8 心配なこと
『羽留』と名付けられた長男は、すくすくと成長していった。
べらべら喋るわ、勝手に浮いて移動するわで、最初の頃こそてんやわんやしていたが、数日、数週間、数か月と月日を重ねていくうちに異常でもなんてもなくなり、羽留は赤ん坊らしからぬ赤ん坊として我が家の中心にでんと構えるようになった。
「ハルちゃ~ん! そろそろご飯の時間よ? こっちいらっしゃい!」
とある日のお昼。お袋が台所で大声を上げている。羽留は縁側で、親父と一緒に庭を眺めていたはずだ。おれは居間で新聞を読んでいるところだった。
『わかった~』
羽留のテレパシーは手当たり次第だ。家の中にいれば大概聞こえてくる。一度怖くなって家の外に聞こえやしないか実験してみたが、庭までは聞こえてくるのに門の外に出たら聞こえては来なかった。隣の作業場までは弱弱しく呼ぶ声が時折聞こえてきたが。
だから安心して羽留にはおしゃべりをさせていたのだが、最近ひとつ、ある懸念が浮上した。
おれは読んでいた新聞をばさっと閉じて、ふわふわと浮いてこちらにやってきた羽留を捕まえた。最近はハイハイを覚えたので、自力で這って移動することも増えたのだが、浮いて移動した方が楽らしい。
「ハル、ハイハイできるようになったんならそれで動いた方がいいよ。筋肉つかなくって動けなくなっちゃうぞ」
『え~だってこっちの方が楽~』
丸々と太って首も安定し、抱っこするときも緊張しなくてよくなった。まるで赤ちゃんらしからぬ表情を浮かべて、不満気な声を送ってきた羽留だが、自我とおしゃべりと赤ん坊本来の性質は相いれないらしく。
「気持ちはわかるけどな。お前はまだ生後半年の赤ちゃんなんだよ?」
そのまま台所に連れて行きながら話を続ける。
「成長が早くて体も大きい。同じくらいの赤ちゃんだったら離乳食が始まったくらいらしいけど、お前はもう三食離乳食だし、大人の食べ物にも興味津々だ」
台所に入るとお袋が小鍋からどろっとした離乳食を皿に移していた。
「今日はね~お肉をやわらかーく煮てみたのよ。ハルちゃんお肉食べたがってたもんね~?」
「……お袋、今ハルに赤ちゃんらしくしろって話を」
『わ~い、おにく、おにく!』
「…………」
無邪気なお袋と羽留を前に、おれは大きなため息を付く。
「……いいよ、わかったよ。好きなもの食べろ、早く大きくなれ。ハイハイもしたいときにしていいし、もう立ち上がって歩き出したとしても何も言わない。……でもひとつ言っておきたい」
小さなスプーンをお袋に差し出され、あ~ん、と口を大きく開けた羽留が目だけでおれを見上げた。ぱくん、と肉の欠片を口に入れて、もぐもぐしながら首を傾げる。
『なぁに、おとうさん?』
「……お前がおしゃべりなんでうっかりしていたけどな。おれはお前が生まれたときに泣いていた以外、お前の本当の声を聴いたことがないぞ? で、思った。……お前、声は出せるのか?」
至って真剣に、羽留の目を見つめながらおれが言うと、前で離乳食の皿をつついていたお袋がぼんやりとした声を上げた。
「……あら、本当ねぇ。そういえばハルちゃんの声って聞いたことないのね。頭の中に聞こえてくる声と同じなのかしら?」
おれの真剣なまなざしと、お袋の期待に満ちた目を受けて、羽留はきょとんと瞬きをして肉を飲み込んだ。もちろんまだ歯は生えていないので、歯茎でつぶしているらしい。
『だって。うまくはなせないから。くちではなすのはやだ』
どこで覚えたのか唇をとがらせて視線を逸らす。
『やってみたことあるけど、したがうまくうごかないの。だからやーだ』
……うーん、わかった。葵の不満気なときの素振りにそっくりなんだ。
