9 発露
羽留を抱きかかえたおれはノックの返事を待たずに部屋に入る。葵は寝ているものと思っていたからだ。ところが葵は起きていて、鏡の前で髪を整えているところだった。
「ああ、葵起きてたのか」
声を掛けると葵は振り返って立ち上がった。
「あ、今下に下りて行こうと思っていたところ。ハルはごはん食べたのね? ちょっと口のところについてる」
ふふ、と笑みを零しながら羽留の口に手を伸ばした葵に、羽留は顔を突き出すようにして言う。
『えー、とっておかあさん!』
「はーる、声に出して言うって言ったところだろ?」
早速テレパシーを使った羽留に、おれは突っ込みを入れた。ちょいちょい言っていかなければすぐには直らないだろう。もはやテレパシーで会話をすることは羽留にとって反射になっている。息を吸うのと同じように。
羽留は葵に口元を拭ってもらいながら、おれの方を目で見て唸った。
「うー、あうあうあ~」
今回のは全く聞き取れなかった。不満気な顔で言っているのだから、「お父さん、うるさい」かなと思ったのだがちょっと短い。
「んー? なんて言ったんだ、ハル」
頭を撫でながら聞くと、羽留はぷいっとそっぽを向いて思念を送ってきた。
『あうあうあ~ってそのままいったの! だってうまくいえないんだもん。おとうさんだってくちでいえっていってもこうやってきいてきちゃったらいみないでしょ!』
すっかり拗ねた様子の羽留は葵に向かって手を伸ばした。葵に援護を求めているようだ。葵は笑いながら羽留を受け取った。
「あら、テレパシー使うのやめにするのね? それもいいと思うわ、ハル。だって誰かお友達ができたときにお話しできないと困るものね?」
葵はわかった様子で羽留を撫でた。すり合わせもなくおれの意見に賛同した葵が気に食わなかったのか、羽留はぶすっとした顔を崩さないま何も言わずに唇を尖らせた。
その様子が可愛らしくてしばらくじっと見ていると、居た堪れなくなったのか捨て台詞を言った。もう本当に、これが生後半年の赤ちゃんとは思えない。
『おとうさんもおかあさんも、ぼくがはなせなくなるとこまるくせに!』
「ぶっ!!」
「っ……!」
思わず吹き出してしまって慌てて背を向けた。葵も声は漏らさなかったが肩が震えて笑いを堪えているのが一目瞭然で。ふたりにからかわれたと思ったのか羽留は赤い顔をしてふわりと浮いて自分でベッドに行き、器用に布団の中へもぐりこんでしまった。
「は~る~? ごめんな、からかったわけじゃないんだぞ」
おれと葵は顔を見合わせ、吹き出したくなるのを堪えながらも務めて柔らかい声を出す。
「そうなの、あんまりハルが可愛いから。笑っちゃったのはゴメンね。でも馬鹿にしたわけじゃないのよ?」
葵はこんもり盛り上がった布団の上からそっと羽留を撫でる。羽留には当然おれたちの声は聞こえているはずだが、どうもテレパシーを使うのは負けだと思っているようで、頑として返事を返さなかった。
「ハル~。……あれ?」
身じろぎさえしないまま布団にくるまっていたが、しばらく様子を見ていると、中から静かな寝息が聞こえてきた。そういえばさっき昼ごはんを食べたばかりだし、お昼寝の時間だ。ちょうどいいといえばちょうどよかったのかもしれないな、なんて思って息がしやすいようにそっと布団をめくって空間を作ってやった。
「これでよし……と。葵、お腹空いてないか? 昼飯何にしようか」
すやすやと眠る羽留の年相応の寝顔を眺めた後で、隣で同じようにしていた葵に声を掛ける。葵は慈愛に満ちた目を瞬きひとつで切り替えておれを見た。きょとんと首を傾げる姿は、子供を一人産んだ後とは思えないほど可憐で、無垢な少女のようだった。
「あれ、栄もまだ食べてないの? もう一時なのに」
「ああ、葵と一緒に食べようと思って起こしに来たんだよ、元々。じゃあ下に行って……あ、とその前に」
葵の頭をポンと叩いて、部屋を出ようと足を向けた。だが、ふと羽留としていた会話が頭をよぎった。そうだ、お母さんに聞いてみなくちゃわからないことばっかりだって羽留と話していたんだっけ。
