✥5『正義の猟犬。』
――その日は、朝から世界を塗り潰すような容赦のない大雨だった。
どんよりと低く垂れ込めた灰色の曇天から、大粒の雨がアスファルトを激しく叩きつけ、
白く濁った水飛沫を容赦なく跳ね上げている。
遮るもののない遮蔽物のない空間を冷たい風が吹き抜け、男たちの肌を容赦なく刺していた。
ベテラン刑事である朝倉哲郎は、黄色い立ち入り禁止の規制線が引かれ、
大きなブルーシートで覆われた現場の脇に立ち昨日の夕方頃に発生した
『廃墟ビル爆発崩落事件』の惨状を、
鋭く細められた双眸で見つめていた。
雨水がコートの肩を重く濡らし、襟元から首筋へと冷たく伝わっていくが、
彼はそれを拭おうともしなかった。
捜査が進むにつれ、遮蔽物の奥から最悪の事実が次々と浮き彫りになってきている。
崩落したのは十数年前にバブルの崩壊とともに開発が頓挫し、そのまま幽霊のように街の片隅に放置されていた不気味な廃墟ビルだった。
……だが、そこは単なる空き家ではなかった。
地元を拠点に暗躍していた悪名高い犯罪組織の構成員や、街の治安を脅かしていた未成年の不良グループ、いわゆる『ヤクザ』や『愚連隊』といった若者たちが、
少なく見積もってもおよそ七十人程度、不法占拠する形で完全に吹き溜まりにしていたことが判明したのだ。
そこは違法薬物などの売買や賭博、あるいは弱者への暴力が日常的に行われる、法の手の届かない街の腐敗しきった部分だった。
それらの命を孕んだ無機質な建造物は、ものの見事に根元から倒壊していた。
頑丈なはずの鉄骨は飴細工のようにひしゃげ、分厚いコンクリートの壁は粉々に砕け散って周囲の民家にまで突き刺さっている。
爆風の凄まじさは周辺の建物の窓ガラスを一枚残らず粉砕し、
瓦礫の山と化した現場から発見された遺体は『まともな状態とは言えなくなっていた』。
そんな彼らの躯を見つけ出し、
一人ずつ身元を特定する作業は、この容赦のない豪雨も相まって非常に困難を極めることが予想された。
救助隊と鑑識たちが泥まみれになりながら瓦礫の隙間を覗き込み、重い遺体袋を何度も往復させている。
それどころか、下手をすれば瓦礫の下に深く埋もれた被害者の数はこれからさらに増えるかもしれないのだ。
朝倉は、その事態の凄まじさと、
これから自分たちを待ち受ける途方もない作業量を理解した瞬間、肺の底から搾り出すように深く長い、重いため息をついた。
ずぶ濡れになったポケットから使い古した真鍮製のライターを取り出し、湿気で湿りかけた一本のタバコに火をつける。
風を遮りながらどうにか灯した小さな火が、灰色の世界で一瞬だけ赤く爆ぜた。
紫煙を細く吹き出しながら、雨と汗で額に張り付いた白髪混じりの前髪を無造作に掻き上げた。
「ったく、
なんだってこんな事件が起こんだ……。
確かにこの街は大きいし、
裏の闇も深いけどよ、ここまで派手ででけえ爆破事件なんて早々おこんねえと思うんだがな……」
「仕方ないっすよ先輩!
とりあえず、この泥臭い現場の仕事が終わったら、パーッと焼肉行きましょう、焼肉!」
朝倉のすぐ隣で、この修羅場にはおよそ似つかわしくない、緊張感のない明るい声が響いた。
声の主は、朝倉のバディであり、まだ配属されて日の浅い後輩刑事の下田和人だ。
顔にぽつぽつと、そばかすのある細身の男で、ずぶ濡れになってもなお、その屈屈のない笑顔にはどこか憎めない犬のような愛嬌があった。
だが、その下田の無邪気な提案が、
今の朝倉にとっては酷く不快で、とても受け入れがたい、嫌な気持ちにさせるものだった。
朝倉は咥えタバコの隙間から、下田を射殺せんばかりの鋭い眼光で睨みつける。
「下田、お前よくあのブルーシートの奥で、
無残に炭化した死体を見た後に、焼肉食いに行こうなんて言えるな……。
俺はしばらく、火で焼いた肉なんて見るのも食う気になれねえよ」
朝倉は吐き捨てるように言うと、まだ半分以上残っていたタバコを携帯灰皿の縁に押し付け、容赦なく揉み消した。
彼らが立っている現場のすぐ近くに漂う、あの『生き物がそのまま焼けたような、鼻の奥にツンと刺さる、嗅いだこともないくらい気持ち悪い臭い。生臭くて酸っぱく焦げた臭い』と、すべてを白く焼き尽くすようなツンと鼻を突く硝煙の臭い。
その最悪な嗅覚の記憶が、
下田の放った『焼肉』という言葉と脳内で最悪な結びつき方をして、朝倉の胃の底を不快に、そして激しく揺さぶっていた。
「で、何か分かったことはあったか?
