✥10『偽りの太陽と正義。』
警察署の捜査本部に身を置くベテラン刑事、朝倉哲郎は、会議室のホワイトボードに次々と書き込まれていく最悪の数字の羅列を前に、完全に言葉を失っていた。
この街を奈落へと引きずり込んでいる未曾有の連続爆破事件は、発生からわずか三日目にして、彼のような歴戦の捜査員ですら理解の追いつかない、
あまりにも異質で狂気的な怪物へとその姿を変化させていたのだ。
一日目。
始まりは、✕✕市内の街の片隅にある反社会的勢力の下位組織が占拠していた不審な商業ビルの一括爆破だった。
わかる限りの被害者は、すでに優に百人を超えている。
二日目。
惨劇の舞台は、同街にある✕✕市内の私立✕✕✕中学校の爆破。
在学生、教員、そして業務員を合わせて総勢五百名近くがいたはずの学び舎で、
現在までに発見された人間の数はわずかに八十人ほど。
そのうち、辛うじて息があった生存者はたったの二人だけであり、一人は四肢に重大な傷を負っている状態で発見さた。
そしてどちらも気道と全身の皮膚を激しく爛れている状態で、現在は集中治療室(ICU)送りになって命を繋がれている状態だ。
生存率、ほぼゼロ。事実上の学校全滅テロだった。
外を見れば、
昨日の大雨が嘘のように上がり、湿った生温かい風が街を吹き抜ける昼下がり。
だが、犯人は牙を緩めるどころかその凶行の速度をさらに異常なまでに加速させ、
まさに今日の午前中のわずか数時間の間に、市内の『五件』もの拠点を次々と爆破消滅させたのだ。
その三日目の、最初の一撃となったのが、同街の中心部から完全に外れた山中の鬱蒼とした森の奥深くに佇む『✕✕✕医療センター跡地』という名の巨大な廃墟だった。
驚くべきことに、
その山奥の廃病院は、管轄の朝倉すら今の今まで存在すら一度も聞いたことがない完全な空白の施設だった。
爆発の報が届いた瞬間、
本部の警察上層部の一部のキャリアたちはなぜか顔色を真っ青に変えて慌てふためき、
「そこへは近づくな、
初動の捜査員を今すぐ引き揚げさせろ!」
と、露骨な隠蔽の圧力をかけて大騒ぎを始めたが、朝倉はそんな命令を完全に無視して、
信頼できる自分の部下たちを強引に動かした。
朝倉がそれほどまでに上層部の制止を蹴って動いたのには、現場から上がってきたばかりの生々しい事実があったからだった。
跡形もなく吹き飛んだように見えたその医療センター跡地だが、あの凄まじい衝撃波を奇跡的に免れた地下設備の中に、ほんの一部ではあるがまだ設備と人間が生き残っていたのだ。
だが、救助隊が必死にコンクリートを退かしていた最中、完全に構造の破綻していた地下空間空間が無情にも二次崩落を起こした。
生き残っていた大部分の人間が、救助の手が届く直前で瓦礫の下敷きとなり、次々と無惨に圧死していった。
しかし、その地獄のような生き埋めの現場から、救助隊たちが命懸けで引っ張り出してきた、数人の中でたった一人の意識を持った生き残りの男がいた。
彼は血の泡を吹きながら、緊急搬送される救急車のなかで救急隊員の胸ぐらを掴み、
『この間と同じだ……、白い光の壁が……』と血の混ざったうわ言を遺して意識を失い、搬送先の病院で治療の甲斐も虚しく息絶えた。
男の遺した言葉、外壁のコンクリートすら剥き出しのまま放置された病棟五棟と住宅八棟の残骸、および地下から辛うじて回収された違法薬品や一部の物証。
その後の四件の爆破施設を追うごとに、朝倉たちの疑念は確信へと変わった。
爆破されたのは、どいつもこいつも、表の警察網すら一部しかその実態を掴んでいないような同じ反社下位勢力の極秘の設備やアジトばかりだったのだ。
当時から裏社会の人間とべったりと癒着し、汚職の甘い汁を吸い続けてきた、
警察組織のなかのごく一部の腐った警察官たち以外、表の警察内では誰その存在を知らない、海外からの不法流入者すら集う完全なる違法隔離都市。
この事件を表に出れば上の議員ですらも一部首が飛ぶことは間違いなかった。
――そして、この犯人は、
その警察すらも全容を知らないような裏社会の最高機密の情報を、完璧に、かつ手に取るように把握して狙い撃ちにしている。
「……にしても変な犯人っすねぇ、」
静まり返った会議室の片隅で、後輩刑事の下田和人がのんびりとした調子で口を開いた。
「あ? 何がおかしいんだ?
