✥4『爆心地。』
夕方の眩しい西日が、
木造りの古い縁側をオレンジ色に染め上げていた。
近くの裏山からは、
夏の終わりを惜しむような、ひぐらしの哀しげな鳴き声がカナカナと輪唱している。
私は縁側に小さな足を投げ出して、大好きな叔父と並んでスイカを食べていた。
当時の私はまだ小さくて、
幼稚で、友達の誰かと些細なことで喧嘩をしただの、その喧嘩が原因で、
なぜかお母さんからひどく怒られただの、
真っ赤なスイカの果肉に齧りつきながら、頬をこれでもかと膨らませて不満をぶちまけていたのだ。
「あのね、わたし、なんでおかあさんがおこったのかわからないの。
わたし、みーちゃんがこまってるから、
そんなことしたらだめだよっておこっただけなのに。なんで?ねぇ、なんでぇ?」
純粋な疑問だった。
困っている友達を助けようとしただけなのに、なぜお母さんは私の目を厳しく吊り上げて、
あんなに激しく私を叱り飛ばしたのだろう。
私の話を、叔父はスイカの種を庭先へと吹き飛ばしながら、本当に、本当に困ったような顔をしつつ静かに聞いていた。
今考えると、幼かったとはいえ、
叔父にあんな理不尽な愚痴をぶつけてしまったのは少し申し訳なくも感じてしまう。
あの日、
どういった理由でお母さんが、田舎にある叔父の家をわざわざ訪ねて行ったのか、
当時の私は知る由もなかった。
お母さんは普段、この家の書斎に籠もっている叔父に何かしらの複雑な書類の手続きを頼んでいたらしいけれど、
その詳しい中身については、いま大人になりかけている私だって何も知らないままだ。
ただ、叔父は食べ終え、
スイカの皮をトレイに置くと、私の頭にそっと大きな手のひらを乗せひぐらしの鳴き声に混じるような静かな声で、語りかけるようにこう言ってくれたことだけは、
今でも鮮明に覚えている。
「水琴はいい子だね。
怒ってあげることはとても良いことだよ。
結局、我慢することは良くないし、
そこで怒らなかったら、その後大きくなってから悲しむ時もあるからね」
「おじも?」
「あぁ、私も今まで色々と間違えてきた。
……だからね水琴、
後悔する前に動くべきなんだ。
思い悩むことも大事だ。
だけど、人にとって一番重要なのはぶつかり合うことなんだよ。
……まあ、君のお母さんはあまりそういうのを好かないけどね」
そう言って、叔父はとても困ったような顔をして苦笑した。
ずり落ちかけた大きめのフレーム
――今、私がかけているこのメガネの奥のその瞳は、西日の強い光もあって、普段よりずっと赤く燃えているように見えた。
夕闇に染まる縁側で、二人でスイカを食べながら見た, 叔父のその赤い瞳。
それが幼い私の心に、
とても印象的だったのを覚えている。
叔父の優しい声が、ひぐらしの合唱と共に、オレンジ色の光の中へぼやけて溶けていった。
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✥
✥
――脳髄を直接針で刺されるような、
脳を裂く激しい耳鳴りが、懐かしい夏の記憶を一瞬にして粉砕した。
今が一体いつで、
自分が何をしていたのか?
すぐには思い出せなかった。
頭がひどく重い。
視界のすべてに白い灰の霞がかかったようで、何も見えない。
ひぐらしの鳴き声はどこにもなく、
代わりに激しい耳鳴りの中を、どこか遠くの方から、くぐもった、電子的なベルの音が執拗に響いていた。
――音がする。
私は朦朧とする意識のまま、地面を掴むようにして、その音のする方へと手を伸ばした。
手を伸ばすと、それはあっさりと私の指先に届く。
それは、携帯電話だった。
赤と緑のラインが入った、銀色の折りたたみ式の奇妙な携帯電話。
それが激しく執拗に鳴り響いていた。
画面は血のような赤から、いつの間にか妖しい緑色の通話色に切り替わり、私の手の中で激しく振動していた。
私は、ベルの音に合わせて光る緑のボタンを、必死の思いで強く押し込んだ。
力の入らない腕で、どうにかそれを右耳へと宛てる。
『――水琴、よかった。
繋がった……。
てっきり、自分に向かって打ち込んだのかと思ったよ』
耳元で響いたのは、ボイスチェンジャーによって激しく歪められた、あのトロイの声だった。
ただし、その声は激しい耳鳴りのせいで酷くくぐもって聞こえ、水の中にいる時のようにどこかぼんやりと聞こえていた。
「……トロ、イ……?」
自分の声すら、どこか遠くの他人のもののようだった。
鼻の奥にツンと刺さる、焦げ臭い硝煙の臭い。底知れぬ悪意のように、これまでの人生で一度も嗅いだことがないくらい気持ち悪い臭いが辺りに満ちていた。
それは、生き物がそのまま焼けているような、生臭くて酸っぱく焦げた臭い――。
その二つの悍ましい臭いが混ざり合った空気が、私の五感を容赦なく現実へと引き戻そうとしていた。
『ボタンを押す前から、端末のモニターが真っ赤に染まっていただろう?