「あらぁ、別に上手におしゃべりしなくったって、ちょっとあーとかうーとか声出してくれるだけでいいのに。お利口さんだから逆に嫌なのかもねぇ」
お袋が次の一口を羽留の口元へ持っていくと、羽留はすぐに機嫌を直してぱくんとスプーンに噛り付いた。
正直言って羽留の返答は思っていた通りだった。羽留は赤ん坊らしからぬ赤ん坊ではあるが、やはり赤ん坊なので。
大人と普通に会話できる語彙も思考も持っているが、体のすべてをコントロールできるほど発達は追いついていないため、たとえば排泄などは普通の赤ちゃん同様、おもらしする。本人にとってこれは相当不本意なことらしく、早くトイレでできるようになりたいと思っている様子なのだが、いかんせんコントロール不可なこと、気づけばオムツは満杯になっていて、しぶしぶ葵に取り換えを要請するのだ。
それを見ていておれは考えた。羽留はまったく声を発しないが――泣いてアピールする必要がない所為だと思うが――果たして声を出さないのか、出せないのか。思考ではべらべらしゃべっている羽留が、実際口に出して何かを話そうとするとき、ものすごく舌ったらずになったら恥ずかしいと考えているのでは……とおれは思ったわけだ。
「だけどハル。舌がうまく動かせないからって練習しないでいると、もうちょっと大きくなったときに困るんじゃないのか? 実際しゃべれるようになってから練習しても遅いんだぞ?」
おれの言葉に羽留は少し考える様子を見せたあとで、こくりと頷いた。そして。
「わー、た、おろ……あん」
大きく口を動かして、舌も頑張って動かして羽留は声を発した。
『ああ、だめだやっぱりうまくいえないや。なんていいたかったかわかった?』
すぐに元に戻ってしまったが、頑張った羽留の頭を撫でながら苦笑した。とりあえず、声がちゃんと出せることがわかっただけでもほっとする。
「んー? 『わかった、おとうさん』、だろ?」
流れから判断するに、だ。不明瞭この上なかったため探り探りではあったが。
『わぁ、すごい、おとうさん! よくわかったね! じゃあぼくがんばってれんしゅうするよ』
どんぴしゃで当たったらしく、羽留は目を輝かせておれを見てくれた。ちょっと誇らしげな気分になれたが、次はうまくあてられるか不安だ。羽留がその気になってくれたから今回はセーフだが。
「はい、じゃあハルちゃん、言葉の練習の前にごはん食べちゃいましょうね。早く大きくなりたいのよね?」
「あー!」
元気よく羽留が返事をした後ろから、親父がのっそりと台所にやってきた。
「母さん、昼飯はまだか? ……ああ、ハルのごはん中か、後ででいいぞ」
午前中ずっと羽留の相手をしていた親父は腹を空かせてしまったらしい。お腹をさすりながらやってきたが、おれたちの様子を見て遠慮する。
「あ、お袋、後はおれがやるからお袋は親父のご飯準備してやってよ。あと、おれのはいいから。後で葵と一緒に食べる」
おれはそういってお袋から離乳食の皿をとった。羽留にご飯をやるのももう慣れっこで、今までお袋が食べさせていたのはお袋がやりたいからそうさせていただけのこと。本当はおれひとりでできる。
お袋はちょっと残念そうな顔をして肩をすくめたが、すぐに気を取り直して親父の昼食の準備に取り掛かった。……この分だと簡単にラーメンになりそうだ。
「ほら、ハル。あーん」
「あー」
もぐもぐと口を動かしながら、羽留が再び思念を送ってきた。
『おとうさん、おかあさんはだいじょうぶかな。きょうもおきられなかったみたい』
『ああ、そうだなぁ……大丈夫だってお母さんが言っているんだから大丈夫だろう。ご飯食べたら様子見に行こうな』
『うん』
