✥9『執行者。』
鷄頭吾住という男は、
その日もいつものように、
ただ奪い、
ただ消費するためだけに生きていた。
彼には、常人なら一生をかけて背負うべき凄惨な過去がある。
中学生の頃、
両親との間に生じたとてつもない不仲と憎悪の果てに、彼は家にいた父親、母親、幼い妹、
そして祖母の合計四人を、自らの手で容赦なく惨殺したのだ。
血の海と化した我が家から、彼はそのまま裏社会へと逃げ込み、
以来、日の当たらない闇の底を這い回ってきた。
しかし、鷄頭はこれっぽっちも反省などしていない。
言ってはなんだが、彼は生まれつき記憶力が病的に悪かったのだ。
自分が殺したはずの血の繋がった家族の顔も、その時の悲鳴も、彼はとっくの昔に綺麗さっぱり忘却の彼方へと消し去っている。
そんな彼の壊れた精神性は、
裏社会の犯罪組織からすれば、これ以上ないほど『使い勝手のいい存在』だった。
極めて直情的で、言葉よりも先にすぐに拳と凶器が出る。
記憶力がないから機密情報を目の前で話したとしてもその情報が外に漏れることがない。
そして恐怖も倫理も持ち合わせていないため、組織の障害となる邪魔者を消すための『鉄砲玉』として使えば、これほど便利で従順な狂犬は他にいなかった。
何より、彼はことごとく、どんな修羅場からも毎回しぶとく生き延びてみせた。
これまでの人生で鷄頭が手にかけてきた人間の数は、もう数知れない。
けれど、彼はその誰一人として名前も数も覚えていなかった。
男にとって何よりも一番重要なのは、
たった一つ。
いま自分がこの場所で息をして、生きているということ、それだけだった。
そんな狂犬の彼が、いま組織の上層部から直々に命じられている仕事は、
とある『拠点の警備』だった。
街の中心部から完全に外れた、
鬱蒼と生い茂る深い森の奥深くにひっそりと隠されているため、その存在を知らない一般の人間が偶然辿り着くことなど絶対に不可能な、地理的にも完全な隔離地帯。
さらに恐ろしいことに、この場所の存在は、
当時から裏社会の人間たちとべったりと癒着し、汚職の甘い汁を吸い続けてきた警察組織のなかのごく一部の腐った警察官たち以外、表の警察内では誰もその存在を知らない。
上層部によって完全に情報が握り潰され、隠蔽され続けているのだ。
大人の汚い都合によって生み出された、世界から見捨てられた犯罪の温床。
国からも、まっとうな法の光からも完全に切り離されたその場所は、今や国内の犯罪者たちだけがたむろする場所ではなくなっていた。
戸籍も身元も持たない海外からの密入国者や、危険な流入者たちが次々と闇に紛れて流れ込み、彼らの巨大な巣窟となっている、完全なる『違法隔離都市』へと膨れ上がっていたのだ。
それゆえに現在、この広大な未完の都市は、この街で最大最悪の『巨悪の拠点』として機能していた。
ある病棟の地下では『臓器売買』の闇手術が日常的に行われ、
別の病棟では『違法薬品』の大量精製が進められている。
さらに、関係者住宅だったはずの廃墟は、人身売買、売春、闇の富豪たちが大金を賭けて狂い叫ぶ『裏カジノ』の巣窟と化していた。
元々は医療都市を作る巨大プロジェクトによって多くの人が集まっていた。
……しかし、バブルの崩壊によって計画が頓挫し、病棟が五棟、関係者住宅が八棟も未完成のまま放置された幽霊都市となった場所である。
その比較的大規模な犯罪セクターを警備するために、組織は鷄頭のような命の軽い狂犬たちを何十人も雇い、
周囲に不気味な包囲網を張らせていたのだ。
そんな古くなりコンクリートの剥がれた古い病棟の軒先で、
鷄頭は豪雨上がりの湿った風を浴びながら、獲物を待つ獣のように目をぎらつかせていると、彼の背後の薄暗い廊下からだらしない足音を響かせながら一人の男が近づいてきた。
「おい鷄頭、交代だ。
お前は昼飯でも食ってこい」
「ウッス、先輩。
了解しやした!」
鷄頭は声をかけてきた男の顔を見つめながら、小気味のいい声で瞬時に応答した。
実際のところ、彼は目の前にいる男の名前も、いつから組織で一緒なのかも全く覚えていなかった。
ただ、男のまとう特有の横柄な空気から『おそらくこいつは俺の先輩だろう』という、長年の闇社会の勘だけで予測をつけて調子を合わせているに過ぎない。
先輩と呼ばれた男が軒先の警戒へと就くのを見届けながら、鷄頭の頭の中に、ふと、ある純粋な疑問が浮かび上がった。
(はて……?
