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✥3『雷鳴。』

学校まで電車に三十分ほど揺られ、

目的の駅を降りてから、どんよりとした曇天の下を五分ほど歩いた。


そうして、私はいつもの学校に到着した。


 昨日の夕方、

あんなに凄まじい爆発事件がすぐ近くの街で起きたというのに、学校は何事もなかったかのように平然とそこに佇んでいる。


 世界が一瞬でひっくり返るような出来事を経験した私の目には、その変わらなさが痕跡もなく酷く奇妙に映った。


世界なんて、本当は何も変わっていないのかもしれない。


そんな現実味のなさを覚えながら、

私は校門へと足を踏み入れた。


「待て!!」


 校門の白線を踏み越えようとしたその瞬間、鼓膜を震わせるような大声が降ってきた。

 ずり落ちかけた叔父のメガネのブリッジを押し上げながら振り返ると、そこにいたのは、

やはりというか、一番面倒な教員だった。


 名前は伊達村だてむら

細身でありながらもしっかりと鍛え上げられた肉体を持つ、体育教員でもある二十代後半の男だ。


この男はやたらと熱血で、熱血すぎるあまりに他人の話を一ミリも聞きやしない。

 実際、私が学校でのいじめに耐えかねて、藁をも掴む思いで助けを求めた教員が複数人いたのだが、そのうちの一人がこの伊達村だった。


『気合いだ!

気合いで耐えればなんとかなる!

人生は山あり谷ありだ!!

だから頑張れ!!

よし、みんなと話そう!!』


 そう言って私をクラスメイトのところまで連れて行ったが、

結局のところ、いじめがどちらかと言うと悪化した要因ともいえる。


悪化してもなお彼から見れば『より絆が深くなったな』などと満足そうに深く頷くだけだった。


 ――まぁ、確かに絆は深くなったのではないだろうか?(私をすり潰してあざ笑う、いじめ側の絆だけは。)


 そんな伊達村が、学校指定の靴を履いていない今の私の格好を見逃すはずがなかった。


 午後からの雨に備えて羽織った黒いコートのような雨合羽と、指定のローファーではなく足元を重々しく主張する私物のごつい革のブーツ。

 伊達村は凄い勢いで私にズカズカと詰め寄ってきた。


「おい、見込!

その靴は何だ!?

お前は学校の規律を

なんだと思っている!!?」


 怒っている訳ではないらしいが、彼は良くも悪くも熱血だった。


真面目な顔をして、

悪いことをしようとする不真面目な生徒に、何とかして指導しようとしている熱心な教師に、彼自身は本気で見えているようだった。


 私はダメ元で、この教員に理由を説明することにした。


昨日ヘドロでローファーが泥まみれになり、

鼎さんが洗ってくれたけれど、

乾かないからこれを履くしかなかったのだと。


 私が説明するたびに、彼は大裟に首を大きく縦に振る。

その度、その度、リアクションが無駄に大きかった。


「ほう!」だの。

「何ぃ!」だの。

「そうか!」という。


……多分、話のほとんどを自分の都合のいいように脳内で変換して聞いているのだろう。


それでも、私は全部話した。


「だがだめだ!」


 しかし、結果はご覧のあり様である。

私の必死の説明を、彼は一言で一蹴した。


「規則は規則!!

それを守らない、それはだめだ!!

そうじゃなきゃ、

他のものに示しがつかないだろ!?

なあ、みんな!そうだろ!!?」


 熱い男は、登校中の周囲の生徒たちに大きな声で同意を求めた。


 周りの人たちは、関わり合いたくないのか、あるいは面白がっているのか、

伊達村に合わせて首を縦に頷く。


一部は頷いていないものも

いたかもしれないが、やはり彼は、

自分の都合のいいように世界を見る。


「ほらな!?

だから見込、

一旦家に帰って靴を履いて戻ってこい!」


「……それだと遅刻します」


 私がそう言うと、彼は神妙な顔をして首を深く頷かせた。

そして、得意げに口を開いた。


「気合いだ!!

