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4.飛行機を運べ

 ダムはそのなだらかに膨らんだ軌道を示す壁のなかに、ふもとの町一つの生き死にを左右するほどの膨大な水をせき止めている。そんな想像に難くない湖の中央、海外で幅を利かせる航空会社が予定通り飛ばした旅客機は運よくホールインワンし、速やかに駆けつけた人命救助員らの働きによって空っぽにされて以来ずっと放っておかれた。それから数ヶ月後、中々似たり寄ったりな見た目を持った男たちが後片付けの仕事をするべくダムの上に集められた。すると旅客機の表面に書かれたアルファベットとは違う文字の斜体や、ともに風を思わせる寒色を基調とした四本のラインさえも、その周囲に生い茂る自然物と一体となり、人間の手を逃れた山奥で美しい看板をやっていた。

 機体の上に、専門知識を持っているであろう解体班の人たちがちらほら乗って作業を始めていた。

 光景を目の当たりにしてゲロ・カルクは息を呑んだ。

「デカいな……」

「これでも小さい方らしい」

 トルキィ・マーチは運転席から降りて言った。手に持ったウーロン茶のペットボトルに口をつけて飲んだ。ゲロとそこに肩を並べているウィプル・コートに仕事上の視線を送った。ペットボトルの底部をダム湖に向けた。

「二人にやってもらうのは飛行機の瓦礫を岸まで運搬する作業。ボートがあるから、二人で岸から飛行機までを往復して」

 ゲロとウィンプルは返事をした。さっそくボートを出して乗り込み、エンジンをかけた。出所の分からない波紋に船底を打たせながら飛行機へと接近する。その水面に横たわる姿を見てゲロは改めて呟いた。

「デカいな……」

「そうだな」

 と、ウィンプル。仕事に無駄話は好ましくないとはいえ、それにしても会話の弾まない二人だった。飛行機の上で破壊に勤しんでいる口にしても、トラックの中で瓦礫が運ばれて来るのを待っている口にしてもあと二、三言は続けるのが平均値だった。だからといってゲロとウィンプルの二人が特別仕事の早いチームということもなかった。足を取られるボートの上で重い破片を受け取るにも人並みに手こずり、岸に運んできた破片をトラックに積み込むにも人並みに手こずった。運転しているボートも人並みに転覆させた。

「バカヤロー! ダイジョブカー!」

 水面から顔を這いだしたゲロとウィンプルは面目がない。水と髪をかき分け、二人合わせて岸まで届く声で「スンマセーン!」。午前中のうちに二人はとろい新人という扱いが決まった。

 昼は山から町に降りてすぐの場所に店舗を構えるコンビニで各自食事を取るということだった。ゲロとウィンプルは行きと同様、トルキィが運転する車の後ろに乗せてもらっていた。トルキィが運転しながら二人に、「頑張ってたから昼飯買ってやるよ」。バックミラーに映った口元が動いた。

 しばらくして駐車場に止まった。三人は降車する。センサーが検知し、扉が開き、冷気が逃げた。トルキィを先頭とした三角形を成して入店。飛行機やダムのサイズ感に慣れていたゲロの目には、コンビニに置いてあるどの商品もとてつもなく小さな物に見えた。欲しいおにぎりを掴み損ねる。再び腕を伸ばした。やっと一つ手に取ることができると、あと二つ手に取り、飲み物を選びに行った。ウィンプルはビッグサイズのカップ麺だ。会計中のレジから一足先に熱湯を注いだ。トルキィはチーズブリトーとアメリカンホットドッグだ。飲み物は全員ウーロン茶だった。

 全員で乗り込んだときの衝撃で車体が五回、八の字を描いた。ゲロはレジ袋をクシャクシャと開き、トルキィの分を渡した。「ああ、ありがとう」「うっす」。気を緩めない返事は損もないが得もない。レジ袋の底に残った分を手に取った。空になったレジ袋はゴミ袋として口を開けておいた。

 話題は必然的にゲロとウィンプルへの過去へと向かった。

「二人はここに来る前は何してたの?」

 この質問にウィンプルが即答できるはずがなかった。子供を二人誘拐したらそこの家が火事を起こして身代金を貰い損ねた。そこには冗談として受け取ってもらえる可能性がわずかに残されているものの、大部分においては破局だ。却ってウィンプルは言ってみたくもあった。

