3.初めては失敗し犯罪は横行する
日が降下しはじめて間もない昼下がりだった。男は立体駐車場の屋上スペースに車を止め、数日前に脅迫の電話を入れたその相手が現れるのを待っていた。備え付けのエアコンはよく効かせてあった。連れてきた二人の兄弟に言われるがまま温度設定を下げたことで、車内は大人からすれば寒く感じられるほどだった。だがそうしなければグレーとバレーのおしゃべりな口が減ることはなかっただろう。男はこの口達者な兄弟を誘拐した夜からこの時まで、まだ一度も叱りつけることができずにいた。おかげですっかりナメられている。
後部座席からグレーが唐突に言った。
「ぼくのお母さんが来たら一緒に謝ってあげる」
あるいはこの数日を通して、少し仲良くなれたのかもしれない。しかしそれは誘拐犯のするべき仕事ではない。だからこそ男は、馴れ合いは気に食わないという態度を子供たちにたびたび示し、崩さないよう努力してきた。両者との間に一本の線を引く行為が、今回の仕事を完遂するために必要なことだと信じていた。それに男は子供の相手が大の苦手だった。
「うるさい。静かに待て」
「どうして? どうして楽しく待つんじゃいけないの?」
「これは楽しいことじゃないからだ」
「えー」
「文句言うなよ、グレー」バレーが兄らしく弟を治めた。「おじさんは今、誘拐犯の役に集中しているんだ。大人は誰しも役割を楽しむものなんだ」そこには多少イジワルなニュアンスも含まれていた。しかし大人の男には聞き入れてもらえないほど微量の悪さだった。
その言いぐさを真に受けたグレーが、
「ふーん。じゃあぼくたちは?」
「ぼくたちはまだ子供。在るがままでいいんだ」
「じゃあ何言ったっていいでしょ」
「でも大人の邪魔だけはしちゃいけない」
男は運転席のドアを押し開けた。
「その通りだ。大人しくしてろよ」
そう言って外に降りた。車種だけは内側からロックを外せない仕様のバンを用意できていたが、さらって来た幼い兄弟との距離感はずっと曖昧なままだった。どうして恐怖で支配するという最も簡単にしてメジャーな手法を取れないでいるのか。あえて仲良くするというのも上手く行けば効果的なのかもしれない。タバコを一本吸い、時間を確認した。それからすぐに車に戻った。冷たい空気が彼の肌の上を一斉に逃げだす。小競り合いに決着をつけたグレーとバレーは一方的な歓迎をくれた。
「暑いから早く閉めて!」と、グレーは両手でスライド式ドアをジェスチャーした。
「遅いよねえ。まだ来ないんだもん」
バレーが言う。その口ぶりは純粋な被害者のものにも、男に共感を示す友人のものにも聞こえた。実際、約束の時間からすでに一時間が経過しようとしていた。相手の姿はおろか、この屋上を利用する他の客の姿もなかった。
「今日はすごく暑いもんね」
「暑いくらいで諦めてもらっちゃ困る」
男はクラッチを切った。車が動きはじめる。後ろからグレーが、「どこへ行くの?」特に返答はなかった。グレーもそれを気にする様子はなく、車が立体駐車場を回りながら降りるうちに、バレーと共に次の話題へと移っていた。あれだけ大好きだった本にしばらく触れていない彼らの興味は、自然と走る窓の景色に向かった。町には外国の言葉もあれば散歩をする犬もいる。ためしに電柱が出現するペースを測ってみると、みごとに何の事実も浮かび上がってこない。たったそれだけのことでも、なぜか知識欲というものは満たされるところがあった。明文化されたものだけが知識ではないのだと、グレーは頭で言葉として知り、バレーは体で感覚した。
通りを曲がり、静かな住宅街へと入った。男は数日前の夜と同じように気を張りつめ、グレーとバレーは数日ぶりの帰還に「なんだか懐かしく思えちゃう」と、心を躍らせた。
「もう二つ先だよ」
「間違えないでね」
二人は揃って窓ガラスに指を当てた。その兄弟の指の先に見える我が家は、窓が吹き飛んでいて、屋根に大きな穴が開いていて、黒い煤にまみれていた。男はその惨状を認めると、何も言わずに車の速度を上げ、トレイ家の前を通り過ぎた。
三人の乗ったバンはガソリンスタンドで止まった。すると男は率先して外に降りた。示された順序に従ってパネルを操作し、給油口を開け、ノズルを差し込み、レバーに掛けた指を引く。目前には二人への説明責任が、もっと先には今後あの二人をどうするのかという長期的問題が迫っていた。良い考えなどそうそう思いつくものではない。だからこそ男には何も考えなくていい時間が必要だった。
満タンになるまでの時間は呆気なく過ぎた。給油口を閉め、支払いを済ませて運転席へと戻る。男はグレーとバレーがいる後部座席の方に体を向けた。
「今回のことは申し訳ない。謝らせてほしい」
と、頭を下げた。
「本当に申し訳ない」
グレーとバレーはお互いの顔を見合った。先にバレーが口を開いた。
「おじさんが燃やした訳じゃないんでしょ」
「それはもちろん違う」
「なら気にする必要ないよ。まあ、おじさんがどうしても謝りたいならこのまま聞くけど」
「そうそう。それに建物が燃えるなんて小説じゃよくあることだしね」
