✥8『血の英雄。』
――ず、ずず、と、
合成された人工的な甘酸っぱい香りが鼻腔の奥をツンとくすぐると同時に、
まるでどろりとした血のように重苦しい赤いゼリーの塊が、私の渇ききった喉の奥へと滑り落ちていく。
大雨が上がり、湿ったヘドロと濡れたアスファルトの混ざり合う、
生温かい不快な風が吹き抜け始めた、午前中の瑞々しい街角。
街灯には、開業5周年を祝う『ソラミール』の水色のフラッグが等間隔に並び、湿った風にパタパタと音を立てている。
その空々しいほど爽やかな色が、今の私の目にはひどく毒々しく映った。
早朝にあの恐ろしい悪夢から跳ね起き、
目の眩むようなホテルのスイートルームで鼎さんとの通話を終えた私は、都会の喧騒へと静かに滑り出し、
近くにあるありふれたコンビニのひさしのついた軒先に身を潜めていた。
そうして、パウチに入った赤いトマト味のチューブゼリーを、
ただ周囲を拒絶するように目立たない場所で黙々と口に吸い込んでいたのだ。
熟れきったトマトを丸ごとすり潰したかのような、あるいは新鮮な内臓をそのまま凝縮したかのような、禍々しいほど鮮烈な色彩の赤。
それが私の今朝の、唯一の朝食だった。
赤い液体を喉へと無理やり流し込むたび、私の脳裏には、あの中学校の大部分を一瞬にして木端微塵に吹き飛ばした、
あの携帯電話の真ん中にある『赤いボタン』の光が解き放たれた瞬間が蘇る。
そのたびに、私の胃の底がじりじりと焼けるように熱くなり、奇妙な吐き気と戦慄が背筋を駆け上がっていった。
いま私が身に纏っているのは、
今朝、ホテルのプロのクリーニングサービスが、昨夜の泥汚れや焦げ臭さを跡形もなく完璧に洗い流し、
糊をぴしりと効かせて美しい折り目を立ててアイロンをかけておいてくれた、あの黒いセーラー服だった。
私の髪の毛は、いつもの毎朝と全く変わらずにいつも通り、きっちりとした腰まである三つ編みに結い上げて、顔には叔父の遺品でもあるアルミニウム合金のフレームに支えられた、瓶底のように厚いレンズの丸メガネが不格好に鎮座していた。
どこからどう見ても、
学校の規則を忠実に守るためだけに生きているような、生真面目腐った女子中学生の姿そのものだった。
――だが、
今の私の格好は、それだけで終わるような生易しいものではない。
その完璧に洗いたてのその綺麗な制服の上から、私はあの学校の瓦礫の底から降ってきた、
爆風の勢いで裾や袖がズタズタに引き裂かれてしまった漆黒のコート風、雨具のカッパを深く羽織っていた。
煤と熱風にまみれて変色し、ホテルのクリーニングでもそれ以上綺麗にならなかったそのカッパは、奇妙なことに、
どこか退廃的で前衛的なダメージ系のロングコートのような異様な存在感を放っている。
その裾から覗く私の足元は、
学校の跡地となった死体と瓦礫で出来上がってしまった地獄の上を踏み潰し、歩いた無骨なミリタリー系の頑丈な革靴だった。
お堅い優等生としての徹底的な生真面目さと、戦場をくぐり抜けてきたかのような凶悪なミリタリーの要素。
それらが絶妙に調和を失い、歪に融合して混ざり合う私のシルエットは、街ゆく大人たちの目には、
まるで大人しい子供がある日唐突に世界のすべてを拒絶してぐれてしまったかのような、底知れない不良の雰囲気を強烈に漂わせていたに違いない。
そんな奇妙な格好のまま、
私はコンビニの自動ドアから流れる電子音を聞きながら、チューブゼリーを持っていない方のもう片方の左手で、
あの銀色の携帯電話を壊れそうなほど強く握りしめ、受話器を耳の奥へと宛てていた。
携帯の緑のシンボルカラーの向こう側から、ボイスチェンジャーによって重々しく歪められたトロイの二重の音声が、明確な不満と困惑を孕んで私の鼓膜を震わせた。
『水琴、
僕は君の端末の位置情報しか見られないとは言ったけれど、君がその携帯のシステムを使って決済をすれば、
通信の履歴から君が何を買ったかくらいは手にとるように全て分かるんだよ。
……だからさ、一つ言いたいことがある。
せっかく僕が、電子決済を無限に使えるように設定してあげたというのに、君がその力で最初に行った買い物が、そのコンビニの安っぽい携帯食のゼリーだけというのはどうなんだろうね?』
トロイはまるで、自分がプレゼントした最高級の決済カードを、
世間知らずの子供にしょうもない安物で無駄遣いされた親のように、ひどく不満そうな音声を響かせてきた。
国家レベルの金融ネットワークすら玩具のように支配する異常な資産と、規格外の仕組みを操るこの人物にとって、私のささやかな買い物は理解しがたいものらしかった。
しかし、私はそんなトロイの小言なんて一切気に留める風もなく、無表情で赤い液体をずず、と吸い上げた。
「……残念だけど、あんなことがあったばかりで、頭の中が完全にひどい状態になっている今の私の胃には、これ以外の他の食べ物は一切受け付けない」
私は、感情の失せた声で冷たく言い返した。
「それに、もし私に普通の食欲が残っていたとしても……、
今さっきの電話で、いつも私のために毎日家にきて食事を作ってくれている人の料理を、
あんな嘘まで吐いて断ったんだよ?