あれは、爆破対象と君の現在の距離が近すぎるという警告アラートだ。
一歩間違えれば、君自身が木端微塵になっていたんだぞ』
トロイの声には、いつもの冷静なトーンの裏に、隠しきれない焦燥と、どこか人間らしい必死さが混ざっていた。
あの不気味な赤光は、携帯電話が発していた命の危険を知らせる警告灯だったのだ。
私はそんなことも知らずに、ただ額山たちへの殺意だけで、自分ごと世界を吹き飛ばすような引き金を引いてしまった。
「……額山、たちは……?」
掠れた声を絞り出しながら、
私はトロイの言葉もまともに耳に入らないまま、地べたに這いつくばって地面へと必死に手を動かした。
「めがね、……どこ……?」
地べたに這いつくばって私は手を動かす。
耳元では、トロイが私を説得するように語りかけ続けている。
『眼鏡を探している場合じゃない。
先ほど、複数の通報が警察に飛んだのを僕の回線で確認した。
だからすぐにそこを離れるんだ。
……動けるか?』
冷徹に迫るカウントダウン。
……だけど私は、
彼の声を現実のものとして感じたいがために、死に物狂いで混濁する意識の中で手を探り続けた。
その時、指先によく馴染んだ、硬くて冷たいアルミ合金の質感が手に触れた。
叔父の遺品眼鏡でもある、
私の眼鏡だ。
私は心の底から安堵して、その眼鏡をかけた。
ずり落ちるブリッジを指で押し上げた瞬間、世界に一気にピントが合った。
黒煙の向こう、コンクリートの破片が飛び散った凄惨な校舎裏の景色が、
私の『赤茶色の瞳』に鮮明に飛び込んでくる。
――けれど、そこには『色』がなかった。
……なんてことはない。
ドローンが直撃し、
激しく砕け散ったコンクリートの細かな粉塵が周囲に広がったことで、そこの色素のすべてを失ったように見える状態になってしまったのであった。
灰色一色の、不気味な死の世界。
額山がどうなったのかは分からない。
ただ、そこに彼らの姿は見えなかった。
近くにいたはずの彼らが見えないのは、
なぜなんだろうか?
――鼻を突くあの硝煙の臭いと、生臭く酸っぱく焦げた臭いが、粉塵の中に重々しく漂っている。
彼らは一体、どこへ消えてしまったのか?
その時に充満している臭いが全てを物語っていたが、この時の私は理解できなかった。
喉を詰まらせながら、ゆっくりと頭を上げる。
目の前にあったはずの学校の
『大半の形が、完全に失われている』ことに気づいた。
体育館も、表側にあったはずの職員室があったであろう場所も、すべてがなくなっていた。
すべては吹き飛び、
無機質な瓦礫と化していたのだ。
もちろん、先ほどまで私がいた教室など、
跡形もなく消え去っていた。
私の頭の中が、一瞬にして凍りつく。
昼休みの午後からの大雨を避けるために、生徒たちの大半は屋内である体育館に集まっていたはずだ。
……そして教員たちも、
午後からの授業の手順を話し合うために、全員が職員室に集まっていたはずだった。
それらが、
『すべて』、跡形もなく消え去っている。
悲鳴すら聞こえないし、
動く人影すら一つもない。
そこにあるのは、あの鼻の奥を刺す嫌な硝煙と焦げ臭さと、粉塵が雪のように静かに降り積もる、完全な死の静寂だけだった。
教員も、生徒も、
おそらくはほぼ全員が、この灰色に染まった瓦礫の下にいるのだろう。
「……あ、あ、うそ……嘘でしょ……っ」
私が引いた親指で押し込んだひとつの『引金』が、数百人もの命を一瞬にして、この世から消し飛ばしてしまった。
最初のビル 爆発の時点でも分かっているつもりだった。
だけど、目の前の光景はあまりに残酷で、
その恐怖と罪の重さに、私の両足は文字通りガタガタと激しく震え、
地面に震えながらへばりついたまま一歩も動けなくなった。
遠くから、街の空気を切り裂くパトカーと救急車と消防車のサイレンの音が、何重にも重なってすぐ近くまで近づいてくるのが聞こえた。
『景色は見えたかい?水琴、
……なら話は早い』
受話器の向こうのトロイの声が、私の鼓膜に冷たく突き刺さる。
『手元の端末のキーボードを見るんだ。
左下にある、自動車のマークがついた『青色のボタン』が分かるね?