正直言って、この規模のビル一つを、基礎からこれだけ綺麗に爆発させて木端微塵に崩落させるなんて、
相当の火薬を何日もかけて頭数揃えて持ち込むか、よっぽど威力の高い特殊な軍用火薬でもねえと無理だと思うんだがな。
鑑識の連中は何て言ってる?」
朝倉は雨に煙る灰色の瓦礫の山に視線を戻し、這いつくばるようにして泥を掻き分ける救助隊と鑑識たちの動向を追いながら、低く濁った声で尋ねた。
すると、さっきまでお気楽に笑っていた下田が、一転して少しだけ刑事の、真面目な顔になって首を横に振った。
その瞳の奥には、若さに似合わぬ冷静な観察眼が宿っている。
「……ダメっすね。
それが不思議なんっすよ、先輩。
今のところ、通常の爆破事件なら必ず残るはずの火薬の燃えカスや、タイマー、起爆装置の残骸なんかは、一切『発見なし』っす。
鑑識のチーフも首を傾げてました。
正直、ここまで物理的な痕跡がないとなると、逆に、僕たちの常識じゃ考えられないような、相当な少量の火薬だったんじゃないっすかね? それとも、爆発した瞬間に完全にガス化して、大気中に霧散して形跡を残さないような、何か特殊な成分の新型火薬か……」
「……はっ、お前はどこぞのSF映画に出てくるような、液体窒素で作った新型爆弾とか、
そういう組織の秘密兵器でも使われたって言いたいのか?
ねぇよ、んなもん。
もしそんな形跡の残らない爆弾なんて作れたら、ノーベル賞級の大発明だろ、そりゃ。
ただの裏社会の抗争に、そんなオーバーテクノロジーが流れるわけがねえ」
朝倉は鼻でそう言って、
フッと自嘲気味に笑った。
そんな映画みたいなハイテク兵器を、地元の不良グループごときが手に入れられるわけがない。
やはり単なる犯罪組織同士の縄張り争いで、相手の息の根を確実に止めるために、
海外から大量の密輸ダイナマイトでも仕入れて柱に仕掛けたのだろう。
朝倉の頭の中の捜査方針は、まだその頑固な『長年の刑事の勘』という既成概念の枠の中に収まっていた。
しかし、下田の『形跡が全く残っていない』という違和感こそが、実は真実の核心を完璧に突いていた。
個人所有の人工衛星と、完全に制御された未知の無人兵器。
現場に残された無残な破壊痕とこの異臭だけが、この街に解き放たれた本物の悪魔(引金)の実在を証明していたのだ。
しかし、そんな下田に呆れていた朝倉は次の言葉を口にしようとした、まさにその時だった。
唐突に、大気をも震わせるような、凄まじい雷のような地響きが鳴った。
豪雨の雨音すら一瞬で完全に掻き消すほどの、内臓を直接揺さぶるような爆音。
足元の地面がビリビリと不気味に震え、近くのパトカーの防犯アラームが一斉にけたたましく鳴り響く。その音のあまりの凄まじさと不意の衝撃に、下田が思わずビクッと大袈裟に肩をすくめ、身を縮めた。
「……うわっ!
な、なんっすかね、今の!?
この大雨だし、近くの山にでもデカい雷が降ったんですかね?」
下田は両耳を両手で抑えながら、不穏に渦巻くどんよりとした曇天を見上げる。
だが、長年血生臭い修羅場を歩き、幾度となく人間の悪意と硝煙に触れてきたベテランの朝倉だけは、その音の『異質さ』に本能的な戦慄を覚えていた。
顔から一切の余裕が消え失せ、追加で咥えていたタバコの灰が雨の中に落ちる。
「……いや、
ありゃあ、雷の音じゃねえ……。
もっと、腹の底を直接抉ってくるような……」
朝倉がそこまで口にしたとき、立ち入り禁止のブルーシートの隙間から、一人の若い制服警察官が、泥水を派手に跳ね上げながら、
慌てて二人の元へと走ってきた。
その顔は完全に血の気が引き、恐怖で歪んでいる。
『緊急連絡、緊急連絡!!
全局、至急、私立✕✕✕中学校へ急行せよ! 学校の校舎が、爆発!!
