1.さらわれた兄弟
トレイ兄弟は驚異の活字好きで通っている。その弟グレー・トレイは今日買ってもらったばかりの新しい小説にさっそく熱中し、まだ知らない言葉が出てくるとその読みや意味をマメにネット検索で引いていた。窓の外はのどかな夜で季節は夏の盛りだった。網戸から涼しい風と虫の鳴く声が入ってきた。
「反芻……はんすう。草食動物がみせる、胃から逆流させた草を噛んで再び飲み込む消化活動。また、繰り返し思考する様」
「お前はマジメだなあ」
バレー・トレイは同じく買ってもらった小説を読みながら言った。兄バレーの読んでいる小説は弟が読んでいるものよりもずっと難解なことが書かれており、その差は二人の歳の差以上にかけ離れていた。まったく嫌味のつもりはなかったが、言われた当人がどう受け取るかは計り知れないもので、バレーの読書スタイルは知らない言葉を知らないままにして読み進めるというものだった。そんな怠け者の兄が、自分よりもずっと難解な本を読んでいることを勉強家のグレーはどう思っていたのか。このとき二人はまだまだうんと子供だった。
グレーは少しムッとなって言い返した。
「別にいいでしょ。分からないものは調べなきゃ分からないんだから」
「だからそれがスゴイって話。褒めてるんだよ。ぼくにはできない」
そう言いながらバレーが目で追っている文章には、知らない言葉が一行に約六語のペースで出現し、そのたびにつまづく彼の読書する意識に、軽妙なスタッカートとなって混入した……弁証法的唯物論、白内障、緑内障、シェーダー、潮汐、ダサい女、虫篝、黄道座標系、サーキットブレーカー制度、正面玄関、動的メモリ確保、瑕疵、固有の瑕疵……バレーにとって読書とはむしろ音楽を楽しむことに近かった。この世に残された文章はすべて調子っぱずれの詩であり、発音の想像がつきさえすれば、大まかな意味合いくらいは勝手に浮かび上がってくる。正しく読むなんていう高尚な行為は二の次で、彼は楽しく、目が文章上をスイスイ滑って読めていればそれで満足だった。
「いちいち調べようと思うと、もうぼくは何が何だかって感じ」
「ふうん。ぼくはいちいち調べないと何が何だか分からなくなってくるよ」
「あはは、マジメ」
「もう。邪魔するんなら出てって」
「いやだよ。お前の部屋涼しいんだもん」
部屋の外でおかしな足音がいくつかして二人の耳に届いた。グレーとバレーはお互いを緊張交じりに見合った。
その足音はグレーの部屋の前で止まった。扉が開き、知らない男が入ってきた。
「金持ちのガキ共。騒ぐな。大人しくしろ」
「お、大人しくするよ」と、グレー。
「うんうん。なんならお金のある場所も教えようか」バレーは協力さえ申し出た。
男はしばらく「大人しくしろ」の一点張りで話を進め、「さあ、大人しく付いてきてもらおうか」と、二人に部屋の外へ移動するよう指示した。バレーは読んでいた本を床に置いて部屋を出た。グレーは本を持ったまま出ようとした。それを見て男はグレーを引き留めた。
「おい。その本を置け」
「どうして? ぼくは本がある方が大人しいよ」
「騒ぐんじゃない。いいか、何も持ってくるな」
「わかったよ」
グレーは途中のページに栞を挟んでから本を置いた。
言われるがままに玄関を出ると、家の前にはガタイのいい車が一台停めてあり、こうして二人は呆気なく連れ去られた。男の車は角を曲がり通りへと出た。犯罪の去り際とは思えないほど冷静な速度で市街を流し、赤信号に従って停止。左右両隣をファミリー車両に挟まれる。ファミリー車の窓の表面に街頭から発せられた無数の光が傾き、横に潰れた光の奥から騒ぎたい盛りの子供たちが元気いっぱいの顔を出した。子供たちは互いに手を振り合い、グレーとバレーも一緒になって手を振り返した。
運転席から男が、
「お前ら、何かまってるんだ。いいから大人しく座ってろ」
グレーは言い返した。
「だから言ったでしょ。ぼくは本があった方が大人しいって」
さらにバレーからも男の不手際をつく追撃。
「そうやって叱ってばかりだと周りから怪しまれるよ。いくら車内といえどね」
「分かった分かった。だが窓を開けたり大声だしたりは絶対するなよ」
「わかってる。そこまで話分からない頭してないもん」
グレーとバレーはそう言って、窓越しに始まっていたじゃんけん大会へと体を戻した。歩行者信号が切り替わり、決勝戦に進出したのは中央車線のバレー・トレイと、左車線の髪の柔らかな女の子だ。あと少しというところで目の前の信号が青に替わり、優勝者が決まるよりも先に三つの車線が子供たちを切り離した。