もうすでに色々とおかしいだろうが!!」
朝倉が頭をガリガリと掻きむしり、若干イライラしながら下田に応答する。
一日で五件もの爆破を未然に防げず、
おまけにろくでもない上層部からは理不尽な圧力をかけられているのだ。
「いや、先輩。
確かにやつは常に、反社会勢力の施設ばかりを狙って攻撃をしているように見えるっす
……でも、なんでその間に『中学校』を狙ったんっすかね?
俺、それが一番気になるんっすよ」
下田は手元に持っているペンを、己の硬いこめかみにぐりぐりと押し当てながらそう答えた。
「中学校だぁ?」
「そうっす。
一日目のビルも、今日の五件の廃病院も、
どれもこれも裏社会の人間たちが荒稼ぎしてる真っ黒な拠点ばっかっす。
犯罪組織を根絶やしにしたい『正義の味方』か何かの思想犯だと考えれば、まだ辻褄が合う。
なのに、二日目の✕✕✕中学校だけは、反社下位勢力のフロント企業や闇金の類とは一切、一ミリも関係がない普通の学び舎なんっすよ。
プロのテロリストが、何百人もの反社のならず者を消し去るその合間に、わざわざ弾数を一発無駄遣いして、無関係な一般の子供たちを五百人も巻き込む爆破を挟む意味があるっすかね?
普通なら、隠れみのにもならないし、リスクが高すぎる。
あの爆発だけはその場の突発的な感情を感じるんですよね。
それこそ……怒り、って感じの……
だから、あの中学校には……、
何かこの事態を引き起こす『引金』があったんじゃないかって……思うんっす。」
イライラとしていた朝倉の貧乏ゆすりが、
ぴたりと止まる。
……その通りだ。
学校の爆破だけが、この凄まじい連続テロのタイムラインのなかで、不自然に浮き上がっている最大の不自然なのだ。
実は、犯人の目的は、最初から反社の殲滅などの犯罪の温床とも言える場所……ではない?
……あの中学校のなかにこそ、何かこの事態を引き起こす本物の『引金』があった……?
「……下田ぁ、あの中学校探るぞ!
……もしかしたらお前の言う通り、何かがあるかもしれねぇ……!」
朝倉は席を断つとホワイトボードを叩き、下田に向けて目をぎらつかせた。
「……うすっ!
……とは言っても先輩、あの中学校、
今はもう完全に跡形もないっすけど、どうやって中を探るんっすか?
今は救助隊も全力で動いてるんで、俺たちがガレキの山に勝手に立ち入って探るとなると――」
「馬鹿か? お前、」
朝倉は下田にニヤリと不敵に笑って彼の言いかけていた言葉を遮って口を開いた。
「こんなもん、
聞き込みに決ってんでんだろうが!!」
「げぇっ、聞き込みっすかあ!?」
下田があからさまに嫌そうな顔をして声を上げたが、朝倉の眼光は本気だった。
「校舎が木端微塵だろうが関係ねえ。
死んだ奴らの身辺、学校の周辺住民、サボってたガキ、怪しい関係者。
――洗える人間は街中にいくらでも残ってんだよ。
どれほど規格外の凶器を使っていようが、あの犯人があの学校に『引金』を求めたってんなら、必ず人間の間にその足跡が残ってんだ。
泥臭く歩いて、一人ずつ口を割らせる。
それが俺たちデカの仕事だろうが!」
「……っすね、了解!