……繰り返す、学校が爆発した模様!!』
警察官が手にした無線機から、完全にパニックに陥った本部の通信員の絶叫が、激しいノイズと共に周囲に漏れ聞こえる。
走ってきた警察官は、朝倉と下田の前に掴みかかるような勢いで立ち止まると、激しい呼吸のせいで喉を血に染めるような声で叫んだ。
「朝倉刑事! 下田刑事も、至急、現地の学校へ同行お願いします!!
現場は大変なことに――」
降りしきる豪雨の中、
激しい雨の音だけが周囲を重々しく支配していた。
さっきまで『SF映画じゃあるまいし』と笑い合っていた二人の刑事は、突きつけられたあまりに現実離れしている最悪な報せを前にして完全に言葉を失い、二人してそのまま激しい雨の中で石のように固まった。
✥
✥
✥
急行したパトカーの助手席から朝倉が飛び出し、私立✕✕✕中学校の敷地に足を踏み入れた時、そこに広がっていた光景は、凄惨、言葉に尽くしがたいとしか言いようがない地獄そのものだった。
そこには、校舎の形で残っているものなど、ほとんど存在しなかった。
さっきまで、何の罪もない子供たちの笑い声や、汗と青臭い青春の言葉が響いていたはずの未来へと輝いていた学び舎は、中央から巨大な神の鉄槌で叩き潰されたように粉々に引きちぎられ、
すべては冷たい瓦礫の山と化していた。
大気に充満する灰色の粉塵が、
空から降る大雨に混ざり、地面をドロドロとした黒い泥水へと変えていく。
そこに色はなく、世界すべてがモノクロの焦土と化していた。
「どけ! 道を開けろ!」
「ストレッチャーを早く持ってこい!!」
朝倉と下田の真横を、顔を真っ白にした救急隊員たちが、泥まみれになりながら走り抜けていく。
一人でもいい、一人でも多くの生きている人間がこの瓦礫の下にいてくれれば良い。
誰もがそう心の中で必死に祈り、爪が剥がれるのも忘れて瓦礫のコンクリートを掻きむしっていた。
しかし、その希望の灯がどれほど絶望的なものであるかは、この灰色の焦土を見渡せば誰の目にも明らかだった。
悲鳴すら聞こえない。
動く人影すら一つもない。
そこにあるのは、あの廃墟ビルと全く同じ、鼻の奥を刺す嫌な硝煙の臭いと、生き物が焦げたような生臭く酸っぱい臭い。
そして、粉塵が雪のように静かに降り積もる、完全な死の静寂だけだった。
昼休みという時間帯。午後からの大雨を避けるために、生徒たちの大多数は屋内である体育館に集まっていたはずだ。
そして教員たちも、全員が職員室に集まって話し合いをしていたはずだった。
それらが、『すべて』、跡形もなく消え去っている。教員も、生徒も、おそらくはほぼ全員が、この灰色に染まった瓦礫の下で全滅しているのだ。
降りしきる黒い雨に容赦なく濡れながら、朝倉は無残に砕け散った校舎の残骸を、血の涙を流さんばかりの目でじっと見つめていた。
ずぶ濡れになった拳が、その皮膚と血管が引きちぎれんばかりに強く、強く握りしめられる。
「……二回目とは、随分と舐めてやがるな……」
地を這うような、恐ろしいほどに低い声。
朝倉の眉間に、犯人への怒りで太い青筋がぴきりと青白く跳ね上がった。
昨日の廃墟ビル、
そして今日の学校。
一晩の猶予すら置かず、この街を、
そして何より何の罪もない大勢の子供たちの命を無慈悲に蹂躙した姿なき犯人に対して、
朝倉の腹の底から刑事としての、
そして一人の人間としての猛烈な怒りの火が爆発していた。
「あーあ……」
隣で先輩の凄まじい殺気を感じ取った下田は、小さく息を漏らしながら、
困ったように肩をすくめた。
こうなってしまったら最後、この先輩はどれほど上層部から圧力をかけられようが、
どれほど危険な目に遭おうが、犯人を引きずり出してその首を掴むまで絶対に足を止めない。
当然、バディである自分も死ぬ気でその底なしの厄介事にトコトン付き合わされ、引きずり回されることになるだろうということを考えたのだ。
――だが、下田は、そんな朝倉の大きく頑固な後ろ姿を見つめながら胸の奥で静かに、
確固たる決意とともに微笑んでいた。
それこそが、この不器用で、
時代遅れで、どこまでも愚直な先輩の最高の良いところだとも彼は知っているからだ。
組織の保身に走る大人たちや、理不尽な世界のルールに決して屈しない朝倉の正義は、いつも、いつだって、誰よりも正しかった。
それが、下田の中のすべてだった。
この人が追う背中についていくことだけが、彼が刑事という過酷な職を続けている理由のすべてなのだ。
「下田、行くぞ。
ここに必ず、奴の足跡がある」
「うっす、先輩! 地獄の底まで付き合いますよ!」
二人の刑事は激しい黒い雨を切り裂き、
数百人の命が消え去った焦土の奥深くへと、毅然たる足取りで踏み込んでいった。
校舎の瓦礫は、よほどの凄まじい衝撃だったのだろう、コンクリートの塊から鉄筋に至るまで、すべてが粉々に砕け散っていた。
相変わらず、現場には火薬の燃えカス一つ落ちておらず、爆弾の正体は一切が不明のままだった。
「先輩、とりあえず科学班の人たちも急遽こっちに増員させて呼び出しているんで、今回は現場の土壌だけじゃなくて、大気中に残っている気体の成分も含めて徹底的に調べる予定っすよ」
「……まださっきの話を引きずってんのか?