それを今すぐ押し込むんだ。
君の逃走ルートは、すでに僕が確保してある』
私は狂ったように震える親指を動かし、赤と緑のラインが入った銀色の筐体の左下、
――『青いボタン』を、壊すほどの力で深く、深く押し込んだ。
カチ、とボタンが沈んだ瞬間、
液晶モニターの『トロイの木馬』の紋章が、吸い込まれそうなほど鮮烈な『深淵の青』へと一気にフラッシュした。
直後、灰色にぼやけた世界の向こうで、
二条の鋭いライトが見えた。
そのライトは、学校の瓦礫をものともせず、
私のいる近くで大気をも震わせながら急停車する。
――目の前にあったのは、完全スモークガラスに覆われた、
重厚な黒塗りの車だった。
アウトドアでも走れるような車高の高いその大型車は、
並大邸の悪路などものともしない、肉厚なタイヤを備えている。
運転席には誰もいない。
代わりにその運転席周りの機械からケーブルが伸び、その運転座席の上にはコンピューターが 鎮座していた。
そして、その車は私が近づくと乗れと言わんばかりに、後部座席のドアが滑らかに自動で開いた。
幸いなことに、今朝ローファーが乾かなかったせいで、私の足元はあの革ブーツを履いている。
鋭く尖ったコンクリートの破片や鉄筋、
巨大な瓦礫が散乱する最悪の地面を、私はその分厚いブーツの底で踏みつぶしながら、黒塗りの車へと親指を固く握って這い寄る。
車に乗り込もうとしたその時、唐突に上から黒い布が落ちてきた。
爆発の衝撃で、教室のロッカーから空へと吹き飛ばされたのだろう。
そしてすごい奇跡的にも、それは持ち主である私の元にピンポイントで飛んできた。
それは、私を黒く包み込む、あの雨具のカッパだった。
私はそのボロボロになったカッパを拾い上げた瞬間、冷酷な現実を悟る。
カッパはこうして風に乗って降ってきたけれど、私の通学カバンも、教科書も、筆箱も、そしてカバンのポケットに入っていたはずの私物のスマートフォンや財布も、
……すべてがあの凄まじい爆発に巻き込まれ、
何一つ残らず灰になって消え去ってしまったのだと。
私と日常を繋ぐ荷物は、もうどこにも存在しなかった。
手元に残されたのは、
この銀色の携帯電話ただ一つだけ。
私は溢れそうになる涙を堪え、車に乗る前にそのカッパを羽織った。
すると、まるでそのことを察知したかのように、濁った空から激しい雨が降り始める。
今朝、鼎さんが綺麗に乾かしてくれたセーラー服は奇跡的に無傷だったけれど、爆風で飛ばされてきたこのカッパは、爆発の勢いで裾や袖がほんの少しズタズタに破け、煤にまみれて、まるで退廃的なダメージ系のロングコートのようになっていた。
空から降る雨は、空間に充満していたコンクリートの灰を吸って、ドロドロとした不気味な「黒い雨」となっていた。
私は黒い雨を振り払うようにして、車高の高い黒塗りの車の、奥深いシートへと滑り込んだ。
重厚なドアがバタンと静かに閉まった瞬間、
外のあの『硝煙の臭い』も、
『生き物が焦げたような酸っぱい臭い』も、
降りしきる黒い雨の音も、
まるで世界そのものが消滅したかのように完全に遮断された。
車内は完璧な無音と無臭のシェルターだった。
エアコンからは微かに高級な革シートの匂いが漂い、フロントのデジタルパネルが青く近未来的に発光している。
泥と、あの最悪な臭いの粉塵に汚れた私のブーツ、そしてダメージコートのようになったボロボロのカッパがそのあまりに綺麗な、
柔らかなスエード調のシートを黒く汚していく。
自分がとんでもない異常な世界へと来てしまったのだという実感が、遅れて胸を締め付けた。
私の背中を包むシートの高級な座り心地が、
かえって現実感を喪失させ頭を狂わせそうになる。
あまりの虚脱感に、私はそのまま気を失いそうになるのを必死に堪えた。
車が走り出した瞬間は学校の瓦礫を踏み越えていくためにかなり揺れたがそこから抜けると早いものでバックミラーの向こうでは、スモークガラス越しに見える灰色の学校の跡地が、
猛スピードで急速に遠ざかっていく。
――警察はまだ、学校がなぜ一瞬で消滅したのか、何が起きたのかすら分かっていないはずだ。
だから、この土埃の中、このライトを消した漆黒の大型車を追ってくる者など誰もいない。
無人のビークルは、亡霊のように静かに、影からこっそりと、全滅した地獄から私を連れ去っていった。
私は黒いカッパのフードを深く被ったまま、高級なシートの上で膝を抱えて止まらない身体の震えにただ耐え続けるしかなかった。