走行するほどに見える景色は寂しくなっていった。店やライトの間隔が開くようになり、すれ違う車の数がめっきりと減り、道の幅がみるみる先細っていった。それと反比例して夜空の星はだんだん見えるようになった。二人は窓に手をついて星をみることにした。学んだ知識からグレーが星座を教え、バレーがその学生となる。グレーは分かり易く夏の大三角から始めた。たて座へと指を動かし、「あれは実在の人物がモチーフとされるなかなか珍しい星座なんだ」「ふうん」
「洒落くせえガキだこと」
男は運転しながらそう小さく呟いた。言われている本人たちはまだ星に夢中であり、とうとう上空にも見えていない冬の星座の講義にまで突入している。男はさっき二人に宣言したルールを自ら破り、窓を開け、タバコに火を点けた。風を浴びたタバコはあっという間に短くなって灰皿に捨てられ、車は目的地へと星も知らぬ間に着いていた。そこには砂埃のついた車両用ガレージと、隣接したところにさらにサイズの縮こまった小屋が建っていた。
金持ちのガキ共の片割れ、グレーが車を降りてまず言ったのは、「ここがおじさんのおうち?」だった。
玄関を入ってすぐ横にある旧いスイッチ。弱々しい電気が灯り、それ一つだけで家中に光が届いた。グレーとバレーはシャワーを借り、その間に男は車をガレージにしまった。そして電話を一本、「……ああ、絶対警察には言うんじゃない。ああ……」トレイ兄弟の家に身代金目当ての脅迫を済ませた。切ボタンを押し、テーブルの上に置いた。その所作の最後まで、スピーカーの向こうから悲しみと焦りを隠せない母親の声色が耳にこびりついていた。男にとってはこれが初めての犯罪行為であり、脅迫をしたことで初めて世界に影響を及ぼしはじめたのだ。
そんな感傷と入れ替わりに飛び込んできたのは、シャワーを浴びて服を着替えた子供たちだった。
バレーがシャワーの方をさして言った。
「ドライヤーないの?」
「そんなものない」
「それじゃあ髪は濡れっぱなしのままだね」
と、グレーは彼の言う通り、髪が濡れたまま部屋をうろうろし、冷蔵庫の中身を勝手に物色し始めた。バレーも同じく濡れた髪でソファに飛び込み、今夜このソファで一番いい寝方を研究し始めた。木製の堅い肘掛けにクッションを立てかけ、枕にするとかなり寝やすくなるようだった。
グレーは冷蔵庫から缶ビールを五本持ち出して、男のもとまで寄って来た。
「おじさん、このビール飲んでいい?」
「ダメに決まってるだろ。返せ」
すぐに取り上げようとしたが、グレーが抱きかかえたまま背を向けてビールを守った。
「……ぼくたちって誘拐されてここに来たんだよ。多少は楽しいこと、いいでしょ」
ソファで寝転がっているバレーがクッションから顔を持ち上げ、
「そうだよ。無法には無法だ!」
「もうとっくに無法の状況なんだよ。ぼくたち、誘拐犯のおじさんに何も説かれる筋合いないね」
「ああ、わかったわかった。その代わり一人一本までな」
男は今度こそビールを取り上げた。グレーもその手を避けなかった。抱えていた五本が二本になり、奪われた三本は男が冷蔵庫の中に返した。グレーがビールを持ってソファに駆け寄り、バレーと一緒にプルタブを引いた。
「俺もシャワー浴びるから大人しくしてろよ」
「はーい」と、グレーとバレーは突きあげた缶を左右に振って口約束に応じた。男がシャワーに入ったことを確認すると、その間に手元のビールをさっさと飲み干し、冷蔵庫にしまわれた次のビールへと二人そろって手を伸ばした。
悪さという経験は子供の経験を一足も二足も早まらせ、悪さが与えるその後の影響は甚大といえる。そのために創造主は、この世界の各地に常識を超越した能力をもつ見張り役を置いた。子供たちの悪さはすべて、オオカミやヘビ、地獄の閻魔大王や天国の神様によって四六時中どこにいようとも見張られているという。こういった昔からの言い伝えは、近年ではその力を発揮できず、子供たちを脅かしているどころか、口が利けるようになったばかりの赤ちゃんからも科学的でないと一笑に伏され、ついには親も教えたがらないド級のホラ話扱いをされている。大人からも子供からも信頼を勝ち取れない一番の要因はまさに、見張り役の能力が常識を超越しているという点にあった。原因や仕組みが解明されていない話なんか怖くないし、おまけに楽しくもない。それが科学の時代を生きる人々にとっての常識だった。
しかしどういう訳か、グレーとバレーの悪事は非常に科学的に、とある研究所のコンピュータのもとに筒抜けだった。ボイラー・ホットウォーム博士の論文によれば、人間の感情はどれだけ内に秘めていようとも脳波に乗って外に漏れ聞こえており、特に年齢が幼いほどそれが強い形となって表れる傾向にあるというのだ。
