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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第二章
75/128

7 ファーストコンタクト



……ああ、なんて。


 なんて非情なんだろう。


 この子にその業を負わせるの? 私が母親だから? 私が産んだから?


 そっちの都合を押し付けるのはやめて。


 たとえ私が大きな手の上で転がされる存在だとしても、この子は関係ないでしょう?



   *



 意識がどこか深い場所へ落ちていくのを感じていた。

 いつだったか同じようなことがあった気がするけれど、思い出せない。記憶力だけはいいって思っていたのに、やっぱり私は欠陥のある天使なんだ。だから天界にもいられなかった、そうなのだと納得する。


【アルシェネ】


 ……誰かの呼ぶ声が聞こえた。と、同時に引き寄せられるようにその意識と対面した。


【やぁ、アルシェネ。地上の生活はどう? 楽しい?】


 頭の中に響く、楽しそうな声。くすくす笑いながらの声は若くも聞こえるし、歳をとっているようにも聞こえる。


【やだなぁ、歳とってるなんて。ボクなんてたったの……あれ、どのくらい存在してたっけ? まぁどうだっていいね、そんなこと】


 ……心を読まれている。それが不快に感じたのは初めてだった。天界で暮らしていた頃、それは当たり前のことだったというのに。


【はは、それだけ人間の暮らしに慣れたってことでしょ? ボクにとってはいいことだね。重畳重畳!】


 楽しそうなその何者かの意思に抗って、私は自分の感覚を掴もうとする。けれども働いているのは聴覚だけ、瞼は開けようにもひどい眠気に襲われたようにぴったりと閉じて開かず、うっすら白い光を捉えるだけだ。

 何がどうなっているのかわからず不安になって、水の中でもがくように必死に体を動かすのだけれど、何の感触も捉えられない上にそもそも自分の体が、手がどこにあるのかさえもわからなかった。


【あー、ごめんね。ボクの姿見られたくないから感覚に介入させてもらってるんだ。あんまり無理をしないほうがいい。力を使うのもよくないと思うよ。これからごっそり持って行かれるんだから、少しでも温存しないと】


 ……どういう意味? 私は見えない相手に向かって問いかける。口は動かない。だから頭で考えるだけ。


【キミのお腹に宿っているその魂さ。もうすぐ産まれるね。キミの力をその身に宿して……なんて言えば聞こえはいいけど、実際のところ“奪って”っていうのが正解なのかな。多少寝込むくらいで済むとは思うけどね。全部持ってかれるわけじゃないし】


 ……意味がわからない。眉をひそめているつもりで目の前の相手を睨みつけた。


【それにしても上手くいってよかったよ。これで計画倒れになったらこの次の手はどうしよっかなって悩むところだった。キミを選んで正解だったね。まぁキミ以外の選択肢もなかったといえばなかったけど】


 わかるようなわからないようなことばかりを並べ立て、本人は至極楽しそうに笑っている。こちらにきちんと事情を説明する気はさらさらないらしい。……よくある神の在り方だ。 ――神?


【そーでーす。あれ、気づくの今さら? ちょっと遅いんじゃないのアルシェネちゃん。勘はいい方だと思ってたけど……地上の生活に慣れすぎて鈍った? まぁそうだよね、そうだよね。天界にいたときみたいに誰彼の顔色を伺って仕事に失敗して怒られる心配もないしねぇ。存在自体を隠して人間の中に紛れてしまえば、安心安全に暮らせるもんね。キミのダンナさん、イイ人っぽいし。よかったよねぇ】


 ……嘘。


 天界にいたときの私のことも、地上に降りてからのことも知っている。栄のことも……。目の前にいるだろう神に私は戦慄し、後ずさった。実際は体の感覚がなかったのでそういう気持ちになっただけだったのだけれど――気配の穏やかさが逆に恐ろしかった。


 ……何をどこまで知っているの?

 

 けれども目の前の存在は私の怯えを喜ぶかのように、笑みの気配を濃くした。

 

【強いて言うなら、すべてを】


 これまでの長ったらしい発言に比べ、端的に言い切られた言葉が怖かった。


 ……全て、を。


【そう、ボクはすべてを知っている。過去に起きたことも、今現在のことも。そしてこれから起こることも。だから先手を打った】


 声に真剣味が増した。ずっとのどの奥で笑っていたくすくす声も止み、空気が緊張に締まっていくのがわかる。


【……キミには迷惑かけるよ、実際。キミ本来の在り方とは関係のないことに巻き込んだんだからね。でも……】


 ふふっと笑う声を漏らしながらも声の冷たさと圧迫感が増していく。


【もう関わってしまった以上、キミはあの世界を見捨てられないだろう? キミの家族、友人、それにキミの子供も生まれる世界を】


 ……完全に事後承諾のように聞こえますが。


 強い圧力に自然と敬語になってしまったが、なんとか意趣返しをしたくて思いを吐き出す。

相手の言っていることを整理するならば、もう関係してしまったから無視できないだろう、協力しろよ、という脅し文句と同義だ。苦しいくらいに圧迫してくる気配も承諾を引き出すための道具。