「うん? どうしたの?」
急に立ち止まったおれを首を傾げて見上げてくる葵。――何か隠しているとか、疑いたいわけじゃないけど。
「ちょっと話いいか? ハルが変なこと言ってたから気になって」
「うん?」
廊下につながるドアに向かっていた足を反対に向け、葵を窓際へ促す。少し開けた窓から、初夏の涼しい風がふわりと入ってきた。レースのカーテン越しに緑の旺盛な裏庭を見下ろしながら、さてどこから聞いたものかと少し躊躇する。
「あのな、ハルが、『僕がお母さんに力を返せばお母さん元気になる』って言ってたんだけど……本当か」
迷ったが直球で行った。うまい具合に話を持って行けるほどの情報もないし、口が達者なわけでもない。
ばっと言葉を投げた後でそっと葵を伺うと、葵は目を細めて何か考えている様子だった。
「……ハルがそう言ったのね? でもハルが今持っている力を私に戻すことはできないわ。その力も併せてハルを構成しているのだから。それに力が戻ったとしても、私の体調とは関係ないのよ」
葵はあっさりとそう説明した。おれは少し納得がいかず、無言で葵を見つめていた。すると葵は困ったような顔で首を傾げた。なぜ私の話を理解してくれないの、そういう顔で。
「だって私、赤ちゃんを産んだのよ? 助産婦さんだって言ってたじゃない、産後の肥立ち……だったっけ? 体調崩す人もいるから気を付けてねって」
「ああ、それは覚えてるけど。でも、」
「私、気を付けてたつもりだったんだけどなぁ。何がよくなかったのかしら。次の赤ちゃん産むときにはもっとちゃんと調べないとね……」
おれの言葉を遮るように葵は続け、顎に指を当てて考えこむように窓の外を見た。
――次の、赤ちゃん。その未来を考えなくはなかったが、でも、今は、そうじゃなくて。
「葵、話聞いてくれよ。おれはただ、葵を心配してるんだ。だってもう半年なんだよ? 産後の肥立ちがどうとかって日数超えてないか?」
無垢な顔をしておれを見つめてくる葵は普段通りだったが、何故か話をうまく切り上げようとする態度にも見えた。おれは 葵の華奢な両肩を掴んで、じっと目を見つめた。
逃げようとしている、ということはきっと、大切なことを何か隠しているんだ。
「あら個人差はあるって言ってたわ? それにもう大丈夫よ。ほとんど回復したと思う。みんなに迷惑掛けちゃってごめんね?」
葵は蔭りのない瞳でおれをまっすぐ見つめ返す。動揺もしない、逸らしもしない。でも変だ、何かが引っかかる。
「違う、迷惑とかそんなのはどうだっていいんだよ、おれは、おれが言いたいのは……!」
「どうしたの、栄? お腹が空いて気が立ってるんじゃない? ごめんね、待たせちゃって。何か食べに行きましょう?」
葵は眉を寄せた困った顔で、肩に置いたおれの手の上に両手を重ね、ぽんぽん、と叩く。駄々をこねる子供をあやすような優しさで。それが今のおれのとって逆効果であることも知らずに。
「だからそうじゃないって……!」
「きゃっ」
……こわい。葵は何かを隠している。おれにちゃんと話そうとしない。
……怖い、嫌だ、葵が……どこかに消えてしまいそうで。
おれはぐっと押しあがってきた恐怖心を押さえつけるために、葵の体をぎゅっと抱きしめた。引っ張られた葵は小さな悲鳴を上げたが、すっぽりとおれの腕の中に納まって、体重を預けてくれた。
いつも通り。でも……。
「葵……葵……嫌だよ、隠し事なんてしないでくれ……! おれを除け者にしないでくれ、頼むよ。おれ一人……何も知らないで、何もできないのは、嫌だ……」
限りなく人間に近いが、葵は人間じゃない、天使だ。羽留はその力を受け継いで、状況を把握してどこか達観している。
でもおれは仕事だってまだ半人前のペーペーの大工でしかなくて。体だけでかくて話はうまくなくて、仕事以外のことは世間の常識なんかもあまり知らなくて。周りの人に支えられて何とかやってるくらいに情けない……ただの人間で。