下田、先輩についていくっす!!」
そう言いながら下田はさっきまでの嫌そうな顔を引っ込め、どこか誇らしげな顔をして朝倉に向かってピシッと敬礼をして立ち上がった。
「あと、下田。
科学班からは何か結果はあったか?」
朝倉が会議室を出る前に思い出したように質問すると、下田は一転して、真面目な顔の刑事に戻って答えた。
「そうっすね、結果出てたっすよ。
空気中の窒素濃度は変化しなかったんっすけど……見つかったっす!」
そう言うと下田はスーツの懐から茶封筒を取り出して、その中の紙を広げた。
紙には科学班が分析した現場の成分表がびっしりと書かれていた。
「先輩、通常の気体というのは七十八%の窒素があるらしいっす、
それで今回の大気中の窒素濃度はすでに通常の七十八%だったっす。」
「おい、そりゃ――」
朝倉が文句を言おうと口を開きかけて そこを 下田が手を出して彼の言葉を止める。
「俺たちが着いたのが二十分あとでしたし、その後の雨も合わさって元のそれはすべて拡散しちまったみたいっすね。
――ただ、」
そう言って下田が人差し指で紙の数値をパシッと叩いた。
「異常なのはここからっすよ。
ガレキの隙間から『二酸化窒素』が検出されたらしいっす。
爆発の瞬間、その空間にあった空気中の窒素が、異常極まりない超高温で化学反応を起こして燃え上がった証拠っすよ。
あの時現場に降っていたあの黒い雨――
あれ、水に溶けた二酸化窒素が硝酸に変わったレモン汁並みの強酸性だったんっすよ。
普通の爆弾じゃ絶対にあり得ないっすよ!」
二酸化窒素。
そして強酸性の黒い雨。
犯人の使った凶器は、火薬でコンクリートを砕くだけでなく、その超高圧と超高温によって、大気そのものの組成を強制的に書き換えるほどの、とんでもない代物なのだ。
「窒素を燃やすほどの絶対的な熱量か……。
ずいぶんとデカいおもちゃを振り回してくれたもんだ。
やつぁ、戦争でもするつもりなのか?
……上等だ、行くぞ下田。
まずはあの中学校の関係者の足元から、その『引金』の正体を毟り取ってやる」
「うす!!」
二人の刑事の靴音が、静まり返った警察署の廊下に力強く響き渡った。
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「✕✕✕中学校……ですか?」
「ああ、鹿海美咲さんだったね?
ちょっと急に驚かせちゃって悪かったなぁ。よかったら、おじさんたちに少しだけ、学校でのことを教えてくれないかい?」
大雨上がりの生温かい風が吹く住宅街の一角。
警察署を飛び出し、泥臭く地道なローラー作戦による聞き込みを開始した朝倉と下田は、あの凄まじい大爆破の日にたまたま学校に登校していなかった生徒たちが、この街のいくつかの家に残されていることを突き止めた。
朝倉の時代であれば、捜査資料や出席簿、
生徒の個人情報にいたるまですべてが紙で管理されていたため、
今回のような物理的消滅事件が起これば証拠のすべてが一瞬にして灰になり消失していたことだろう。
だが、今の時代はすべてがネット上で管理される完全なデジタル社会だ。
校舎がどれほど粉々に吹き飛ぼうが、学校のデータはすべてクラウドのサーバーへと自動でリアルタイムにバックアップされ、安全に残されていたのだった。
下田はその生き残っていたクラウドの出席簿のデータへいち早くアクセスし、その日欠席している者、もしくは欠席が続いている生徒の首席簿のデータを見つけ、引っ張り出していた。
そうして情報を手繰り寄せていくうちに、朝倉たちはそのなかの一人である、
あの中学校の二年生、鹿海美咲の自宅へと辿り着き、玄関先で彼女と対峙していたのだ。
しかし、朝倉が少々 威圧的だったため、下田が前に出て出していた警察手帳を懐にしまい、あえて刑事としての威圧感を消して優しく語りかけたが、美咲は眉をひそめ、あからさまに喋りたくなさそうな顔をして視線を落とした。
――彼女は、あの事件の日に気まぐれで学校をサボっていたわけではない。
そのネット上に残っていた出席簿を洗えばすぐに分かったことなのだが、美咲は一ヶ月も前から学校へ行けなくなり、自宅に引きこもり続けている不登校の生徒だった。
美咲の細い肩は、かすかに震えている。
それは、あの大爆発の物理的な恐怖に対して怯えているというよりは一ヶ月前まで自分が身を置いていた『何か』を
今、この場で無理やり思い出すことすら拒絶しているかのような、生々しい心の傷の雰囲気を漂わせていた。
「美咲ちゃん、
別に君を疑ってるわけじゃないんだ」
朝倉の横で、下田もいつものおちゃらけたトーンを完全に消し、真剣な眼差しで少女の小さな横顔を見つめる。
「あの連続爆破事件の中でね、君たちの学校だけがどうしても不自然に浮き上がってるんだ。
君が学校に行かなくなる前、あるいは最近になって風の噂で聞いたことでもいい。
学校のなかで、何かおかしなトラブルや、奇妙な『歪み』みたいなものはなかったかい?