俺は今日、昼ご飯をもう食ったんだったか?
それとも、まだ食ってなかったんだったか?)
自分の腹に手を当ててみるが、さっぱり思い出せない。
何を食べたかの記憶はおろか、
空腹感という生理的な感覚すら彼の脳内では曖昧だった。
いや、今しがた目の前に現れた『先輩』がわざわざ自分の所まで来て
『飯を食ってこい』と言うのだから、
おそらく自分はまだ昼飯を食っていなかったのだろう。
鷄頭はそれ以上の思考をあっさりと放棄して納得すると、そのまま錆びついた鉄扉を押し開け、建物の奥深くにある食堂へと向かって歩き出した。
――数十年前、
過疎化の波に完全に搬まれる前あたりまでは、人々の命を救うために日々尽力していた医療従事者たちが、束の間の休息として温かい食事を口にしていたであろう、その五つの病棟に囲まれた広大な食堂。
それが、いまや社会の生ゴミたちが泥臭い顔で飯を貪り食い、
血塗られた利権を分け合うための最悪の吹き溜まりの場所となっていた。
鷄頭は厨房のカウンターの向こう側に立つ、擦り切れたエプロン姿のアジア系の外国人料理人に向けて、いくつかの中華料理を指差しで適当に注文した。
料理人の男は金歯を覗かせて満面の笑みを浮かべ、捲し立てるように何かよく分からない母国の言語で喋りかけてきたが、
鷄頭は最初から聞く耳を持たず、適当なジェスチャーと適当な相槌を発することでさっさと注文を済ませた。
名前も言葉も覚える必要はない。
目の前に温かい飯が出てきさえすれば、それで良かった。
しばらくすると、厨房の男の指示を受けた若い外国人の女性が、お盆に乗せられたいくつかの料理を鷄頭のテーブルへと運んできた。
並べられた中華料理の中央に据えられたいくつかの深皿は、常人が見たら一瞬で顔を青ざめさせて眉をひそめ、あるいはその場で激しく嘔吐してしまうような、あまりにもえげつない代物だった。
それは、まっとうな市場には絶対に流通しない、ここが巨大な違法隔離都市だからこそ手に入る『特別な部位』を調理した一皿だった。
この廃病院のさらに奥、陽の当たらない地下の闇ルートから密かに回されてくる、出所の分からない特殊な食材。
この歪んだ世界の冷酷な悪の温床の果てに、この世界に形を成して生まれることのなかった、無垢な生命の残渣――。
一般の人間が持つべき倫理観のすべてが根底からひっくり返ったような、
悍ましき悪魔の食卓。
しかし、過去に自分の家族すら手にかけた鷄頭は、そんなことなど一切お構いなしだった。
彼は大皿を見つめて下品に喉を鳴らすと、並んだメニューのなかでも、
ひときわえげつないそれへと真っ先に箸を伸ばし、大量に掴んで大きな口を開けて一気に頬張った。
「……あァ、こりゃあ、
美味めえな、絶品だぜ」
その料理は、表面を少し強めの油で絶妙に揚げられており、
噛み締めた瞬間に外側がパリッと小気味いい音を立てた。
それでいて、まだ完全に形成されきっていない内側の肉質は、驚くほどとろっとした濃厚な質感に仕上がっている。
何より、まだ骨にすらなっていない柔らかな軟骨組織は、前歯でかじりつくたびに簡単に、コリコリ、コリコリと、生々しい音を立てて口の中で簡単に砕けていくのだ。
素材の生々しさを完全に覆い隠すような、濃厚な甘辛い特製のタレの味付け。
鷄頭は口の周りを甘辛いタレと脂でギトギトに濡らしながら、かつて自分が惨殺した家族の肉体の柔らかさすら思い出すことなく、
ただただ目の前の極上の『肉』を満足そうに咀嚼し、貪り喰らい続けるのだった。
そうして一通り皿の上の肉を平らげ、胃袋を満たした鷄頭は、いつものルーティンとして胸ポケットから一本のタバコを取り出した。
この完全なる違法隔離都市のなかだけで密かに流通している、強烈な依存性と独特の刺激を持つ特製の『ケムリクサ』だ。
使い古したライターで先端に火をつけ、濃厚な紫煙を深く肺の奥まで吸い込む。
吐き出した瞬間、頭の芯がじんわりと痺れ、 とてもすっきりとした心地よい気持ちが彼を支配した。
細く、長く、
至福の紫煙を気だるげに吐き出した、
まさにその時だった。
唐突に鷄頭の首元の皮膚が、
チリリッ、と焼け付くような不気味な感覚に襲われた。
彼には過去の記憶こそ何一つ残っていない。