驚くべきことに、羽留が思念を送ってきたときにこちらも羽留に向かって意識を向けると、声に出さずに思念を送り返せることが分かっていた。また、そうなるとテレパシーは意識を向け合う二人だけのものになり、こっそり会話ができることも。
親父やお袋はこのことを知らないので、二人に知られたくないような、心配を掛けるような話題になったときはこうして羽留と無言のうちにやり取りをしている。
葵は羽留を出産して以来、少し体調を崩している。起きられる日は朝からしゃんと起きていつも通りに生活できるのだが、どうやら波があるらしく、体調の良くない日は朝体を起こすこともできない。
産後の肥立ちが悪い、と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、おれは本当は少しだけ、葵を疑っている。……何か、隠しているような。
言葉にできない不安が時折胸に押し寄せては引いていく。
葵を信じていないわけじゃない。何かあるのなら必ずおれに相談してくれると思っている。
だから今はただ、葵が早く回復できるように祈るのみだ。羽留の面倒は親父もお袋も手伝ってくれているし、元々手のかからない子だ(かからなすぎるとも言えるが)。葵はゆっくり養生してくれればとそう考えていた。
『いざとなったらぼくがおかあさんをまもるよ』
羽留が不意に声をだし、おれは思考の中から浮上した。
『なに? なんて言ったんだ? ハル』
『たぶん……ぼくがちからをかえせばおかあさんだいじょうぶになる。……でもおかあさんいらないっていうから。それははるにあたえられたものだから、なにかりゆうがあることだから、はるがもっていたほうがいいって』
『??? ……何の話だ?』
『ぼくはおかあさんをまもりたいよ。おかあさんがくるしいのはやだ。ぼくはとべなくたっておはなしできなくたってかまわないんだよ、ほんとうは』
羽留の話は掴みがたかった。恐らく葵との間で何かの話をしているのだろう。羽留は何かを――力を? 返そうとしていてそれを葵が拒んでいる……らしい。それはなんとなくわかった。
『おれにはよくわかんないけどさ、ハル。ハルの力をお母さんに返すと、お母さんはすぐに元気になるのか? お母さんがそう言ったか?』
食べさせながらの思念での会話だったので、羽留のお皿はすっかり空になっていた。哺乳瓶に入った白湯が傍にあったので、それを飲ませながら会話を続ける。
親父とお袋はいつの間にか居間のテーブルでラーメンを啜りだしていた。
『え……? それは……そうはいってない……。でもぼくのちからはもともとおかあさんのものだから、かえせばきっとげんきになるんだよ』
羽留は自分で哺乳瓶に手を添えてごくごくと飲んでいたが、不意に顔を上げておれの顔を見た。まるで赤ん坊らしくない、真剣な表情。
『……とにかくお母さんに話を聞いてみなきゃな。お父さんにはよくわかんないことばっかりだ』
肩に抱き上げてぽんぽん、と羽留の背中をたたけば、羽留はけふっとげっぷをした。本当はげっぷだって自力でしたいらしいが、こうやってたたいてもらった方が楽に出るのだそうで。
くてっと体重をおれに預けた羽留を肩に乗せたまま立ち上がる。心は既に子供を通り越して大人のようなのに、体はどうしようもなく赤ん坊だ。こんな小さくて、軽い体でそんなにたくさんのことを考えるのは負担過多だとおれは思う。
不思議な妻と子供の間で、ふつうの人間であるおれ一人が無力だ。もっと葵と羽留の役に立てればいいのにと思いながらも、おれにできることなんて……あるんだろうか。
黙り込んだ羽留を抱っこして食器を片づけ、二階へあがっていった。秘密ばかりの妻の話を羽留と一緒なら聞けそうな気がして。心の中の不安を抱えたまま、葵の眠る寝室のドアをノックした。