 ゲロが先に口を開いていた。ゲロはウィンプルがお手本とすべき、色々と包み隠さない口を利いてみせた。

「自分は町の怪しい研究所でバイトみたいな感じでした」

「怪しいって、何を取り扱ってたの?」

「脳波です。自分がやってたのは主にデータの打ち込みと簡単な解析だけですけど。脳波によって感情や考えが外に漏れてるみたいなんです」

「それって頭にアルミホイルを巻かなくちゃみたいな話か?」

「まさにそういう類の話を本気にして取り組んでるんです。かなり怪しいでしょう?」

「無茶苦茶に怪しいよ。外部の人に話しちゃって大丈夫なの?」

「いやー。うーん。まあ……まあまあ」

 トルキィが口角を持ち上げる。

「まあまあって何だよ」

「まあまあ。全然大丈夫ですよ。実際はちゃんとした場所でしたから」

「そうかそうか。で、ウィンプルの方はどうなんだ?」

「ああ、ええっと」

 と、ウィンプルは口を濁し、座り姿勢のまま、歪めた靴の裏で床にしがみついた。過剰な間を作ってしまわないよう口を開いた。

「子供を誘拐して、そしたら火事が起きたんです。身代金は貰えませんでした」

 そう言ってしまえと脅かされたのだ。あの夜、誘拐に足を踏み出すことになった最後の決め手もと同じ、内なる自分からの脅迫だった。ウィンプルは生まれてこのかた、行動が基づくべき理由というものを重要な場面でばかり見失い続けていた。最近ではそんな重要な場面が現れることさえも減っていく一方だった。


 What is Matter? Never Mind. What is Mind? No Matter.

 (物って何だ? 心ではあり得ない。心って何だ? どうでもいい)


 これは哲学分野においてあまりにも有名なフレーズだ。勉強家であり活字好きでもあるグレー・トレイにとって、文章中でこの引用と出くわす機会は今回で八度目となった。このフレーズを目にするとき、何故かグレーはいつも留守番を任されていた。このフレーズを読むといつも漠然とした不安を覚えた。もしかしたら自分は留守番なんかしている場合じゃないのかもしれない。そんな行き場のない考えがよぎった。自分がこうして呑気に本を読んでいる間に、父が会社をクビになっているかもしれないし、母がトラックに轢かれているかもしれないし、兄のグレーが何者かに連れ去られているかもしれない。しかしグレーはその感情の上を行くほど賢かった。心細くなった彼が突然家の外に駆けだして、任された留守番を放棄するなんてことは一度も起こらなかった。彼は今まで任された留守番を全て、その冷静さを以てやり遂げてきた。留守番とは幼い目を通して見れば己の精神との戦いだった。彼自身まだはっきりとは気づいていないが、このフレーズを目にするたび、その横にはオリジナルの注釈が小さく帆を立てるようになった。


 What is Matter? Never Mind. What is Mind? No Matter.

 (留守番っ子は涙を知らない。世界が心で忙しいから)


 それは幼いグレーが日々を生きるうえでの自信の表れだった。今回少し違っていたのは思い浮かべる人の種類だった。新しく一緒に暮らし始めたおじさんはグレーから見ても秘密主義だった。だからきっとあの人は、自分の知らないどこかで自分の知らない何かをしているのだと思うことで、グレーは安心して留守番をすることができた。判明していないことを判明していないまま進行する力は、いつか数学を学び始めるときに欠かせない力だ。グレーは将来何にでもなることができた。

「子供を誘拐して、そしたら火事が起きたんです。身代金は貰えませんでした」

 砂漠の向こうにある自宅から大げさな心配を注がれる男、ウィンプル・コートは、多大なる幸福の持ち主だった。ウィンプルはさらに、その場しのぎに関する確かな技能の持ち主でもあった。

「ええ、デタラメじゃ履歴書には書けません。とにかく長い間働いてなかったんです」

 トルキィはちょうどブリトーに齧りついたタイミングだった。

「そうかそうか」

 おかげで話の前半部分を聞き逃していた。これはウィンプルが矢継ぎ早に補足を行うことで、たった一つの話に前半部分と後半部分という分割作用が生じたのだ。

「久しぶりに働いてどうだ?」

「良い気分です」ウィンプルは答えた。

 横にいるゲロは、ウィンプルの話を最初から最後まで聞いていた。無二の友人モノ・シズとの生活を通して何事にも動じない精神が鍛えられていた。モノは今頃、もっと危険で凄まじい研究成果を上げていることだろう。レジ袋にまとめたゴミを捨て、それから三人は駐車場を出て、太陽は天辺に昇った。

