2.ヒュージ・バッツ・カントリー
砂漠の入り口に差し掛かるずっと前から、二人の意識はアルコールに握られていた。赤いオープンカーは、その屋根のない構造と惚れそうになる速度で、搭乗者のもとに大いなる風を呼び込んだ。モノ・シズがアクセルを大きく踏んだ。オープンカーの出力は加速し、ドライバーとしての彼の行いにどこまでも応えてくれる。サングラスをしているゲロ・カルクは助手席で清酒入りのカップを持ち、スピーディーな飲みっぷりをみせた。ときどきは運転中のモノに横から飲ませてやることもあった。二人とも、罪の意識から遠く離れたところまで来ていた。彼らに言わせれば、飲酒運転なんかできるに越したことがない。アルコールなくしてトップスピードはあり得ないというのに、どうして飲酒運転は悪と決めつけられるのか。世間は飲酒運転がヘタな連中で溢れていると同時に、自覚なく足を引っ張る連中でも溢れていた。
しかし美しく泳ぐ白鳥は水面下において、その両方の足をバタバタさせている。飲酒運転に秀でた二人の捕まらないための努力は、今朝の早くから始まっていた。
モノとゲロは近所にあるレンタカーショップへ、そのベロベロの足で訪れてはすぐさま追い返されていた。深刻な酔っぱらっいが恐怖を捨て、気分よく運転できる車はどうしてもレンタル車に限る。それも所有者に対する世間的イメージが地に落ちているような車種がいい。そんな最高のマシンはないものかと探し歩き、かれこれ四軒目の店でのことだった。
そこのオーナーは話の分かる顔をしていた。額に浮いた汗にハンカチを押し当てながら現れ、モノとゲロの顔を見比べるとまずこう言った。
「お客さま、どうやらご気分が優れないご様子です。それになんだか……アルコールのにおいがいたします」
なんというピンチ! このままではさっきの店に続いて追い払われるだけで終わってしまう。しかし同じ轍は四度も踏まない。こういった日常にありふれた危機的状況を乗り越えられるように、ゲロ・カルクは三年ほど前から、外交官の甥と地獄の悪魔から実戦向きの交渉術を教わっていた。物腰はあくまで柔らかく接するべし。
「まあまあ」ポイントワン。
「ところで、」ポイントツー。
「この店で一番速い車はどこに?」ポイントスリー。
オーナーは「ええ?」と、ゲロの巧みな話術を前に言葉を詰まらせたが、それも最初だけだった。
「ええ、一番速いお車。奥にご用意しています」
案内された先の暗い倉庫のなかで眠っていたのは、まさに飲酒運転の帝王のために存在している真っ赤なオープンカーだった。オーナーの説明によれば、「普段なら人前に出すこともしないんですがね……これには豪勢な家が一軒買えるほどの改造が施されていまして、このヘッドライトでひとたび道を照らせば上空から深海まで通用しますし、後ろのこの鋭利なマフラーからは攻撃用の炎を噴かすことができるんですよ」ということだった。
あとは契約書の署名欄にモノ・カルクの偽名でサインをし、でっち上げた運転免許証をクルリと見せるだけ。モノとゲロはキーを貰ってジャンプで乗り込み、深々と下げられるオーナーのお辞儀をよそに勢いよく飛び出し、振り返ったときに目にしたレンタカーショップは炎がゆらゆらと燃え盛っていた。単に二人の視界が激しく揺れていただけかもしれない。彼らは飲酒運転のエキスパートであって放火魔ではないのだから。とにかく、こうして最高級のオープンカーは彼らの物になったのだった。
砂漠の風が彼らを記憶から現在に呼び戻す。相変わらず目的地までは焦点が潰れてしまうほどの距離があった。周りに他の走行車はまったくいない。二人の感覚は次第に口を閉じ、アルコールにも飲まれ、麻痺していった。すでに同じところを二回転はしているつもりだった。しかし目的地まではあと三回転は走る必要があった。それは角度によって位置が決まる世界。長大な手数の末、座標をはじき出した計算器は螺旋状に膨れ上がった。算数では目視することもままならない世界へ、友人とともにオープンカーで突入する気分はまるで想像もつかなかった。
モノは今一度ハンドルを握り直した。
「ラジオ。ラジオをつけてくれ」
と、前方から顔を背けることなく風の強い空間に言った。暇をしていたゲロはすぐにタッチパネルの操作に取り掛かった。
「ダメだ。ダサい局しか入ってこない」
「探索はし過ぎるな。デカいコウモリに虚無点シータへ連れ去られる……来た!」