ボイラー博士が運営する研究所で、モノ・シズは短期オペレーターとして働いていた。受信機が一人分の脳波をキャッチし、波形をモニターに映し出した。モノはやり慣れた逆算思考をし、表示された波形からおおまかな人物像について推測、ファイルに打ち込んだ。『男 7~10歳 アルコールの影響あり』この共有ファイルを多忙なボイラー博士がまた別の時間、別の場所で閲覧するという仕組みだ。
後ろから同僚のゲロ・カルクがモノの画面をのぞき込んだ。
「はは、またモノのとこに面白い波形が入ってきてる」
同僚のゲロ・カルクが隣からモノの画面をのぞき込んだ。
「ほんとにな。生意気だ。今日はもうこれで上がろうと思うけど、そっちは?」
「俺も上がろうかな」
二人は大学の研究室で知り合って以来の仲であり、他では打ち明けることすら難しいとある感覚を共有する親友の間柄だった。世界が現実的なペースで破滅へと向かっているという感覚は二十代前半に特有であり、数種類ある思春期を乗り越えた若者たちに向け、静かに用意された世界からの最後のプレゼントだ。この話題が表に出回ることはあまりない。二十代という時期はそういった感覚に苛まれながらも、同時にその世界に当てはまろうと必死に動き回る時期であり、こういった個人差の大きい感覚に関する話は自己の内側にしまっておいた方が無難な心構えとなる。しかし存在するものは存在するし、ボイラー博士が言う通り、感情は常に外向きの力を持っていて、実際には制御など利いていないようなものだ。モノとゲロの二人はそういう意味では幸運だった。最初のきっかけこそはっきりとは覚えていないが、二人の滅亡論は、他の同世代を大きく突き放し、すでに煮詰まるところまで来ている。扱いを間違えればコンプレックスにも成りかねない青年の腫瘍を、仕事終わりに飲む酒の肴にまでうまく昇華させていた。
プラスチックカップに清酒を注いで甘い香りがした。ゲロは一口で飲み干した。モノは飲んで、口元からカップを離し、テーブルに置き、言った。
「資本主義の吸収力は恐ろしい」
来る日も来る日も同じことを繰り返しているモノでさえ、そこへの介入をしなければ生きていくこともままならない現実があった。ゲロも彼と同様の境遇に身を置きながら、何度も頷き、清酒を飲んだ。
二人の擦り合わせてきた滅亡論において、この社会から逸脱する方法はもうほとんど残されていないという結論が導かれていた。たとえば二人が住むこの周辺地域では、未だに暴走族が夜に騒音を立てて走ることがある。しかしそこには彼らの暴走が脈々と受け継がれるうちに日本文化の代表例のひとつになり下がった現実が、流行との兼ね合いで商業用コンテンツのための等身大アイコンになり下がった現実が冷たく横たわっている。かつて鬱屈とした感情を乗せて走る一筋の青春の光だった暴走族たちは彼ら自身が紡いだ歴史とそれに目をつけて成功を収めた漫画の中だけに閉じ込められてしまった。現代を走るのは、せいぜい賃金がかからない文化の凱旋奉仕集団でしかない。社会に用意された枠組みを外れるにはもはや、誰も追いつくことのできない先端研究に取り組み、所属する学会から異端として弾かれ、それでも科学の精神を忘れることなく地下墓地に隠れ住み、ひっそりと研究者生活を営むほかに方法がなかった。
しかし大きな集団となった民衆は、愚かにも自分たちの構造に穴を生み出す。その穴は、その時々に存在する優れた洞察力の持ち主によって時代の突破口とも、法律の抜け穴とも利用されるが、現代に浮かび上がった今夜、モノとゲロの血中をアルコールが通い、全身を駆け巡った。ボヤケていく二人の意識の下で、オペレーター仕事の成果とシラフなら受け入れることのない妄想が線を結ぶ。そのあまりにも大胆な閃きは、モノとゲロの頭の中でほとんど同時に発生し、〇.〇八秒で処理された、大きく見誤った回路だった。
わずかの差で先に口を開いたのはゲロだった。その唇は興奮で震えている。
「……なあ、モノ。どうしよう。ヤバイ考えが浮かんだ」
モノは詳しい説明を聞くこともなく、確信に満ちて答えた。
「うん。僕も。明日にでも行こう」
こうして二人が約束を交わした酒の席の裏側、電気系統の乏しい地下研究空間では世にも奇妙な論文の執筆が行われていた。タイトルは『児童によるアルコール飲酒とそれを鑑賞する小児性愛者に見られる性的鎮静効果について』。この論文と、この論文を書くのに使用されたあらゆるデータは以降どこにも発表される機会を持たなかったが、毎晩のように仕事終わりに酒を飲み交わすことで蓄積した醸造アルコールと危険思想によってある種の天才性をまとったモノとゲロの頭脳には、地下に置き去られたあの論文の中身と、これから世界に起こる出来事のすべてがお見通しだった。この発想は極めて揮発性が高い。決して忘れてしまわないよう、二人はふたたび清酒で刻み込んだ。




