✥7『家と嘘。』
――ぐぅっ、と、
耳が痛くなるほどの静寂に満ちた最高級スイートルームに、あまりにも情けない、私の胃袋の鳴る音が小さく響き渡った。
世界を正す、とトロイに向かって大真面目に宣戦布告した直後のことだ。
締まらないことこの上ないけれど、身体は正直だった。
思い返せば、昨日の朝に我が家で家事代行の鼎さんの作ってくれた朝食を食べたきり、昼休みは額山たちに校舎裏へ無理やり引きずり回されたせいで、私は昼食を一切口にしていなかったのだ。
あの時、鼎さんが持たせてくれたお弁当もあったはずだ。
けれど、あの学校の大部分が一瞬で消失した凄まじい大爆発の規模を考えれば、私を通学カバンや教科書、普通のスマホもろとも、跡形もなく木端微塵に吹き飛んで消滅してしまったのは間違いない。
日常のすべてをあの焦土に置き去りにしてきてしまったのだ。
そうして一度、ご飯のことを思い出してしまうと、私の思考はドミノ倒しのように、家に残してきたはずの日常へと向かってしまった。
(鼎さんは、今ごろどうしているのだろう……)
胸の奥が、冷たい氷を押し当てられたようにキリキリと痛み出す。
テレビのニュースは、今や私があの赤いボタン一つで消滅させた『廃ビル爆破事件』と『私立✕✕✕中学校の爆破事件』の連続爆破事件の話題でもちきりのはずだ。
家事代行として我が家にきて、いつも部屋を清潔に保ち、母親の代わりに温かい食事を作り置きしてくれていた気さくなあの人は、
今ごろ私の安否を本気で心配して、泣いているかもしれない。
しかし、そう一度思うともう頭から消すことができず居ても立ってもいられなくなった私はトロイに聞くことにした。
「……ねぇ、トロイ、
一人だけどうしても連絡したい人がいるの、……どうしたらいいのかな?」
✥
✥
✥
――家事代行の鼎 朝子は、
その日の朝、
いつも通りに水琴と短い言葉を交わし、学校へと向かう後ろ姿を温かく見送った。
水琴とその母親が暮らすマンションの部屋に残った朝子は、いつものようにプロフェッショナルな手つきでテキパキと動き、リビングや水回りをピカピカに掃除し終えた。
さらに台所に立ち、残された水琴がいつでも食べられるようにと、栄養バランスを考えた数日分の美味しい作り置き料理をいくつかのタッパーに分け、冷蔵庫の中に整然とセットしていく。
そうして一通りの仕事を完璧にこなし、
時計の針が昼を回った頃。
朝子はダイニングの椅子に腰掛け、持参してきた自分用のお弁当を開いて、
静かに遅めの昼食を口に運んでいた。
ふと視線を向ければ、外の窓ガラスには、今朝の天気予報で言っていた通り、思った以上に激しくなった大粒の雨が叩きつけるようにして、ベランダに響いていた。
雷の音もすごくて
この後、水琴ちゃん帰りは大変かも、と思う。
仕事には含まれていないが場合によっては 迎えに行ってあげた方がいいかもしれない。
――そう思った時だった。
唐突に、世界がひっくり返ったかのような、雷のような巨大な大音響が轟いた。
同時に、経験したことのない凄まじい地響きがマンションの鉄筋コンクリートを伝い、朝子がいたリビングの床や家具を、ガタガタと不気味に激しく揺らした。
「わわっ!? な、何……っ!?」
朝子は思わずお弁当を持つ手を止め、ダイニングテーブルに両手を突いて身をすくめた。
……直下型の大きな地震だろうか?