グレーはバレーに同調した。「すごかった、すごかった」と、初めて虹を目にした子供のように興奮を見せた。
「小説ならあれで重要な証拠品が無くなったり、炎アレルギーの女の子が肌をかきむしったりするんだ」
「それはお前が最近読んでた本の話だろ」と、バレー。
「面白かったんだよね。おじさんがすぐ通り過ぎちゃうんだもん。取りに戻りたいな」
「それならぼくのも取りに戻らなきゃ公平じゃないね」
「うん、ここは公平に行こう。それじゃおじさん、もう一回行こう!」
男はまさに面食らった。世界で自分だけが何も知らないバカだったのかという気分に襲われ(自分が住んでいた家を失うことも、一緒に暮らしてきた両親が危険に晒されることも、特に気に留めるべき事柄ではなかったのか?)、またそれでも構わないと思った。
「いや、ダメだ」
「どうして? ここから来た道を戻ればいいんだよ」
「危ないからだ」
男にとって今は全てが危険だった。子供たちがあの倒壊しかけた家に忍び込むのも、火事から生き延びた両親や話を聞いて駆け付けてきた親戚と鉢合わせることも、他に安全だと自信を持って言える場所はただ一ヶ所を除いて考えられなかった。
ガソリンスタンドを出て、すぐに町を出た。揮発性の天才モノ・シズが角度世界の計算手法を用いてまで導いた地点は、男にとってはよくよく見知った道を使って到達可能だった。男は家に着いてからガレージに車をしまった。遠くの空に一日が終わった。
トレイ兄弟は、帰り際に買ってもらった新しい本を読んで、それぞれ楽しくしていた。グレーが買ってもらった本は、記憶喪失の男が有力政治家の夫人から浮気調査の依頼を受け、やがて世界の起源までを突きとめるハードボイルド探偵小説。バレーが買ってもらった本は、実際に世界の起源から終焉までをサーカスの一幕のようにつづった、全般学術文学における金字塔的作品の第一巻だった。全六十四巻に加え、第五十九巻に付属する同一世界を舞台にした伝統的ローグライクRPGを制覇するまで、まだ幼い彼らにはたっぷりと時間が残されていた。
読書に没頭する二人の隙を見て、男はこれからのことについて話をした。
「これから二人はどうしたい?」
「うん?」グレーが顔を上げる。
「二人は家に帰りたいか?」
「お母さんとお父さんは大丈夫だったの?」
バレーにとって何でもないことのような言い方だった。
「いや、ニュースを調べた限り亡くなってるみたいだ。でも親戚が探しているだろう」
男にとってはその親戚という存在が難点だった。
「ふーん。そっか」
バレーは本に顔を隠した。
グレーも顔を本に戻した。顔を下げたまま投げやりに言う。
「後はおじさんが決めることだよ」
「そうなのか」
男は他人事のように呟いた。その日は悩みっ放しで、何も決められずに眠った。
翌朝、男は夢で天啓でもあったみたいに決断が終わっていた。このまま誘拐事件を謎のままに、三人で暮らすのだ。そのことをグレーとバレーに伝えると、「やったね! おじさん!」「ありがと! おじさん!」上々の反応をくれた。
男はシャワーで汗を流し、持っている中で一番まともな服を選び、緩んでいた靴紐を結び直していた。その様子を見ていたグレーが、
「どこ行くの?」
「ちょっと行ってくる。大人しくしてろよ」
「大丈夫だよ」
グレーはてくてく引き戻り、昨晩止めた箇所から本を読み始めた。バレーは自分より分厚い本を側に抱いたままソファで二度寝をやっている。男はガレージから車を出し、再び町へ向かった。町は仕事で溢れていた。かつての才能を失い、酩酊のしっぺ返しをくらった挙句、職業案内所に辿り着いたゲロ・カルクが数ある席の一つを奪ってしまおうと、男が就ける仕事の数に大した違いが生じるはずもなかった。あるいは偶然、同じ席に座ることだってあるかもしれない。
ゲロは山道を走る車に揺られていた。しばらくアルコールを控えていたため、酔って吐いてしまう心配はなかった。
「ゲロ・カルクって言います」
ゲロは自分の隣に座る、同じく新人として入った男に言った。その男はゲロよりも苦労を重ねた分、年上に見えた。実際の年齢は大して変わらなかった。
「ウィンプル・コートです」
男はそう口にしてみて、長らく自分の本名を名乗っていなかったことを思い出した。白頭巾付き外套、修道女の法廷……。どのような解釈にせよ重要な意味は込められていなかった。
フロントガラスに巨大なダムの姿が見えてきた。
「あのダムに墜落した飛行機を片付けるんだ」
運転席から二人の共通の上司、トルキィ・マーチが言った。
「海外の会社の持ち物だったらしい。かなり時間がかかったが、やっと解体してしまっていいという話が付いた。何しろギリギリまで空から引っ張り揚げて、まだ再利用するつもりだったらしいからね。物惜しいのは分かるけど、なかなか考えることが違うよね」
ゲロとウィンプルは相槌を返した。「……へい」「……うっす」
そのまばらな反応にトルキィは笑った。
「はは。二人にはまだ難しいことは頼まないから安心して」
三人はもうしばらく山道を上った。




