
トレー兄弟の我が家にショベルカーの堅い腕が差し込む。その部分は音を立てて歪み、壁や屋根から層になっていた資材をバラバラと落とした。貫通し、真っ暗なグレーとバレーの部屋が中から外に露出した。そこに置かれている本棚はどちらも丸ごと炭になっており、棚のデザインや一面の背表紙からは持ち主の判別ができないようになっていた。
「なんかスゴイっすね」
安全な場所から重機の迫力ある仕事ぶりを見ていたゲロ・カルクは言った。
「そうですね」と、ウィンプル・コート。
二人は同じデザインのヘルメットを被っていた。前回の飛行機解体の現場では、廃材の運搬役としてしか参加していなかったゲロとウィンプルは、今回はすでに一度屋根に上って表面をバールではがし、それから廃材の分別までを終わらせたあとだった。次に彼らの手が必要とされるのは、ショベルカーが燃焼して脆くなった住宅をある程度破壊し終えてからになるだろう。他の誰かが号令をかけるまでの間、二人は最近入ったばかりの同僚として、できる限りセットでいようという心掛けを同じくしていた。それは会話によって確認される思考ではなく、環境から理解される構造だった。
ゲロから話しかけられない間、ウィンプルはじっと黙って、タバコを吸うことと、グレーとバレーのため、あの真っ黒な本棚から生き延びた本を持ち帰ることを考えていた。しかしショベルカーがグレーとバレーの二人の部屋にのショベルを差し込み、本棚を巻き込んで部屋の床を壊した。家はまた少し崩壊した。あれでは火の手から中身だけは逃れていた本も、残骸の下にページを散ってしまっただろう。ウィンプルの頭の中は次第にタバコを吸うことだけに収縮してしまった。
ショベルカーが動きを停止した。操縦手がタオルで顔を拭きながら席を降りている。
「そろそろみたいですよ」
そう言ってゲロが立ち上がった。続けてウィンプルも立ち上がり、周りでも同じ格好をした六人の男たちが立ち上がる。全部で三台ある一輪運搬車を転がし、さきほど崩壊したばかりの瓦礫のもとに集合した。辺りにはまだ様々な粉塵が立ち込めていた。反射的に咳をしたり腕で口を覆ったりする者もいる。そして彼らは、その中の一人が代表して何かの指令を出すでもなく、各自に間隔を広げ、与えられた仕事に取り掛かった。
集合する前から歩みを合わせていたウィンプルとゲロは、自ずと近接した範囲を担うことになった。そこは元あった建物の内側であり、少し目をやるだけで棚や絨毯や小物やガラスなどが散乱していることが分かった。ウィンプルはまず一番に目についたコンクリート片を持ち上げた。退かした下からまた新たな廃材が顔を出す。ゲロがまだ形状を留めていたプラスチックのボードを持ち上げると、その下から五種類のクッキーが描かれた青い缶を見つけた。歪んだ蓋をこじ開けるが、中には何も入っていない。空っぽで艶やかな底面が銅色の光を空に反射するだけだった。ゲロは蓋と缶の二つともを近くの運搬車に放った。運搬車はやがて廃材で一杯になる。それに気が付いたウィンプルはグリップのあるハンドルを握り、一本足のタイヤを転がして瓦礫の外へと慎重に運び出した。
単純な労働は単純な力によって運ばれ、お昼時を超えても淡々とつづいていた。そこへ、ある予感めいた足音がやって来る。その足音、トルキィ・マーチといえば今回の現場で監督役を務めていた。
「一旦休憩ー!」
その声を聞き、男たちは汗を拭った。そして初めて時間を認識した。途中にも何度か気にするタイミングはあったが、実際にはもうそんな時間が経っていたらしい。彼らが生業としている肉体労働は一目みただけでは単に辛く厳しいものだ。しかし一つの区切りを終えると、実際の時間だけが先行し、己の感覚的な時間とに大きなズレを生じている。人間の肉体は不思議だ。大きな力を発揮したその地点に重く沈み込み、ごく限られた範囲に流れている時間を僅かに遅らせることが知られている。どこからでも見える位置に時計を置いていない労働現場は、初めから意図があってデザインされたものであり、この現象を肉体へのささやかな祝福と呼ぶ、熱心な宗教上の労働者もいるほど、人間による労働はその精神と、その住む世界と密接な関係を結んでいる。本当に寛大な恵みこそ、いつもはポケットに隠し持たれ、時を見計らって従者に与えられるものだ。労働に対する賃金はただ貰うべきものに過ぎない。
男たちは一斉に天を仰いだ。天から降り注ぐ光に不要な熱はなく、この一時の安寧を知った彼らはほっと肩の力を落とす。それからヘルメットを脱ぎ、作業靴の下に転がっている瓦礫を後ろに蹴り飛ばし、昼食にありつくため我先にと現場を出て行った。この場で一番の下っ端であるゲロとウィンプルも、その後を追うようにして現場を後にした。