三人の家族のはずなのに、おれだけ何も知らない、わからない。わかることもできない。でもそんなのは嫌だ。
「ひとりで抱え込まないでくれ……何かあるならおれだって一緒に考えたい。役には立たないかもしれないけど、でもおれは葵の夫だろ? 葵が大切なんだ、守りたいんだ。だから、葵……」
葵を抱きしめたまま、口が勝手に回って言いたいことを吐き出した。頭の中は真っ白で、支離滅裂。自分でも何が言いたいのかわからずにただ、恐怖と混乱と戦っていた。体も震えているような気がした。そんなことは、これまでになくて。
葵は黙ってじっとしていたが、しばらくするとおれの背中に腕を回して抱きしめ返してくれた。
「ね、栄……? 何か勘違いしてない? 私は何も隠してないよ……?」
おれはその優しい声を首を振って否定した。振動でおれが首を振ったことが分かったのだろう、葵は背中を軽く叩いて息を吐いた。
「あのね、さっき言ったことは本当よ? ハルの力を取り出すことはできないし、力を取り戻しても私も回復しないと思う。だってもうハルの力になってしまっているんだもの、私とは関係ないわ」
葵はおれに寄りかかるように体重を預け、囁いた。右の耳がおれの胸に押し付けられている。きっと早いリズムを刻むおれの心臓の鼓動がよく聞こえているだろう。
「……確かにね、力がハルに移動したことで弱ってた部分もあるの……。でもそれはほんの少しだけ。だいぶ休んだからまたバランスを取り戻したし、問題ないわ。前と同じように一日起きていられるし、一緒に出掛けられる。……ねぇ、栄? 栄を除け者にしたりなんかしないわ。だって私も栄が大切だもの。栄の奥さんだもの。ずっと一緒にいたいもの……」
とくん、とくんと響くのは、おれの鼓動なのか、くっついている葵のものなのか。温かい体温と預けられた重みが心地よくて、なんだか泣きそうになった。
葵は今、本当のことを話してくれたと思う。やっぱり多少隠してたことがあったんだな、と思う半面、ちゃんと話せば葵はいつもおれと向き合ってくれるんだ、と安心もした。
人間と天使。凸凹な夫婦だけど、一緒に時を過ごして生きたいという思いは多分、共通なんだと思う。……そう、思いたい。
窓から流れてくる風に吹かれ、抱き合う気持ちよさに浸っていたのだけれど、ふときゅるる~という音が鳴った。
「あ、やだ」
腹の虫が鳴いたのは、おれではなく葵だった。おれは一拍の間を置いて、葵の体に回した腕をほどく。だいぶ人間らしくなったものだとにやにやしながら、ここで吹き出しては羽留みたいに拗ねてしまうと笑いを堪えた。
恥ずかしそうにうつむく葵の頭をぽんと撫で、もう一度ゆるく抱き寄せてから離した。
「ごめんな、お腹空いたよな。何か食べに行こう」
「う、うん……」
少しは安心できたけれども、まだはっきり整理できたとも言えず。混乱中の情けない顔を見せたくなくて、おれは顔を背けたまま葵の手を引いた。葵も何も言わずに手を握り返し、おれについてくる。当たり前のように。
……そうだよ、当たり前だよ。だっておれたちは夫婦なんだから。
おれたちの話し声に目を覚ますこともなくすやすやと眠る羽留をちらりと見、まだ起きそうもないことを確認してから寝室を出る。
……大丈夫だ、おれたちは夫婦だ。お互い好きあって大切にしあってる、そういう夫婦なんだから。
「……な?」
脈絡もなくそういって同意を求めると、葵は一瞬きょとんとした後で首を傾げつつも、
「うん。 ……?」
と返してくれた。
――本当に愛らしい、おれの妻。
込み上げる愛しさを隠せずにまたぎゅっと抱きしめてから、状況を把握できずに目を白黒させる葵の手を引いて階段を下りた。
「親父とお袋はラーメン食べたみたいだけど。葵は何食べたい?」
「え? うーん、そうねぇ……」
――もうこれからは、迷った時は必ず葵に聞く。ひとりで心配したり、悩んだりしないで、全部葵にぶつけよう。葵はきっと、話してくれるから。おれの不安なんて「大丈夫だよ」って吹き飛ばしてくれるから。