慌てて立ち上がり、
リビングの大きなテレビの電源を入れてニュース番組のチャンネルを開く。
テレビで放送されているのはいつも通りの番組で地震が発生したというようなことを一切言ってはいない。
「……?」
朝子が首を傾げ、見ていると唐突にニュース速報特有の不気味な警告音と共に画面が替わり、アナウンサーが口を開き伝え始める。
そして、その画面に映し出されたのは、
地震の速報ではなく、それは
朝子の心臓が凍りつくような内容だった。
『――たった今、入った情報です。
本日午後、市内の私立✕✕✕中学校において、大規模な大爆発が発生した模様です。
現在、上空のヘリコプターからの映像が入ってきています――』
画面内でアナウンサーの言葉を聞いた瞬間、朝子は息をすることすら忘れてテレビの前でその画面を固まった石像のように見つめていた。
画面の向こうに現地のアナウンサーの音声と共に映し出されていたのは、 凄惨という言葉すら生ぬるい、跡形もない焦土の景色だった。
つい数時間前、
このマンションから水琴を笑顔で見送った。
そして彼女が通っているはずの校舎は、その形などほとんど残っておらず、ものの見事にすべてが瓦礫の山と化して倒壊していたのだ。
辛うじて形が残っているのは、爆心地から奇跡的に外れたと思われる学校の横の小さな物置と、泥だらけのグラウンドに寂しく佇む防球ネットのみ。
それ以外のすべてが、
粉々に潰れ、引きちぎられ、
黒い雨の中に沈んでいた。
「嘘……そんな、水琴ちゃん……っ!」
朝子は完全に顔を青ざめさせ、
震える手でポケットから自分の個人スマートフォンを引っ張り出した。
以前、何かあった時のためにと、水琴と交わしたアドレス帳の連絡先を開く。
祈るような気持ちで、水琴の番号へと発信ボタンを強く押し込んだ。
耳元にスマホを当てる。
だが――。
『――おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』
返ってきたのは、死んだように無機質な機械の音声だけだった。
何度かけ直しても、呼び出し音すら鳴らずに無惨に回線が遮断される。
あの壊滅した学校の映像を見れば、それもそのはずだった。
水琴のスマートフォンは、あの瓦礫の底で、カバンやお弁当と一緒にすでに粉々に吹き飛んで大半の原型を失い破片となって破壊されてしまっているのだ。
「水琴ちゃん!
お願い、出て……っ!
嘘でしょ……っ!」
繋がらないスマホを握りしめ、
朝子は土砂降りの雨に煙る窓の外を見つめながら、涙が溢れてくるのを止められなかった。
その後、朝子は少しでも情報を得ようと、
水琴の母親でありこの部屋の雇い主でもある彼女のスマートフォンへ必死に連絡を試みた。
しかし、そちらの方も一向に連絡が通じない。
これほどの大事件が発生したのだ、街全体の通信回線が急激にパンクし、
電波が極端に重くなっているのも原因の一つだろう。
だが何より、
普段から仕事人間である彼女の母親は、勤務時間中は基本的に一切の連絡を絶ち、
電話が通じなくなるのが常だった。
……おそらく、
事件を知った母親とようやく連絡が取れるようになるのは、どんなに早くても今日の夜中過ぎになるだろう。
大人たちの冷え切った断絶が、こんな有事の際にも朝子の行く手を阻んでいた。
これ以上ここにいても何の情報も得られない。
やがて時計の針だけが進み、
朝子はやむを得ず、今日の終業時間になったこともあって、所属している会社へと帰ることにした。
家事代行サービス会社
『スマイルファミリー・サニー』。
代表の与島さんが経営するこの会社は、与島さんの一家が三人に、
朝子を含めた従業員が五人、合計八人という、本当に小さな規模で運営している温かいアットホームな会社だ。
事務所へと戻った朝子は、すぐに社長である与島さんに水琴ちゃんが爆発に巻き込まれたかもしれないという動揺を話し、
その後、それぞれの代行先から帰ってきた他の四人のメンバーたちとも、今日の凄まじい中学校の爆発事件について話し合った。
サニーが契約している他の家庭を洗ったところ、私立✕✕✕中学校のほかにも、他に三件の家で、同じように子供たちが今回の事件に巻き込まれた可能性があるという恐ろしい話が浮上した。
事務所の中は言葉を失うほどの心配と恐怖の空気に包まれたけれど、こればかりは警察からの公式な発表や現状がはっきりと分かるまではどうしようもない、ということで、その日は各自重い足取りで家路へと就くことになったのだった。
✥
✥
✥
――そして、事件の起きた翌日。
次の日の朝も、朝子は会社へと出勤し、
事務所で事件の続報に関する軽いミーティングを行った。
テレビのニュース番組は、未だに学校の崩壊と全滅の話題から一歩も動いておらず、
警察の初動捜査が難航していることを告げ続けていた。
ミーティングを終えた朝子は、
居ても立ってもいられず、昨日と同じく契約した職場でもある水琴の家へと急いだ。
預かっている鍵で扉の施錠を開け、
静まり返った冷たい我が家へと足を踏み入れる。
「水琴ちゃん……? 見込さん……?」
静かな室内に、朝子の声が虚しく響く。
けれど、部屋の奥からは何の返事も返ってこなかった。
普通の家事代行であれば、週に一度だけ部屋を片付けにくるような契約が一般的なのだろう。
だが、朝子と見込家の契約は違った。
普段から仕事が多忙を極め、
ほとんど家に帰ることができない母親の代わりに、朝子は毎日この見込家に通う契約になっていた。