 それでなんとかなる!」


――やっぱり、話が通じない。

 私は叔父のメガネの奥で、底の抜けたような諦めとともに、そう思ったのであった。


伊達村の熱苦しい励ましを浴びながら、

このまま回れ右をして家に帰り、もう二度と学校には行かず、

このまま不登校にでもなろうかと考える。


本気でそう思考しかけた、その時だった。


「まあまあ、伊達村くん。

そう言っては、生徒がかわいそうですよ?」


 伊達村の後ろから、よく通る穏やかな男の声が割り込んできた。

 振り返ると、そこにいたのは深谷ふかやという男性教員だった。


担当は国語。

丸みのある体型で白髪交じりの髪に

口髭を蓄えた男だ。

彼はいつも通りの、朗らかで温和な笑顔を浮かべながら伊達村に語りかけた。


「やむを得ないこともあるのです。

そういう時は、臨機応変に対応しなくては」


「だがしかし、深谷先生!!

 規則を一度でも破れば――」


「伊達村くん」


 なおも熱血で押し通そうとする伊達村の言葉を、深谷は静かに口を開く


「君が素晴らしい熱意を持って生徒に接しているのは、私もよく知っている。

だけどね、本当の強さや規律というのは、

ただ形を押し付けることではないと私は思う。

じゃなければ不測の事態が起きたときに、生徒の事情を汲み取ることができないだろう。

まずは最適な道を示してあげることこそが我々、指導者としての本当の器量じゃないのかな?

さて、伊達村くん。

今の君の熱さは、生徒を救うためのものかい? それとも、君のこだわりを通すためのものかね?」


有無を言わせない大人の包容力で遮り、綺麗に言い負かしてしまった。


形勢不利と見た伊達村は、不承不承といった様子で


「くぅっ!気合いがっ……!!」


と、叫ぶようにして呟きながら、

そのまま校舎の方へと走るようにして引き下がっていった。


「大丈夫ですか?見込さん」


「……はい、ありがとうございます」


「彼を許してあげてください。

彼はただ不器用なだけで、悪気はないんですから」


 深谷はそう言って、ニコリと笑った。

周囲の生徒から見れば、それは理不尽な体育教師から困っていた可哀想な女子中学生を救い出した、心底優しい理想の指導者の姿だったのだろう。



 だが、私は、この教員が心底嫌いだ。



死ぬほど憎くて、憎くて、堪らない。


 深谷は、私が学校での地獄に耐えかねて助けを求めた教員のうちの一人であり、その中で最も最悪なタイプの人間の一人だった。


 いじめの相談をしたあの放課後。

彼は親身な顔で『ここで全部話しなさい』

と、私に言い、

私が正直に流した涙も、悲鳴も、すべてをポケットの中のレコーダーで密かに録音していたのだ。


そしてその録音データを人質に取り、

『いじめグループにこの事をバラされるのはとても困るだろう?