【ああ、わかる? ごめんね! でもそもそもボクって、キミをどうこうするのに本来許可とかいらない立場だから!】


 私の意識を引出し、感覚に介入し。その上でわかりやすいほどの圧力をかけられる存在。それはただの神にはなしえない力業。


【今こうして魂だけ引っ張ってるのもボクなりの温情だと思って? あ~ボクの知り合いが知ったら驚くだろうなぁ、めんどくさがりなボクがアフターフォローするんだもの、天地がひっくり返ってもおかしくない! あ、でもひっくり返ることはない! 残念!……ふふっ、人間の言葉って時々面白いよねぇ、使いやすいし】


 ケラケラと笑い出した、声の主本来の明るい気質が苦しいほどの圧力を逃がし、私はほっと息をつくことができた。

 すべてがわざとだとわかっていても、従わざるを得ない。気配で圧迫されようとも、脅し文句を言われようとも鵜呑みにする他とれる方法はない。拒否権などないのだ。この存在に対抗する術はない。

 ……そう思わせてしまう、この声の主。子供のような声と話し方は上辺だけ。……私は目の前の存在の正体に見当をつける。でも、本当に? 天でも噂にならないほど存在の不確かなあの伝承が、今私の目の前に? 


【あら、勘が戻ってきたみたいだね。さすが大天使、力を与えられているだけあるね。ボクと少し会話しただけで鈍ってた感覚を取り戻すとか、やっぱり見どころあるよ。……さて、気づかれちゃったところでそろそろタイムオーバーかな】


 首を竦めて笑ったような気配がする。“時間切れ”と目の前の存在は言うが、私は結局何のために『彼』と対面したのかが全く分からない。


【あーごめんごめん。ボク説明とか嫌いだからどうしてもね。……えーっと、最後に言わせてもらうことは……ああ、キミの存在はもう少し天にはバレないように隠蔽させてもらうよ。キミを探し回っている神には半ばバレちゃってるけど、そっちは思惑通りだから好きにさせとく】


 ……私を探している、神?


【あ、そうだ、この辺の記憶はちょっといじらせてもらってたんだよね。まぁ今の生活には支障ないことだし、そのままでってことで。後は……あ、コレ大切だな】


 ……記憶を弄られている? 私の? 記憶が?


 なんだか混乱してきた。私の記憶が改竄されている? 何が? どこから?

 ……私は、天界に生まれた天使で、でも一人だけ感情を持っていて。いつの間にか地上にいて、栄に出会って。


【うんうん、そのくらいの認識でオッケー。大丈夫、時が来れば思い出すし今だけだから。で、最後に言うね。一番大切なこと】


 『時間切れ』、その言葉の意味が分かった。意識はまた遠ざかる。明るい光の下から、安寧の闇へ向かって。


【キミの子供はいずれボクがもらう。世界の為に必要な犠牲だ】


 信じられないほどに硬質なものへと変化した声が、理解し難い内容を告げる。


【キミは全部で四人の子供を産むだろう。その内の一人、もしくは二人。未来はある程度書き換わるから断言できないけど、少なくとも一人はボクがもらうことになる】


 ……何、なんなの、一体。

 触れるわけでもないお腹を探して、腕の感覚を動かす。

 赤ちゃんが、私のお腹の中の赤ちゃんが。


 ……奪われてしまうの?


 焦りの中で急速に遠ざかっていく声は最後の最後にまた、呪詛を放った。


【まぁ今現在のキミが覚えていたとしてもいいことにはならないだろうから、この記憶、消しておくね。元気な赤ちゃん産みなよ、心配はしてないけど。じゃあね】


 ……覚えておかなければならない情報でしょう、今のは……!

 目を見開いたつもりでも、視界は既に暗く、さらに働いていない視覚で映し出せるものはなかった。意識に霞がかかっていく。


 ……忘れちゃダメ、子供……のこと……だから……


  必死に意識を巡らせて、会話の内容を記憶しようとする。けれども闇がすべてを覆い隠すとき、意識が途切れる寸前に、それまでの思考がどこか、奥深くの方へ潜っていくのを感じた。自力では手繰り寄せることのできない、深淵へと隠されていくのを……




   *




『おかあさん、おかあさん』


 小さな声が聞こえる。ここ数か月の間に、すっかり聞きなれた声。


『おかあさん、おかあさん、だいじょうぶ?』


 ……大丈夫よ。でも何が? 何のこと?


 心配そうな声音にとりあえずの返事を返す。浮上していく意識の端で、眠りから目覚めることを悟る。


『だっておかあさんいま……。ううん、いいや。ねぇ、おかあさん、ぼくもううまれてもいい? もうじゅんびできてるから』


 ……え? だってまだ予定日じゃないのよ?