毎日部屋を掃除し、
毎日水琴のために温かい食事を作る。
あまり帰ってくることのない母親の温もりを知らない水琴にとって、日々顔を合わせる朝子こそが、実質的な家族であり唯一の心の拠り所だった。
だが、水琴は家には帰っていなかった。
キッチンへ向かい、
冷蔵庫の大きな扉を開ける。
昨日、お昼に自分が丁寧にセットした夕飯用に作ったタッパーの美味しい作り置きの料理たちは、位置一つ変わらず、
中に詰まった中身も一ミリだって減っていなかった。
「やっぱり、帰ってない……。
どこに行っちゃったの、水琴ちゃん……」
朝子は冷蔵庫の前に立ち尽くし、
冷気が溢れる暗がりのなかで、再び絶望に胸を締め付けられていた。
しかし、仕事は仕事ということもあって、私情に流されるわけにはいかなかった。
朝子は仕方なく、いつも通りに部屋の掃除を始め、そして昨日の昼にセットしたその、
一ミリも減らなかったあの作り置き料理の処分を淡々と行うことにした。
昨日心を込めて作ったはずのおかずを、自分の手でゴミ箱へ廃棄していく虚しさが、
彼女の心を静かに削っていく。
水琴の母親とは、昨日の夜遅くにようやく連絡が通じていた。
――だが、
母親の方も今回の未曾有の事態でかなり忙しくなっているのか、電話越しに冷徹な声で
『最低でも三日は戻れない。
最長だと一体いつになるか分からない』
、という話だった。
そればかりか、母親は実の娘の安否を本気で心配している風でもなく、
ただ事務的にこう告げたのだ。
『警察の捜索救助隊の活動で、あの子の
『確定的なもの』が見つからない限りは、そのまま家事代行の仕事を継続してください』
――確定的なもの。
つまりは、
遺体や遺品が発見されて死亡が証明されるまでは、契約通りに働き続けろという意味だった。
だから朝子は、こうして主のいなくなった部屋で掃除機をかけている。
ただ、どこか寒々しく寂しくなってしまったその部屋で、一人きりで仕事をこなすのは、
朝子にとって肉体的にも精神的にもかなり辛いところがあった。
静寂に耐えかねてリビングのテレビをつけると、地上波のもう全てのチャンネルが、
前日の廃墟ビル爆破から始まった私立✕✕✕中学校の連続爆破テロの特番を放送していた。
画面の中では、専門家を自称する大人たちが、深刻そうな顔をしてあれこれと解説している。
本当の真相なんて何一つ掴めていないくせに、ただ自分たちの都合のいい憶測や綺麗事を並べ立てて時間を潰しているに過ぎない。
――結局、みんな他人事だ。
当事者ではない彼らにとって、
数百人の中学生が消滅した地獄すら、ただの消費されるニュースの一コマに過ぎないのだ。
テレビの前の朝子は、画面の向こうの白々しい大人たちに向けて、底の抜けたような諦念とともにそう思った。
その時だった。
ジジッ、ジジッ、と――、
朝子が身に纏っているサニーのエプロンのポケットの中で、彼女の個人スマートフォンが突然、重々しいバイブレーションを上げて振動し始めた。
もしかしたら、会社の与島社長や、他の代行スタッフからの緊急の連絡かもしれない。
朝子は慌ててエプロンに手を突っ込み、端末を引っ張り出して画面を確認した。
しかし、液晶に表示されたその発信元の『電話番号』を見た瞬間、
朝子は小さく眉を潜めて動きを止めた。
『 [UNKNOWN_SAT_ID_01] 101-XXXX-XXX2 』
「え……何、これ……?」
朝子は思わず声を漏らした。
普通の携帯番号でも、固定電話の市外局番でもない。
見たこともないアルファベットの識別コードと、不自然に並んだ奇妙な数字の羅列。
それは、世界的に見ても、
異形極まりない文字列だった。
あまりにも不審だし、
普段の日常であれば、こんな怪しい着信をわざわざ取りたい気持ちには到底ならなかっただろう。
ただ、今の状況が状況だ。
学校が全滅し、水琴の安否が一切分からない極限状態のなかで、朝子は一筋の可能性すら無視するわけにはいかなかった。
もしかしたら、警察からの特殊な連絡か、
あるいは水琴の母親の関係者からの、何らかの手がかりかもしれない。
一刻も早く現状を知る必要があると判断し、
朝子は乾いた生唾を飲み込みながら、スマートフォンの画面に表示された緑色の通話アイコンを、意を決して強くタップした。
受話器を恐る恐る耳へと宛てる。
「……もしもし?」
相手が一体何者なのか、
これっぽっちも分からなかった。
もしも新手の巧妙な特殊詐欺や悪質な悪戯電話だったりすると嫌だったので、
朝子は自分の名前をあえて名乗ることはせず、電話の最初の文言だけを警戒を孕んだ声で口にした。
――最初、電話の向こうではただ張り詰めたような無言が続いた。
ただの不気味な無言電話なのかと、朝子が不審に思ってこのまま通話を切ろうか悩み始めた、その時だった。
受話器の向こう側から、細い声が聞こえた。
『……もしもし、鼎さん、ですか?』
その声には、
はっきりと聞き覚えがあった。
何よりも今この瞬間、朝子が一番、死ぬほど聞きたかった愛しい少女の声だ。
「水琴ちゃん!? 水琴ちゃんなの!?」
朝子が質問すると、向こう側で小さく、
けれど確かな響きで応答があった。
『……はい』
よかった。
彼女は、水琴ちゃんは生きている。
それが分かった、
ただそれだけの事実だけで、朝子の心の底から張り詰めていたすべての絶望が、雪解けのように一瞬で安堵の涙へと変わっていった。
「ああ、よかった……!