ありゃあ映画の空想の話だろ。
窒素を固定して形跡の残らない爆弾なんて、
そんなもん現実にあるわけないだろ」
「もしかしたら、っすよ。
それに、『少しでも頭に浮かんだ疑問や可能性は、どんなに馬鹿げていても徹底的に潰せ』って、いつも俺に教えてくれたのは先輩じゃないっすか!」
「……くくっ、なるほどな。
お前、口の減らないところも含めて、
いつの間にか少しは刑事として成長してるようだな」
そう言うと、朝倉は下田の細い肩をぽんと、信頼を込めて力強く叩いた。
「……ありがとうございます……?
ですかね?」
朝倉から不意に降ってきた、滅多にない褒め言葉のような、
けれどどこか照れくさそうな、
よくわからない言葉を聞いて、下田は雨の中でただ呆然と目を丸くするしかなかった。
その下田の横で、朝倉が静かに焦土の地面へと低くしゃがみ込んだ。
コンクリートの粉塵が黒い雨を吸って、じっとりとしたヘドロのようになっている瓦礫の隙間に、ほんの少し、
かつてここに生きていた人間の生々しい一部のようなものが混じっているのが見えた。
朝倉は静かに目を閉じ、その痛ましい痕跡に向けて、深く、深く手を合わせた。
犯人を絶対に許さない、その誓いを胸の中で刻みながら。
ひとときの黙祷の後、ゆっくりと目を開けた朝倉の眼光が、獲物を狙う野獣のように鋭く変貌する。
彼はある一箇所を凝視したまま、立ち上がることなく、手元を下田に見るようにアゴで激しくジェスチャーした。
「おい下田、ここを見ろ。
車のタイヤの跡だ」
「……え?
……本当っすね……でもこれ……」
下田も朝倉の隣に深く屈み込み、泥水が溜まった地面の溝を凝視した。
「これ……、コンクリートの破片や巨大な瓦礫の上から、この泥を踏み潰して、
くっきりとタイヤの溝の跡が残っている。
……っていうことは、あの凄まじい爆発が起きた『後』、警察の規制線が張られるよりも前の大混乱の最中に、この場所にわざわざ侵入してきた車がいるってことっすかね?
だとしたら、一体何のためにこんな地獄へ来たんだ……?」
「……雨が降るのが遅くて良かったな、
俺たちと同じ時間帯からこっちでも同じように降っていたら、この重要な証拠も雨水に洗い流されて完全に消えていたな」
朝倉たちのいた低地の廃墟ビル周辺は、朝から激しい大雨がすべてを濡らしていた。
しかし、高台に位置しているこの中学校周辺は地形的なズレのおかげで雨の降り始めるタイミングが少しだけ遅く、爆発の直後まで雨は降っていなかったのだ。
だからこそ、犯人の車が残した不自然なタイヤの轍が、豪雨に掻き消されることなく泥の中に型を取ったように鮮明に残されていた。
朝倉は泥まみれのタイヤ痕を見つめたまま、低く唸るように言葉を続ける。
「それだけじゃねえ、
この溝の深さと、地面に刻まれた幅を見ろ。
並のセダンや、小綺麗な街乗りのローファーじゃねえな。
アウトドアでも走れるような、車高の高い大型の、かなり頑丈なクロスカントリー車の足回りだ。
鑑識の捜査班を今すぐここに集めろ。
……もしかしたら、姿なき犯人が現場にうっかり残しちまった、唯一の尻尾かもしんねぇ」
朝倉は黒い雨に濡れ、泥まみれになった不自然なタイヤ痕を見つめたまま、
低く唸るように命じた。
警察の初動包囲網が狭まる前に、粉塵の影に紛れて亡霊のようにこっそりと逃げ去ったはずの、あの漆黒の大型車。
――そのかすかな残響が、朝倉という敏腕刑事の『鼻』に引っかかった。