どんなに小さなことでもいいんだ。
おじさんたちに、君の知っていることを貸してほしい」
下田のその真っ直ぐな問いかけに対しても、美咲はきゅっと唇を噛み締め、その口を開こうとはしない。
張り詰めた玄関先に、大雨上がりの生温かい風の音だけが虚しく通り過ぎていく。
「……すみません。
私、あの時のことを話したくないんです。
……ただ一つだけ言えることとしては、
『あんな場所』、なくなって当然だと思います」
「あっ、ちょっ……!!」
その時の美咲の顔にはあからさまに嫌悪と憎悪をその表情に滲ませ、その顔を見た朝倉と下田が息を呑んで硬直した瞬間、
美咲は二人の制止の声を聞く耳も持たず、目の前の重厚な扉を激しい音を立てて完全に閉め切ってしまった。
内側から無慈悲に鍵が掛けられる音が響き、
再び静寂が住宅街の路地へと戻ってくる。
残された二人の刑事は、
閉ざされたドアの前でしばらくの間何も言えずに立ち尽くしていた。
「……おい、下田」
朝倉がポツリと、低く呟いた。
その顔からは、いつもの不敵な笑みが完全に消え去っていた。
「……うす。聞きました、先輩。
あの子……『なくなって当然』って、ハッキリ言いましたね」
下田の顔からも、おちゃらけた空気は完全に消え失せていた。
テロリストに学校を破壊され、級友を皆殺しにされた中学生の口から出るべきではない、
あまりにも生々しい全否定の言葉。
それは、
あの私立✕✕✕中学校に、美咲が一ヶ月前から学校を拒絶して引きこもらざるを得なかったことや『爆弾魔』がこの学校を爆破させなくてはならない『何か』が、確かにあったという何よりの動かぬ証拠だった。
「……できればあの子の親にも話を聞きたいもんなんですけどねぇ、」
下田が腰に両手を当て、少し身体を反るようにして痛む背を大きく伸ばした。
一日中街を歩き回った疲労が、じわじわと若い刑事の肉体を蝕んでいる。
その間、朝倉は使い古した真鍮製のライターで手元のタバコに火をつけた。
「……他にもサボりの奴らが数人いたが、
全く情報を持っていないやつか、そもそも顔すら出さず門前払いのどっちかだったしな。
……まあ、少しでも話が聞けただけでもマシっつうところか」
ふぅ、と紫煙を勢いよく吐き出す。
あの中学校の『歪み』は、予想以上に根が深い。
大爆破のテロを生き残った他の子供たちも、
そのの親も、『何かを知っていそうな』一部は何かを恐れるように一様に口を閉ざし、
警察を煙たがって追い返すのだ。
大人の社会全体が、
あの学校のなかで起きていた何かを必死に隠蔽しようとしている。
そうやって、朝倉たちがこれ以上の収穫はなしと判断し、路地に停めてあった覆面パトカーの車に乗り込もうとした、
まさにその時だった。
先ほど冷たく閉ざされたばかりの鹿海美咲の家の重厚な扉が再び小さく開いた。
だが、そこから顔を覗かせたのは、
先ほど応対していた美咲ではなかった。
彼女よりも頭一つ分ほど背が小さく、
可愛らしい私服をまとい、おそらくまだ小学生なのだろう女の子がそこに立っていた。
美咲の妹だ。
その小さな女の子は、子供特有の無垢な、
しかしそれゆえに酷く尖った『敵対心』の塊のような鋭い目で、二人の刑事を親の仇のように強く睨みつけていた。
「……おじさんたち、悪い人?」
二人の刑事は思わず顔を見合わせ、
同時に小さく肩をすくめた。
「いんや? ――俺たちは, 正義の味方だよ」
朝倉は咥え煙草の端を少しだけ吊り上げ、なるべく警戒心を解こうと笑ってそう返した。
――しかし、悲しいかな、
もともと強面である朝倉のその笑顔は、純真な子供の目から見れば正直言ってどう見ても『悪人面』そのものだった。
美咲の妹が怯えてさらに後ろへと下がり、今にも扉を閉めそうな不穏な雰囲気になったため、横にいた愛嬌のある顔立ちの下田が内心で盛大に焦り始めた。
下田はそれを一切顔に出さないようにしながら、朝倉の前に割って入るようにして一歩前に出る。
「ごめんね、この人怖い顔してるけど、
悪い人じゃないからね。
あっ、飴玉いる?」
下田は人懐っこい満面の笑顔を浮かべ、