 あとひと月ばかりあるはずだ。あんまり早く生まれてしまうと未熟児の可能性もあるから、赤ちゃんを急かさないようにって助産婦さんには言われていた。精神面の安静が大切だって。


『だいじょうぶだよ、ぼくはもうつくられてる』


 ――つくられている。

 不似合な言葉を放ったきり、息子は沈黙した。代わりにお腹の辺りが熱くなり、鼓動がはねた。……走る、痛み。


「うっ……」


 突然襲ってきた激しい痛みに声を上げると、傍にいてくれたのかお母さんが声を掛けてくれた。


「アルちゃん? どうしたの、大丈夫?」


「はぁっ……うぅ……」


 パンパンに張った状態のお腹が、今にも割れそうに痛い。割れてしまうことはないとわかっているし、息子の宣言通り生まれてくるのだろうこともわかっている。でもこの尋常じゃない、耐え難い痛みはどうしたことだろう。


「……っ、おかあ、さん……! もうすぐ……うまれ、ますっ!」


 呼吸すらも苦しい合間になんとかそれだけを伝えると、私は痛みに集中した。断続的に襲ってくる激痛。息を吸っても吐いても、逃しようのない苦しみ。

 出産に痛みが伴うことは聞き知っていたが、これほどまでとは。それとも早く生まれると言った息子が何か関係しているのだろうか。


「アルちゃん、アルちゃんっ! しっかりしてね! 今助産婦さん呼ぶから!!」


 遠くの方でお母さんが呼びかけてくれるのがわかる。でも応えることはできない。息が苦しい。体も熱くなっているような。


 ――無事に、無事に生まれて。私は大丈夫だから、どうか無事に生まれて……!!


 それだけを願い、後は痛みに翻弄されるまま、呻き、身を捩っては荒い呼吸をすることしかできなかった。



   *



 ……そうしてどれくらいの時間が経ったのだろう。


 私は見慣れた天井をぼんやりと見つめていた。ここ数か月ずっと寝起きしている客間の天井。端っこの方に蝶のようなシミがある。

 明かりのついていない暗い部屋の中、私は私以外の気配を感じ取っていた。


 すぐ頭の横にある小さな気配。

 ぐっすりと眠っていることがわかる、規則的で健やかな寝息。どこかほっとするような匂い。


 ――ああ、私の赤ちゃんだ。


 ふぅ、と息を吐いて目を閉じた。よかった、無事に生まれたのね。

 痛みが下へ落ちて行って、最後にずるりと抜け出したところは覚えているが、途中で意識が途切れてしまっていたようだ。


「ふぅ……」


 もう一度大きく息を吐いて呼吸と気持ちを整える。


 ……もうすでに起きてしまったこと。決して覆ることはない。

 けれども。


……どうして……!!


 泣きたいような気持で目を開けた。見えるのは天井ばかり、それでも私はその向こう、大きな空を思って睨みつけた。




   ……ああ、なんて。

 

   なんて非情なんだろう。


   この子にその業を負わせるの? 私が母親だから? 私が産んだから?


  そっちの都合を押し付けるのはやめて。


  たとえ私が大きな手の上で転がされる存在だとしても、この子は関係ないでしょう?




 ――私の体を形作っていた力が、この子の中に移されている。気配でわかる、元は私の力の波動。

 空っぽになったのはお腹の中だけじゃなかった。体の中にあった大きな力の塊が、削られているのを感覚で捉える。


 天使としての力が、この子の中に……。


 一体何が起こるのか。

 この子に、私に。


 どの能力が開花するのか、どの能力に支障が出るのかを判断することもできずに途方に暮れる。


 ……栄に、なんて言ったらいい?


 私の羽の力を持ったこの子が、いつかどこかへ飛んで行ってしまうかもしれないなんて。

 私自身が、どうなるかわからないなんて。



     *



「葵……? 起きたのか?」


 すっと障子が開いて、薄暗がりの中に栄の低い声が響いた。足音を殺すように、そっと近づいてくる気配。

 労りと、優しさで固められたような、栄の気配。


「……栄……。 おはよう。赤ちゃん……産まれたよ」


 ぼんやり呟くと、栄は私の傍にしゃがんでふっと微笑んだ。


「うん、知ってる。もうおれ抱っこしたよ、ちっちゃくて軽いんだ。葵も抱いてあげたらいい」


 心底嬉しそうなその笑顔。私の頭を撫でてくれる。手の平の温かさ。


 ――その瞬間に、私は決意した。


 何があっても、私がこの子を守る。

 優しい栄を傷つけないように。

 羽の力も、もしかしたらこの子を守るためにうまく使えるかもしれない。

 羽そのものが、この子を守ってくれるかもしれない。

 だから。……すべてこのままで。


 栄に促されて初めて抱いた赤ちゃんは、柔らかくて、軽くて。じっと私の顔を見つめてくるそのまなざしが、栄に似ていて嬉しかった。


「……はじめまして、私の赤ちゃん。……ハル」


『……はる……? ぼくのなまえ……?』


 夢の中で聞いていた声が、目を合わせていることでもっとはっきりと流れ込んでくる。きょとんと瞬きをした、可愛らしい赤ちゃん。

 

「……ええ、そうよ。ハル。春に生まれてくれたから、春」


 春生まれの、春。私たちの、最初の子供。


 ありがとう、無事に生まれてきてくれて。


 元気に育ってね。大きくなってね。

 いつか私がいなくなっても、栄を守れるように……。



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