モノの合図とともにオープンカーが大きく揺れて、真横から流れてきた黒い物体を避けた。その物体は風を吸い込んで膨らんだ黒いビニール袋だった。そのまま砂漠の彼方へと消失した。
一方、ゲロは操作する指を止めて言った。
「モノ。どうだい。なかなか悪くない局が入ったぞ」
ゲロが探し当てたのは海外のスポーツ実況局で、そこで話されている英語には強い訛りがあった。実況者の声はだんだんと白熱し、現地では大盛り上がりの試合が展開されているのだろうと思われた。しかしよくよく内容を聞いてみると、過去に行われたチェスの名局を男が一人で盛り上がって解説しているだけだった。『ディスナイトゥイズ、モンストゥアララァスクルィーチャー!』
「モンストゥアララス! コウモリの国を突っ切るぞ!」
モノはさらなるスピードの予感に身を屈め、流線形になった。
一方、昨夜さらわれてきた男の家のソファの上で二日酔いにうなだれるトレイ兄弟のグルグル回る瞳には、あの改造車の光が窓の向こうから自分たち目掛けて落下してくるように見えた。
「うわー!」
弟のグレーはすぐ側にいるバレーの腕を引っ掴んだ。バレーもグレーの脚にしがみつき、
「落ちるー!」
兄のバレーは自分たちの方があの光に吸い込まれていくように感じていた。
インターホンが鳴った。過剰に耳をふさぐバレーとグレー。男が玄関に出ると、そこには清酒のカップをひとつずつ手にした怪しげな青年が二人、モノ・シズとその肩の後ろにゲロ・カルクの姿があった。彼らが乗って来た車を止めてから、砂漠の風もピタリと止んでいた。
男は新たに面倒事を持ち込まれたくなかった。背中にドアを閉じた。
「何かここに用が?」
先頭に立つモノが答える。
「人を探しに来たんだ。そいつは限りなく卑劣な犯罪者に近い。だが今はまだ実行には移さずに耐え忍んでいる。こちらのデータを信じればだが」
ゲロが続けた。
「そしてもう見当はつくね」
と男にうまく定まらない指を向けた。
「多分アンタがそうなんだ」
「そうだろうね。こんな場所で他に適任の候補が出てくるとは考えづらい」
「そういうわけだ。早速話に移らせてほしい」
そう言ってゲロは男に近寄り、指していた手を今度はパーに開いて差し出した。
「何だ?」
「握手だよ。これからオレたちは仲間になるんだから」
「どういう意味だ?」
「きっとアンタにとっても無視できない話になる。このまま一生を日陰で過ごすか、世界を揺るがす大男になるか。重要な局面に差し掛かった。これまでのことは全て関係なく、これからのことだけが大切になるなのさ」
しかし男が組んだ腕を崩すことはなかった。
「だから何の話をしてるんだ? お前たちは一体誰なんだ?」
突然、男の背後にあるドアが内側から押された。その開いた隙間からバレーが退屈そうに顔を出した。
「ねえねえ、まだ? お客さんどんなだった?」
「ねえ絶対開けない方がいいよー!」
家の中からはグレーの心配する声がした。
「バカ! 出て来るんじゃない」
男は慌ててバレーを押し返した。
「うーん。はーい」
返事とともに引っ込むグレーの後ろ姿、そして家の中から聞こえてきたバレーの声色には、幼い子供ながら立派な酔っ払いの味が表れていた。男は二種類の酔っ払いに板挟みの状況に、内心うんざりしていた。包み隠す気もさらさらなく、
「帰ってくれ」
そう言い、救いようのない酔っ払い二人組に背いた。男が逃げ込むべき場所はすぐ後ろにあった。
ゲロは「待ってくれ!」と、ポイントワン。交渉術は無意識のうちに行使していた。
「アンタは小児性愛者としてはあまりにも希有だ! アンタ以外みんな暴利多売のキャラクター産業とトップ層向け秘密リゾート地に支配されてる! アンタのように羽を持った変態は今後千年現れない! その自由市場に左右されない心意気でしかこの世界の目は覚ませない! まずはアンタ自身がその目を覚ますべきだ!」
最後にカップ清酒の残りを飲み干した。現時点で彼が覚えている限りの交渉術は全てやったつもりだった。
呼びかけに男は首だけで振り返った。
「本当にずっと何を言ってんだ?」
ゲロは去ろうとする男の肩を掴まえようと、手を伸ばした。しかしその諦めの悪い手を止めたのは紛れもない友人のモノだった。男は引き留められることなく、ドアを開け、家の中に消えた。
モノは掴んだ手を放し、冷静にゲロを諭した。
「ゲロ。いいんだ。帰ろう」
「でもっ……」
「ついさっき考えが変わったんだ。だからもうすぐゲロも変わるさ。ほら、これをやるよ」