本当に、本当によかった……っ!」
崩れ落ちるようにソファーの縁に手をつき、朝子は溢れる涙を拭いもせずにスマートフォンの向こうの少女へ声を震わせた。
「昨日はどこにいたの?
学校に行ってなかったの?」
朝子が質問すると、受話器の向こう側の水琴は少し考えているのか、
しばらくの間、空白の無言が続いた。
そして、どこか躊躇うように小さな声が返ってきた。
『……実は、昨日、途中で体調が悪くなって早退していたんです。
だけど、帰ろうと動いていた時にあの事件が起こって……。
それで電車も止まってしまって、仕方なく友人の家に泊まっていたんです』
「……そうだったの」
水琴が爆発の前に学校を早退していたということを聞いて、
朝子は胸の動悸がようやく収まっていくのを感じ、深く安堵の息を漏らした。
実際、
昨日の昼過ぎにあの大爆発が起きた後、市内全域の公共交通機関は完全に麻痺し、
電車はすべて運行を停止していたのだ。
今日の早朝になってやっと一部が動き始めたくらいである。
「じゃあ、今日帰ってくるの?
どこにいるか言ってくれれば、
私、今からすぐに車で迎えに行こうか?」
『いえ、大丈夫です。
……あと、多分、
もうしばらくは家に帰ってこないと思うので、作り置きの料理とかは、もうしなくても大丈夫です』
「え……?」
水琴は電話の向こうで、
少し何か戸惑い、焦っているような気配を滲ませていた。
家にしばらく帰らない、という奇妙な言葉。
普通なら大人が引き止めるべきところだったけれど、朝子は受話器を握りしめながら、
水琴の胸の内を想像して思い直した。
つい昨日、自分の通う学校が一瞬にして爆破事件によって消滅したのだ。
少なからず、彼女の心の整理ができるまでは、あまり大人が詮索せずにそっとしておくべきなのかもしれない。
――朝子は、彼女の痛みを自分なりに理解しているつもりだった。
「……そう。じゃあ、
もしお迎えが必要になったら、いつでもすぐに連絡してちょうだいね。
……あ、それと、もしかしてと思うんだけど、
水琴ちゃん今、誰かの携帯電話を借りているの?
なんて言うか、
見たこともない変な電話番号が表示されているんだけど……?」
朝子が耳からスマホを離して再び画面をもう一度見ながら尋ねると、
スマホの向こうで、水琴は一転してわたわたとした、明らかな動揺を隠せない声を上げて説明を始めた。
『あ、実は、
元々の携帯が昨日壊れちゃって……っ!
それでさっき携帯ショップに行った時に代替機を貸してもらったんだけど、それがちょっと、そういう感じで……!』
必死に言い訳を並べ立てる水琴のその子供らしいわたわたとした焦り方に、朝子の口元にようやく少しだけ、
いつもの温かい微笑みが戻ってきた。
……きっと、大事件に巻き込まれてスマホも壊れて、色々と大変なことが一気に押し寄せてパニックになっているのだろう。
朝子はそう思いながら、
まるでお母さんの代わりに諭すように、受話器の向こうの少女へ優しい注意を投げかけた。
「分かったわ。
でもね水琴ちゃん、いくらお友達の家だからって、夜中に一人で出歩いたりするのは絶対にダメよ。
それから、知らない大人に声をかけられても、絶対についていったらダメだからね」
『……はい』
「帰る時になったら、
いつでもいいから連絡するようにね。
待ってるから」
朝子はそう言って、水琴の無事を心の底から祈りながら電話を切った。
ぶつり、という切断音。
――しかし、朝子はまだ何も知らなかった。
ニュースのヘリ映像が残酷に映し出している通り、あの中学校の校舎は跡形もなく倒壊し、
教員も生徒もほぼ全員が全滅しているのだ。
学校にいたはずの、水琴の『友人』が、
いま生きて家にいて、水琴を泊めてくれているはずなどないということに……。
その不自然極まりない水琴の『嘘の矛盾』に、
朝子は今はまだ、全く気がついていなかった。