 ダムの上に帰ってからは解体作業午後の部へと取り掛かかった。内容は特に変わらず、ゲロとウィンプルは飛行機の残骸をボートに乗せ、岸まで運んでいた。その途中、ウィンプルが水面に浮かぶコウモリの死体を見つけた。ゲロに言ってボートの進行を緩めてもらい、手を伸ばした。そのまま持ち上げてみると、水を滴らせながら折り目の付いた羽をだらしなく広げ、水面と並行になった体勢からその真っ黒な瞳に二人を映した。

「コウモリだ。初めて見た」

 ウィンプルはコウモリを持ったまま実にあっさりと言った。

「この辺に住んでるんですかね」と、ゲロは立って辺りの森を見まわした。

「そうかもしれないですね」

 ウィンプルはそう言って手に持ったコウモリの死体を、自分が腰かけているすぐ隣に優しく乗せた。そのことについてゲロは特に触れず、再び岸に向けてボートを発進させた。到着してからは今日だけで何周目か分からない積み込み作業だった。トラックの運転を担当しているトルキィは、その二人の作業を手伝いながら、ウィンプルの持ってきたコウモリを摘まんで持ち上げた。

「この辺にコウモリの群れが住んでる洞窟があるらしいよ」

「夜に出歩いたコウモリが溺れたんですかね」

 ゲロは言った。

「そんなところだろうな」

 トルキィはコウモリを置いた。それからトラックに乗り込み、

「埋めるか捨てるかしとけよ」

 と二人に言い置き、荷台に積載した飛行機の一部と共に山を下りて行った。ゲロとウィンプルは森の入り口に急ピッチで穴を掘り、コウモリを急ピッチで埋めてやると、再度ボートに乗って飛行機のもとへと引き返した。すでに飛行機はその体の四分の一を失っていた。中央部から頭にかけて屋根や壁となる部分を失い、整列した客席が鱗のように剥き出しになっていた。作業は日が木々の下に隠れて辺りが暗くなる頃に終わった。

 山から事務所までは行きと同様、トルキィの車に乗せてもらった。事務所からゲロは歩いて帰り、ウィンプルは自分の車を走らせて帰った。ラジオをいじる。ディスコ衰退の時代にリリースされたフランス語シャンソンが入った。演奏に古典的な楽器は登場せず、シンセサイザーや打ち込みを用いている。その正弦波は古び、現代の鼓膜へ届くと温かい熱を帯びた。ウィンプルは特段音楽に興味を注いだ時期を持たなかった。しかし今は幼少期のように、知らない音楽を素直に受け入れることができる状態が、今日一日をかけてこの車内に完成されていた。その感情には多くの惰性の含まれていた。少なくとも褒められた種類の惰性だった。ウィンプルは取得したラジオ局をそのままにして、運転を続けた。信号が赤に替わる。その歌はフランスシャンソン古典派世代が信頼を置ける最後の楽曲だった。曲調はしばらく静寂を保ったまま電子音を重ねて行き、海のようなうねりを形成した。芯のある歌声を持った女性歌手は自身のフランス語を気楽に話すように、自身に残された時間について考えるように歌った。ウィンプルは通りを曲がって慣れ親しんだ直線道路へと加わった。彼の中身のない目的意識は、遠くの空に向かって焦点を投げ捨てた。その先には悲しく老いた自分の姿が映っていた。今の自分と同じようにハンドルを握って同じ車を運転していた。老いた自分が着ている服が急速に劣化していった。灰色の髪は抜け落ちていった。全身が汚れ、肌がたるみ、細胞を失って軽くなる。走行負荷に耐え切れず後方へ吹き飛ばされる。その席の上に残ったのは骨格だけだった。自分の骨格は、直前の保存力のみによってハンドルに手を掛けていた。車は走るスピードを徐々に失っていった。路面とタイヤの摩擦にハンドルが奪われ、逸れた先の縁に乗りかかり、重力の下で、大きく動く波に飲み込まれた。ウィンプルはそんな幻を見た。いつの間にかラジオで流れる音楽が変わっていて、ウィンプルは自宅の前に止まっていた。

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