指先を使ったちょっとした手品で空中から個包装のキャンディをパッと出現させながら、うまいこと話をつけていく。
最初こそ強い警戒心を持っていた美咲の妹だったが、下田の鮮やかな手品と甘い飴玉の攻撃によって、見事にその心を懐柔することに成功したのだった。
ちなみに、最近家で年頃の娘からガチで煙たがられている朝倉は、横でその見事な手際を見せつけられて、
デカの先輩としても父親としても非常に複雑で切ない気持ちになっていた。
飴玉を小さな両手で受け取った美咲の妹
――鹿海心美は、ぽつりぽつりと、姉に起きた出来事を二人の刑事へ打ち明け始めた。
一ヶ月前から姉がおかしくなってしまい、今は部屋に引きこおって家から一切出てこれなくなってしまったということ。
その時、家族で色んな人に相談したり、警察の相談窓口にも何度も足を運んだのに、結局大人は誰もまともに動いてくれなかったこと。
そんな悲しい過去があったからこそ、心美も美咲も大人が信用できなくなってしまったのだという。
「心美ちゃんは一ヶ月前に何があったか知ってる?」
下田が目線を彼女の高さに合わせて優しく尋ねると、心美は飴玉の袋をきゅっと握りしめて首を振った。
「……わかんない、ただお姉ちゃんがおかしくなるその日、その日の夕方に帰ってきたお姉ちゃんの服がなぜかボロボロで、
すごく、お姉ちゃんが泣いていて、
お母さんがリビングで話を聞いて
……その時私は子供だからって部屋から出されたから詳しい話は聞いてないんだけど、その後ドアが開いた時はお母さん、血相を変えてお姉ちゃんを病院に連れて行ったのは知ってる」
「病院がどこかわかる?」
「名前はわかんない、
なんかすごい難しい名前を話してたから……。
でも、お母さんが『街の中で一番大きい病院』だって言ってたから、あそこだと思う」
そう言うと、心美は小さな人差し指を立てて、住宅街の屋根の向こう側をぽつりと指差した。彼女の指が示す遠くの空には、この街の医療の拠点であり、誰もが知っている巨大な『中央病院』の白い高層棟の建物が、午前中の光を浴びてはっきりと見えていた。
朝倉は咥え煙草を自身の持っているポケットの中にあった携帯灰皿へと放り込み、覆面パトカーのドアを荒々しく開けた。
「あ、ありがとね心美ちゃん、
そうだ!これお姉ちゃんにもあげるからさっきはごめんねって言っといて!!」
そう言うと下田は心美に、胸ポケットから出した飴玉とチョコレートが入った大袋を渡した。
どこからどう見ても、一人の子供に手渡しするレベルの量ではない。
そんなものを、下田はまるでさっきの手品の延長線上で、最初からそこにあったかのように胸ポケットから滑らかに引っ張り出して見せたのだ。
(……こいつのポケットはどうなってやがる?)
車内のシートに身体を滑り込ませながら、朝倉は下田が本当にそういった手品が得意なんだということを初めて知った。
普段は調子のいいトボけた後輩だとばかり思っていたが、人間、どこにどんな妙な特技を隠し持っているか分かったもんじゃない。
「先輩、どうかしたっすか?」
「いや……なんでもねえよ。
さっさと出せ」
「うす、中央病院へ行くっすよ!」
そう言ってエンジンをかける下田。
朝倉は何気なく昼間の明かりのついていない住宅街の街灯に目を向けた。
ここの街灯にも、開業5周年を祝う『ソラミール』の水色のフラッグが等間隔に並び、風にパタパタと音を立てていた。
これから始まるイベントを目前に控え、街はどこか浮ついた空気を引きずっているのがわかる。
「ったく、にしても爆弾魔が暴れてるってのに、上は記念セレモニーの警備計画で頭がいっぱいかよ」
朝倉は悪態をつき下田はその言葉に苦笑した。
一ヶ月前に中学校で何かがあり、引きこもるようになってしまった美咲という少女の存在。
『何か』を恐れるように一様に口を閉ざし、
警察を煙たがって追い返す一部の者たち。
――あの中学校の閉鎖された空間のなかで、一体どんな異常な事態が進行していたのだろうか?
朝倉と下田は、まだその奥に潜む悍ましい真実の全貌を、何一つ掴んではいなかった。