そのすぐ直後に、
別の場所で自分だけ贅沢に美味しいものを食べてのんびり笑っているなんて、申し訳なくて絶対に食える気がしない」
毎日欠かさず家に通い、
私のためにタッパーに心を込めて詰めてくれた、あの唯一の温かい日常の象徴。
それを自らの保身と嘘の手で、ゴミ箱へ廃棄させてしまったのだ。
その罪悪感という重い十字架が私の胸に刺さっている限り、私の喉は、無限の富がもたらす美食の類を、身体が本能的に一切拒絶するようにできていた。
『……君は、恐ろしいほど図太いんだか、
馬鹿がつくほど真面目なんだか、本当に僕の予測の範疇を簡単に超えてくるな、水琴』
私は受話器の向こうのそんなトロイの呆れた言葉を聞き流しながら、おもむろに携帯電話の左下にある、自動車のマークがついた『青色のボタン』を親指の腹で深く押し込んだ。
カチッ、という小さなクリック音が鳴るとモニターに表示されたトロイの木馬のシンボルカラーが青になり、
移動手段の呼出しの起動を告げた。
直後、午前中の光が反射するコンビニの建物の物影から、亡霊のように静かに一台の黒塗りのタクシーが現れた。
……相変わらず、その車のすべての窓ガラスは濃いスモークのすりガラスのようになっていて、外の強い光を拒絶し中身の様子を窺い知ることは一切できない構造になっている。
タクシーが私の目の前に速度を落としてピタリと停まると、後部座席のドアが滑らかに自動で開いた。
私はすりガラスの奥を一瞥し、
ふと、ある違和感に気づいて受話器へと低く呟いた。
「ねえ、トロイ、
この車、昨日私が学校から乗ってきたあの大型車とは、別の車よね?」
私のその鋭い指摘に、
緑の回線の向こうの人物は、私の観察眼を称えるようにフッと喉を鳴らした。
『あぁ、気づいたかい?
あの車はね、どうやら現場の初動捜査で、
警察の中でもよく目の肥えた刑事に足跡(タイヤ痕)を見つけられてしまったみたいだったからね。
……だから、あっちの車はすでに主要なデータは削除し、向こうの警察網を引きつけるための精々の『デコイ(囮)』としてそのまま働いてもらうつもりで決められたルートを走っているところだよ』
――朝倉刑事たちが追い始めたあのタイヤ痕。
それすらも、この人物にとってはすでに用済みのチェスの駒に過ぎず、逆にそれを利用して警察を迷宮に叩き込むための囮としてあえて泳がせてあるのだという。
異常なほどに頭が回る、
このトロイという人物の冷徹な知略のスケールに、私の背筋を小さな戦慄が走っていた。
私は、
まだ中身の残っているパウチゼリーを右手に持ったまま、無人のタクシーの奥深いシートへと滑り込んだ。
開いたドアの隙間から一瞬だけ見えた運転席の光景には、やはりそこにハンドルを握る人間の姿などなく、
ただ複雑に入り組んだ配線と、鈍い青光を発するコンピューターが異質な存在感で静かに鎮座していた。
現代の技術を遥かに凌駕するオーバーテクノロジー並みの完全自動運転車だ。
私が完全に乗り込んだのを車内のセンサーが検知したらしく、車のドアがバタンと重厚な音を立てて静かに閉まり、無人のタクシーは滑らかに発進し始めた。
トロイが私の移動手段として用意したこの特殊な乗り物には、
当然ながら、一般のタクシーにあるはずの走行距離や運賃を示す料金メーターなどは最初から一切動いておらず、
そもそも表示すらされていない。
外界のすべての雑音が完全に遮断された、耳が痛くなるほどの静寂の車内。
私は左手に銀色の携帯電話を握り直した。
『それで、これからどうするんだい?
