10 手繰り寄せる糸
アーレリーという天使は、アルシェネほど感情や自我を持っていたわけではなかった。ほんの少しだけ、自らの仕事に疑問を持って、でもそれでも任務を遂行する優秀な天使だった。
だが天国の管理をする若い神――雨じいが言うところの堅物中の堅物――は、そんなアーレリーを邪魔に思った。「完璧に作られた秩序の中に、異分子はいらない」そう言い切った若い神の目は、眼鏡の向こうで冷え切っていた。
雲じいは首尾よく件の若い神に会い、古神の貫禄で(老人の無邪気さとも言う)最近の天国についての話を聞きたいと世間話に持ち込んだ。押しかけのお客なのでお茶も自分で出し、相手を自分のペースに巻き込んでから、さりげなくアーレリーの話を振った雲じいであったが、肝心のアーレリーの行く先はいまだ聞けずにいた。
「それで……のう。お前さん、その天使をどうしたんじゃ? 話に聞くところによると、人の世界に飛ばしたとか……」
目の前の神が、自分の時間を乱されて苛立っているのは分かっていた。能天気な老人を装って話を引き延ばしてきたが、そろそろ限界だ。雲じいはお茶をずずっと啜りながら、直球を投げた。今まで聞けなかったのは、それが本命の情報であると悟られないためだ。もっとも、頭の回転の速そうな若い神は、雲じいの思惑に気づいたかのように、左の眉を少し上げて、不審そうに雲じいを見てきたのだが。
「珍しい話じゃからの、他の神の間でも噂になっとるよ。お前さん、自分で知らなかったのか?」
暗にみんな知っている話だ、とハードルを下げると、若い神はひとつため息をついて嫌そうに話した。
「適正を持って生まれてくる天使は、要らないからと言って別の仕事へ回すわけにもいかないでしょう。私の部下として生まれたからには、私の命令に従ってもらってなんら不思議はないと思いまして」
「ふむ、そうじゃのう、不思議はないの」
雲じいは軽快に相槌を打つ。
「天国もだいぶ規律化できましてね、システムとしてはもうほとんど問題ないほどに構築できたのですが。天国にやってくる魂たちが……一言で言ってしまえば我儘、でして」
若い神が初めてはっきりと表した感情は嫌悪だった。吐き捨てるように言った表情からは、彼がそのことにどれだけ苛立っているかが分かる。
「……ほう、我儘、とな?」
「人間とは本当に面倒な生き物です。体を無くし、思念のみを残す状態になったというのに望むことが多すぎる。いっそ無に戻った魂は人間ではない他の生き物へとすべて回し、人間が生まれないようにした方が世界のためのような気もします」
「おいおい、そりゃちょっと極端じゃな……」
雲じいは苦笑いを浮かべて話に付き合う。これがアーレリーの行先へどう繋がるかはまだわからない。
「ええ、極論ですね。それは私も分かっています。ですから仕方なく、人間のことをもっと学び、情報を整理した方がこちらにとっての有益ではないかと考えまして」
本当はそんなことをするのも嫌なんだろうなぁと思わせるような、苦々しい顔で若い神は笑った。神として生まれた責任感がそうさせるのだろうが、もし世界を滅ぼせるような力を持っていたら、彼はもうすでに人間の世界の一つや二つを完全に破壊していただろう。
「アーレリーはそういう意味では都合が良いでしょう? 私はあれを手放したい、そして人間の世界のことも調べたかった。だからあれにその仕事をさせるのが一番効率がいいと思ったので、飛ばしたのです」
人間の言葉で『一石二鳥』とかいうんだったな、と雲じいは頭の隅で思う。そして、話題はだいぶ雲じいのほしい情報まで近づいてきた。あともう少し……。
「しかし人間の世界と言っても、今は結構な数じゃろ? どの世界を調べることにしたのかね?」
うまく、かかれ。
あくまでさりげなく、さりげなく。お茶に視線を落として自分も考えている様子で。
「ええ、そうですね。やはり一番古くからあるあの世界が一番発展していて死者も多いので。我儘な魂の割合もあの世界が一番多くて厄介ですから」
……かかった。
「ほう、まぁそうじゃのー、最初の世界じゃからの、実験的でもあった……。わしもあの世界の天気を弄ることもあるよ、どれ、今度我儘を言いそうな老人の頭に、雷でも落としてやるかの」
にしし、と笑って言ってやると、若い神は悪い笑みを浮かべて頷いた。本心から雲じいが実行してくれることを願っている笑みだ。……どうやら忌々しく思っていた人間の世界に鉄槌を下してくれそうな雲じいの存在に少し心を開いたようだ。嫌な話でもって通じ合うなんて、ろくな友好関係ではない気もするが。
共犯者のような黒い微笑みを交し合った後で、雲じいは暇を告げた。必要な情報が手に入った以上、長居は無用。
若い神も最後はまんざらではないような様子で、雲じいを送り出してくれた。「ぜひ雷をお願いします」と晴れやかに笑った彼に、雲じいは苦笑して手を振る。
手を振り、少し廊下を歩き、移動。
再び自分の執務する宮の一室に戻ってきた雲じいは、怒れる雨じいがそこにいないことをそっと確認し、寝室へと引っ込んだ。寝室はプライベートなエリアなので、いかに昔馴染みといえ雨じいも許可なく入ってこない。
「……さて……最古の世界か……ふむ、よく考えれば確かにの、あそこが一番複雑化はしておるか」
寝台にごろりと横になり、雲じいは脱力した。
うまく話を持っていくために多少緊張していたらしい。普段からのらりくらりしているせいで、ここぞという場面での消耗が激しいのだ。
「アーレリー、か。まずは夢でも渡ってみるか……。あの子が天使なら夢も見んが、人間の世界で生きるには多少人間らしくもなっているはずだしの……」
世界を直接渡るより、夢を渡った方が手間も労力も掛からない。さっそく雲じいは目を閉じ、夢の入り口を探して意識を落とす。上手いことアーレリーが眠っていてくれることを期待して……。