だが、幾度となく銃弾の雨をくぐり抜けてきた彼の剥き出しの肉体。
――その生存能力は、病的なまでに研ぎ澄まされていた。
それゆえに、彼は脳で考えるよりも早く、
その首筋の違和感の正体を一瞬で認識した。
――殺意だ。
それも、これまで闇社会で戦ってきた有象無象の敵たちのものとは次元の違う、
大気そのものが牙を剥いてきたかのような、途方もない殺意。
その瞬間、鷄頭のなかの『獣』が跳ね起きた。
彼は反射的に懐から黒い拳銃を引き抜くと、椅子を蹴立てて席から立ち上がった。
どこから狙われているのかさえ分かれば、いつだってその銃を持つ者を逆に奇襲し、
なぶり殺しにして惨殺してきたからだ。
鷄頭は銃を構えたまま部屋を出て、
まずは周囲を鋭い眼光で見回したが、そこには誰もいない。チリチリとした肌の警戒感は増していく。
彼は油断なく廊下へと進み、さらに辺りを執拗に見回しながら、鉄扉を蹴り開けて病棟の外の広場へと一気に飛び出した。
――しかし、開けた視界のなかで、
鷄頭の全身の血の気が一瞬にして引き、その場に石のように硬直した。
「……なんだこりゃ……, 嘘だろ……っ」
彼は、認識してしまったのだ。
どこか特定の物陰から狙われているのではない。
はるか上空の死角から、
この広大な未完の医療都市。
――病棟五棟と関係者住宅八棟が佇む深い森の【全域】が、まるで巨大な殺意の網によって隙間なく完全に包み込まれているのだという、あまりにも現実離れした異常な事態を。
どこに逃げても、自分は絶対に助からない。
どこへ移動しても、自分は確実に死ぬ。
どこに身を隠しても、この全方位を埋め尽くす殺意の塊からは一ミリだって逃れられない。
殺意の『実物』を目視したわけではなかった。
ただ、彼の驚異的な生存本能だけが、
この空間のすべてがすでに死の確定した 『絶死の檻』に変わっていることを、がたがたと震える絶望とともに正しく理解してしまっていた。
そうして彼が広場の真ん中で棒立ちの状態で硬直していた、その時だった。
突如として、彼の真後ろから大気を引き裂くような激しい爆発音が鳴り響いた。
本能のままに鷄頭が後ろを振り返ると、自分のいる一棟先の少し向こうその視界のすべてを埋め尽くすようにして、天に届くほどの巨大な真っ白な『光の壁』が迫ってきているのが見えた。
光の壁と一緒に、建物を破壊し、
四方八方へと猛烈な速度で飛散してくる巨大なコンクリートの瓦礫の雨。
そして、死が網膜のすぐ目の前まで肉薄したその瞬間、彼の壊れていたはずの脳の引き出しが不意に噛み合った。
忘れていた、あの十年前の血の海。
父親、母親、幼い小学の妹、
――そして、祖母。
自分が自らの手で無慈悲に惨殺した、あの四人の家族の凄惨な顔が、走馬灯のように唐突に彼の頭の中に浮かび上がったのだ。
因果の報いのようにそれらの顔が脳裏に浮かんだ、まさに次の瞬間。
彼の目の前には、自身の身体よりも遥かに巨大なコンクリートの瓦礫が、音を置いていくような超高速で飛んできているのが見えた。
それは客観的に見れば、
ほんの一瞬のことだった。
どれほど人外の生存能力を持っていようが、鷄頭の肉体はもう一ミリだって動かなかった。
しかし、直前に空間全域から浴びせられていたあの異常な殺意のせいで、彼の脳内からは大量のアドレナリンが限界を超えて噴出していた。
その結果、
彼の意識の中だけで、主観的な思考の速度が異常なまでに加速し始めていた。
――体が動かない。
飛んできた瓦礫が、鷄頭の顔面へと容赦なく直撃する。
――体が動かない。
さらに連鎖して飛んできた瓦礫の一部が、彼の足の骨を粉々に叩き折る。
――体が動かない。
引きちぎられた建物の骨組みであった鉄骨の一部が、逃げ場のない彼の腹へと真っ直ぐに突き刺さり、深く貫通した。
――体が動かない。
鉄骨に生きたまま串刺しにされた彼の身体は、瓦礫の衝撃によって、そのまま地面を引き離されて空中へと浮いた。
そして、その後に。
宙に浮いた彼の全身へ、すべてを無に帰す圧倒的な『灼熱』が襲いかかった。
それはただの炎ではない。
数百万気圧の超圧縮によるプラズマの熱波。
鉄骨も、瓦礫も、そして彼の肉体を構成する全細胞も、燃える間もなく一瞬で分子レベルに分解され気化されていく。