水琴、』
緑の回線から、トロイが私の次の『意志』を問うように質問してくる。
私は分厚く丸いレンズのメガネのフレームを車内の淡いデジタル光に反射させながら、
シートに深く背中を預けて低く淡々と応じた。
「……とりあえずは、
あなたのあのドローンがどれぐらいの機能なのか、この目でちゃんと確認したい。
だから、最初の廃墟ビルを破壊した時と同じで――この街にある『よくないところ』の掃除でもしようと思う」
――世界を正す。
その言葉の通り、私は手にした絶対的な破壊の力を、ただ振り回すのではなく、
自分の完璧な制御下に置くための本格的な
『実験』を求めていた。
私のその冷徹な提案を聞いたトロイは、受話器の向こう側で、
演技なのか、それとも本音なのか、
わからないが歓喜に歪んだ電子の笑みのような気配を響かせた。
『わかった。
では、君の求める情報を僕のデータベースからピックアップして開示しよう』
トロイがそう応じた、
まさにその瞬間だった。
私が座っている後部座席の正面、
前のシートの背もたれ部分に客席用として埋め込まれている、四角いテレビの液晶画面が、パチパチと不気味に電子の瞬きを始めた。
次の瞬間には、それまで音声が流れていない状態でニュースなどの映像が映し出され続けていた画面は完全に書き換えられ、
吸い込まれそうなほど鮮烈なブルーのデジタル光とともに、画面内には膨大なテキストデータと、リアルタイムに近い監視カメラの静止画が目まぐるしく表示され始めた。
そこに映し出されていたのは、
この街のルールを裏から歪めている、いくつもの『よくないところ』のリストだった。
悪質な犯罪グループのアジトや、日常的に暴力を繰り返している不良組織の溜まり場。
かつての私を踏みにじっていた額山たちと同じ、あるいはそれ以上に邪悪な大人たちの不穏なデータが、目の前のテレビ画面を冷たく、青く照らし出している。
世界を裏から見下ろすような、とんでもない精度の情報網だった。
私はシートに深く腰掛けたまま、その客席の液晶画面へと不気味に手を伸ばした。
真面目腐った三つ編みと丸メガネの奥の瞳で情報を精査し、自らの意志で世界の歪みを消し去るための、
次なる最初の標的を完全に画面内で見つけ出すと、私は画面内の『決定』の文字が光るボタンを、自分の指先で静かに、力強くタップした。
システムに標的の位置情報がインプットされ、液晶画面の文字が固定される。
その作業を終えた安堵からか、私は右手に持っていたトマトゼリーのパウチを無意識に少し強く押し潰してしまっていた。
パウチの口から、血のように真っ赤なドロドロとした液体がほんの少しだけ溢れ、私の唇の端を赤く汚す。
私は、
手の甲でその口元の赤を乱暴に拭いとる。
手の甲についた生々しい赤を見つめていると、 胸の奥から、言い知れぬ暗い自己嫌悪がせり上がってくる。
かつて学校で『吸血鬼』と嘲笑われていた私が、今や本当に、他人の血を啜って生きるようなおぞましい存在になってしまったかのような錯覚。
「……私、本当に、
怪物になっちゃったのかもね」
自嘲気味に呟いた私のその細い声は、
受話器の『緑の回線』を通じてトロイの耳へと届いていた。
すると、トロイは受話器の向こう側で、
どこか優しく、けれど諭すように、ふっと穏やかな音声を響かせてきた。
『水琴、君は吸血鬼と聞いたら、まずは何のイメージを浮かべるんだい?』
「……え?
……吸血鬼といえば、あの物語に出てくる、
ドラキュラ伯爵だろうけれど」
唐突な質問に戸惑いながら私が答えると、トロイは音声の向こうで、
小さく頷いたような気配を出して言葉を続けた。
『そうだね。
だけど実はね、ドラキュラには小説のモデルとなった実在の人物が、歴史上に本当に存在するんだよ。
ヴラド・ツェペシュという名の、
とある国の領主だ。
だけど彼は、決して物語のような化け物(怪物)ではなかった。
彼はね、他国からの理不尽な侵略から、自分の愛する守るべき場所を必死に守るために、
あえて侵入してきた敵の人間たちを、たくさんの残酷な殺し方をして見せしめにしたんだ。
……そうすることで恐怖を植え付け、結果として、自国に世界で一番平和な時代をもたらした英雄でもあるのさ』
トロイはそこで、受話器の向こうから静かに、私を肯定するように告げた。
『敵を無慈悲に排除して、自分の大切な場所を守ろうとした。
……そこは、いまの君と全く同じだね。
だから水琴、あまり自分を怪物だなんて卑下するような考え方はしない方が良い。
君はただ、世界を正すための引き金を引いただけなのだから』
うんちくを交えた、
彼なりの不器用で、けれどこれ以上ないほどに優しい、私という存在を全肯定してくれる慰めの言葉。
口元を拭った手の甲を見つめながら、私は丸いレンズをはめ込まれたその眼鏡の奥の赤い瞳を、静かに細めた。
吸血鬼。怪物の王。
悪を駆逐するためなら、私はその名に塗れたって構わない。
システムに行き先をインプットされた自動運転車は、私の胸の覚醒を肯定するように低く不気味な駆動音を上げ、エンジンが力強く唸りを上げた。
漆黒のスモークガラスに覆われた車体はさらにスピードを上げ、標的の待つ場所へ向けて、煙る午前中の街へと滑るように走り去っていった――。