そう言うとモノは自分の清酒入りカップをゲロに渡した。
ゲロは呼吸を整えてからそれを一気に飲み干した。喉を通り、腹に落ちる。すると頭の中の暗闇に自分の落ち度が斑点となって浮かび上がる。醸造アルコール式探索により、本来辿るべきだった正規のルートを取り戻しはじめる。ゲロはモノの言うところを急速に理解した。
「……ああ、何だ。そうか。アイツは違ったのか」
ゲロは手に持った2つの空きカップを投げ捨てた。
「でもそれじゃあ、オレたちはこれからどうすればいいんだ?」
「帰るんだよ」
モノはオープンカーに飛び乗った。
「帰るって言っても、このままじゃオレは羞恥で死にそうだ」
ゲロは隣に乗り込んでからもぶつぶつ言っていた。
「そう? 僕は試したいことができたよ。付き合ってよ」
怪物のようなエンジン音がした。悪質な青年たちを乗せたオープンカーは大げさな砂煙を残し、去っていった。
その一部始終を窓からこっそり覗くトレイ兄弟がいた。
「あんなすごい車初めて! 車なんて全部つまらないと思ってたのに!」と、グレー。
「ねえ、おじさん。お客さんってどんな人だった?」バレーはむしろあの車の所有者の方に興味が行っていた。
「どうしようもない奴らだよ。お前らもビールばっか飲んでるとああなるんだぞ」
「ほんと? じゃあたくさん飲もうかな」
「あんな車にも乗れるんだ!」
男は何も言わなかった。
ボイラー博士の研究所に戻り、モノとゲロはすぐに研究に取り掛かった。モノは例の角度世界の計算手法を用い、膨大にある脳波データの中から、とりわけ感情旺盛な波の発信地点を次々と割り出した。すると使用する標本のほとんどを、理性が発達するより前の子供のデータが占めるようになる。モノは研究対象を子供に絞ることで何か興味深い事実が見えるのだと予感していた。いずれにせよ対象を絞らない検証は意味を持たない。ゲロはこの研究所を中心とする、周辺九市までを含んだマップを画像ファイルに収めた。そこにモノから渡される座標をドットで打ち込んでいった。
このドット打ち作業は最初、周辺地域において子供がほとんど満遍なく分布していることを示すに過ぎなかった。しかし標本が七百を超えたあたりから、明らかに不可解な形が地図に表れはじめた。ある一点の標本を中心に、半径を10kmとする子供の円が形成されたのだ。
モノはその特異な一点の標本をモニターに表示させた。
『男、19~22歳、虐待の可能性』
虐待の可能性は、脳波に何かしらの感情が表れた直後に過剰な理性が働くとまず疑われる項目だ。それはつまり恐怖による抑圧だった。恐怖は脳波において理性と似た働きを示すことがあり、働きに着目する際には過剰な理性という呼び方が使われた。
モノは一度手を休め、新しく清酒を開けた。アルコールが体内を巡回し、発想を絶えず転化させる。『情報高速化社会にみられる物理的遠心力について』『身の回りの電子機器の小児磁化作用』『理想主義者の拒否反応とそれが実社会に及ぼす影響』モノが思いついた様々なジャンルの仮説はすでに、他の研究者によって元となる論文がしたためられていた。それらの論文は確かに存在していた。ひとたび世に出ればどこの研究機関からも認定を受けていない秘密の論文は、アリもネズミも知りようがない地下研究空間に取り残されている。その地下空間はモノが発揮する揮発性の才能の泉だった。ひとたびアルコールを摂取することによって天才性が生じるというより天才性に接続されるという認識が正しかった。
ゲロがみせる天才性もそれと同じようなものだった。だがこの瞬間において、ゲロは掴み損ねてしまった。このたった一度の失敗は、世界に隠された神秘を落胆させるのに十分だった。再びアルコールをどれだけ摂取しようと通路は永久に閉ざされたまま、記憶に青春の幻影として古びてしまう。この先、科学がいくら進歩しようが世界の神秘が発見されることはない。そのあまりにも厳密な性質と科学の厳密な態度がお互いを寄せ付けないのだ。
ゲロはしばらくして言った。
「モノ。オレ、もうダメになったみたいだ。ごめん。就職するわ」
モノはゲロの中で起きた悲劇を仕組みから結果まで理解していた。
「分かった。頑張って」
「そっちもな」
ゲロは研究所の外に出た。空は雲一つもなく、節々に纏わりつく猛暑だった。道の隅に行き、体の震えが落ち着くまで嘔吐し続けた。自動販売機で水を買って飲み、ハローワークを目指した。