過去の罪も、引き伸ばされた意識も、そのすべてが純白のエネルギーの中に融解し、完全に消失した。
それが彼の人生の最期に見て、
感じたもののすべてだった。
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――打ち込んだドローンの数は、
二機だった。
それだけで、
あの巨大な悪の巣窟のすべてが完全に消えた。
鬱蒼とした深い森に包まれた、違法隔離都市を見下ろす少し高い場所の山道の中。
木々の隙間に、
一台の黒塗りの自動運転タクシーが息を潜めるようにして静かに停車していた。
外界の光をあまり通さないスモークガラスで守られたその車内で、
私は丸く瓶底のような丸い眼鏡を冷たく光らせながら、手元の画面を通じてそのすべての『掃除』の顛末を見届けていた。
私は自らの指先で、そのボタンを静かに押し込んだ。
一機目のドローンが放った最初の引き金。
それによって建物が激しく崩壊し、
半壊した状態になったその無惨な惨状を、私は客席テレビのライブ映像で冷徹に確認した。
崩壊する建物と逃げ惑う大人たちの絶望は、
私の心にこれ以上の涙を流させることはなかった。
――ぱらぱらと突如として、私が乗っている自動運転タクシーの頑丈なスモークガラスを、硬質な何かが外側から小さく叩き鳴らした。
それは、はるか眼下の敷地が跡形もなく吹き飛んだ、あの凄まじい二連撃の爆風の余波。
山道の上まで押し寄せてきた衝撃波の残響が、粉々に引きちぎられたコンクリートの破片や建物の残渣の雨となって、
この車の分厚い窓ガラスへと容赦なく直撃していたのだ。
世界が崩壊した物質的な証拠が、不気味なノイズとなって静かな車内に響き渡る。
だが、私はその音に視線すら揺らすことはなかった。
『君のお眼鏡にかなったかい?
水琴』
緑の回線で繋がった携帯電話の向こうから、トロイの声が響いた。
これだけの大量破壊を成し遂げ、窓ガラスに破片が降り注いでいる直後だというのに、彼の声音には冷酷な冷たさも、残酷な高揚感も一切なかった。
だが、機械的な無機質さとも違う。
それは最初から最後まで、私のことをいつも気遣ってくれる時のままの、どこまでも穏やかで、静かに諭すような優しい響きを保ち続けていた。
感情をめったに表に出さない彼のそのブレない温度感こそが、今の私には酷く心地よかった。 私は丸く分厚いメガネを指先で押し上げ、更地となった外の景色から視線を戻して応答する。
「うん、十分。
これなら問題なく、世界が変えられそう」
『それは良かった』
トロイはただ、いつもと変わらない穏やかな声で、淡々とそれだけを返してきた。
私はそんな不思議な人物に向けて、シートに深く背中を預けたまま、ごく自然な言葉を続けた。
「まだ昼だから、あと二、三個は潰していこう。
それだけできれば、多分ドローンを扱う感覚も完璧に掴めそうだから」
午後からの予定を淡々と追加するかのような、14歳の娘とは思えない私の冷たい言葉。
トロイとの会話を終えると同時に、ボロボロのカッパのポケットへと手を突っ込み、
今朝コンビニで買っておいたもう一つの携帯食を取り出した。今度は、ピンク色のパッケージに包まれた桃ジュレのチューブゼリーだ。
キャップをひねり、腹の虫をなだめるようにパウチの口を咥えて、甘いジュレの塊をずず、と淡々と喉の奥へ流し込んでいく。
窓を叩く瓦礫の雨の音を聞きながら、ただの栄養補給として冷たい水分を割み締める私のその姿を、受話器の向こう側のトロイは、先ほどのように驚くことも咎めることもなく、ただ私のすべてを優しく包み込むような静かな沈黙の気配だけで、穏やかに見守っていた。
私は桃ジュレのパウチを口に咥えたまま、手元に銀色の携帯電話を握り直し、
目の前のタクシーのテレビモニターへと再び細い指先を伸ばした。青い光に照らされながら、リストの中から次の『よくないところ』の座標を選択し、画面内の決定ボタンを滑らかにタップする。
行き先を新たに書き換えられた自動運転車は、息を潜めていた山道から、
次なる獲物の待つ戦場へと向けて、再び煙る午前中の街へと滑るように静かに走り去っていった――。