あくせく働いて洞窟になった彼らの胃袋が用とする飲食店は、仕事場のある住宅地を抜けることでようやく一つ出会うことができた。先の方を賑やかに歩いていた先輩方はラーメン屋の暖簾をくぐった。ゲロとウィンプルは、もう一つ先にあるチェーン店の牛丼屋に入ることにした。
「いやあ、なんか牛丼って久しぶりかもしれないです」と、ゲロ・カルク。
「そうなんですね」と、ウィンプル・コート。
すると商品の提供はこの上なくハイスピードに行われた。二人の実の無い会話さえも隙間なく圧縮してしまう。牛丼大盛、あおさのみそ汁、漬物小鉢。これらワンセットがテーブルに到着するまで二十秒とかかっていない。もうワンセットが提供されるまでにはプラス十五秒しかかからなかった。店内は彼ら二人の他にもお客がいて、お昼時らしく繁盛していた。そこに気楽な会話はあっても、この店のサービスや料理について話す声は一つも聞こえないのがいかにもな風景だった。
ゲロとウィンプルはカウンター席で黙々と食した。
食べ終え、会計を済ませて外に出ると、空に浮かぶ太陽の光が過不足なく、偏りなく、北半球に存在する全ての職場の方向を示していた。ゲロとウィンプルの場合、その道はこの裏の住宅地へと再び戻ることだった。
仕事場へは、ゲロとウィンプルが一番乗りで戻っていた。トルキィ・マーチはひとり残って、彼に任せれている仕事を続けていたようだった。
トルキィは何か操作をしていたタブレットから顔を上げると、ゲロとウィンプルに声をかけてくれた。
「おう、おかえり。何食べた?」
「牛丼を食べて来ました」
ゲロは気さくに答える。
「久しぶりに食べると美味しいもんですね」
「へえ、牛丼か。いいなあ。まあ、午後も頑張ってくれたまえよ」
そう言って、トルキィはタブレット操作に戻った。ゲロとウィンプルはすぐそこに停止しているショベルカーの威圧的な佇まいに見惚れている。
しばらくして、ラーメン屋に行っていた先輩方が楽しそうな空気に包まれて帰って来ると、午後の分の仕事は明確なスタートラインを持たず、まずは二人から動きだし、それに周囲が引っ張られるようにして徐々に開始するのだった。
ウィンプルは昼食の前と後とで調子を変えることなく、よく廃材を運び、よく廃材を分別していた。ある大きくて真っ黒な木材が横たわっていたのをなんとか動かすと、その下から沢山の汚れた紙の山が出てきた。紙にはどれも一杯の文字が書かれており、ウィンプルはここがバレーかグレーの部屋が落ちた場所なんだとすぐに分かった。
そこへ突風が吹き込んだ。突風は紙の山をさらい、ウィンプルの四肢を掠めると、勝手に空の上へ持って行ってしまった。近くにいたゲロ・カルクをはじめ、三人の男たちがウィンプルの元に駆け寄った。
「すごい風だったな。大丈夫だったか?」
「はい。大丈夫です」
ウィンプルと彼らはしばらく立ち止まって、紙の行方を目で追ったが、視界に映っているうちは地上に落ちることはなかった。彼らの内の一人が、「まあ大丈夫でしょう」と結論付けたのを合図に、全員は元の位置へと戻って行った。
風に連れ去られた紙の山は、すぐに住宅地を抜け、住宅地のある町を抜け、町の外にある砂漠地帯へとやって来ていた。砂漠に建つウィンプルの家の上まで到着すると、乾いた上空で風が和らぎ、風が紙についた煤を落とし、紙の束を整列させ、製本を始めた。青い空は、美しく人々の暮らしを包んでいるので、この本を包むカバーにぴったりだった。白い雲は、何度千切れても必ず蘇るので、沢山のページを束ねるための丈夫な糸として使われた。そこへ通りかかった一匹の鳥は、自由な身を持ちながら知識を愛していたので、この本の表紙になることを喜んで受け入れてくれた。
こうして自然と出来上がった本はウィンプルの家の玄関前にそっと置かれ、親切な心を持った見えざる者によって扉が三回ノックされた。
「はーい」
中から顔を覗かせたグレー・トレイは、そこに置いてある本を見て大いに喜んだ。その本は表紙こそ変わっていたものの、彼がここに連れてこられる前に読みかけていた小説と同じタイトルを冠し、同じ厚さを誇り、彼のお気に入りの栞を挟んでいたのだ。ウィンプルはまず拾い上げた本を抱きしめ、それから辺りを見回した。しかし誰の気配もないことが分かると、不思議そうに表紙の鳥を見つめた。その鳥は歌っていた。グレーはその本を大切に抱え、家の中に戻ってソファに腰を掛けた。栞を留めてある場所から開くと、そのページに残された温かい痕跡から、グレーはこの本が紛れもなく自分の物なのだということを直感し、それから長い時間を読書に耽った。
夜になり、仕事から疲れたウィンプルが帰って来た。
「ただいま」
「おかえりなさい。あのね、今日はとっても素敵なことがあったんだよ」
「そうか。よかったな」