学校に居づらくなりたくなかったら私の言うことを聞け』と、


 その後の放課後に、彼が誰もいない準備室で私に何を強要したのか、本当に思い出したくもない。


「まあ、その代わりと言ったら何なんですが――」


 深谷はニコニコとした笑みを絶やさないまま、私のすぐ横へと一歩距離を詰めた。

 術もなく、登校する他の生徒たちの死角になる位置で私のカッパの上から腰のあたりに生温かい手を回し、

指先を小さく這わせた。


「放課後、よろしくお願いしますね」


 ゾワリ、と全身の毛穴が逆立つような激しい悪寒が、背筋を駆け抜けた。


……これだったら、

あの脳無し熱血漢の言う通り、家に帰ってそのまま不登校にでもなればよかった。


私は黒いロングコートの中で、激しい恐怖と、吐き気を催すほどの殺意に震えながら、強く、強くそう思った。


――ポケットの奥の銀色の携帯電話が私の震えとシンクロするように冷たく重みを増していく。


そんな気がした,



 校舎に入り、重いブーツから指定の上履きに履き替えて、私は自分の教室へと向かった。


 廊下まで響いていた朝の騒がしい声は、私が教室の引き戸を開けて一歩足を踏み入れた瞬間、ピタリと一斉に静まり返った。


凍りついたような静寂。

しかし、

それもほんの一瞬のことで、私が歩き出すと、

何事もなかったかのようにまた元の騒がしさに戻る。


 私は気配を消し、うつむいたまま自分の机へと歩いた。


 生まれつき弱視の私は、

黒板の文字が見えるようにと、教室の一番前方の席を指定されている。


その、私にとってなくてはならない席の上が、悲惨なことになっていた。


 机の真ん中に、ぽつんと置かれた白い菊の花。

そして、花瓶の受け皿の淵には泥にまみれた大量のミミズが蠢き、その横にはいつから放置されていたのかもわからない小動物の悍ましい死骸が詰め込まれていた。


 ――相変わらずの、タチの悪さだ。


 吐き気が胃の底からせり上がってくるのを、私は奥歯を噛み締めて必死に堪えた。


 仕方なく、私は鞄を床に置き、泥まみれのミミズと死骸を片付け始める。

周囲のクラスメイトたちのニヤニヤとした、

愉悦に満ちた視線が、叔父の形見のメガネの奥の視界に嫌というほど突き刺さってくる。


 だけど、それを無視するしか方法がない。

もしここで私が激情を剥き出しにすれば、それこそ彼らの思うツボなのだ。


感情を殺せ。

機械になれ。


私は心の中でそう念じながら、

ゴミをゴミ箱へ運ぼうとした。


――その時だった。


 べしゃり、という不快な重い音を立てて、私の頭に冷たく濡れた雑巾が飛び込んできた。


 汚水を吸った網目が、私の長い黒髪を濡らし、額から頬へと冷たい雫が滴り落ちる。


「おい吸血鬼、掃除には雑巾が必要だろ?

 俺は心が優しいからお前に雑巾をやった。

なぁ、だからいいだろ?」


 教室の後ろから、嘲笑混じりの声が響いた。 クラスのカースト最上位に君臨する男――


額山隼人がくやま はやとだ。


 こいつは事あるごとに私に絡んでは、何かと理不尽な『要求』を突きつけてくる。

本当に、どうしようもないクズだ。

 学校の人気者という面の皮を被りながら、

人目のつかない場所で私を力ずくで押さえつけ、面白半分に玩具にして遊んでいる張本人。


本当に、腹が立った。

本当に、気持ち悪くて、

反吐が出そうだった。


……絶対に、許さない。


 さらに最悪なのは、こいつを盲目的に好いている女子生徒たちがクラスに大勢いるという、信じられない現実だ。


 私が額山の発散に付き合わされる度、男子からの暴力だけでなく、

女子からの嫉妬の刃までが私を切り裂く。


額山に玩具にされる度、

私の立場はより激しく、より悲惨なものへと追い詰められていくのだ。

 実際、今この瞬間も、額山が私に『構った』ことに対して、周囲の女子たちの目つきがナイフのように鋭くなっているのが分かった。

額山を睨みつければ彼は周りの女子の目線のことにも気づいているような素振りをした。


――すべての悪意が私を窒息させようと押し寄せてくる。



 やがてチャイムが鳴り、

担任によるホームルームが始まった。


目の前で起こっていることに気にすることもなく担任はいつも通りの保身に満ちた顔で連絡事項を伝えた後、『昨日の爆破事故のこともあるので、登下校の際は皆気をつけるように』とだけ注意を促した。


世界があんなに激しく崩壊したというのに、

この学校に流れる空気だけは、どこまでも白々しくて不快だった。


そうして、いくつかの退屈な授業が通り過ぎていく。


頭にぶつけられた雑巾の生乾きの臭いが、ずっと鼻について離れなかった。


――昼休みがやってきた。


チャイムが鳴り響くと同時、私は額山たちによって強引に席から立たされ、

人気のない校舎裏へと無理やり連れて行かれた。



……二十分くらいが経っただろうか。

地べたに這いつくばらされ、

髪を引っ張り回され、

本当に最悪な気分だった。 


もう、全部嫌になる。


惨めだ。

こんな姿、本当に嫌になった。


(どうして私だけが、こんな目に遭わなければいけないのだろう?)


私をいたぶった当の本人たち

額山や、その取り巻きの男子生徒たちはといえば、まるでスポーツでも終えたかのように、楽しそうに笑い声を上げていた。


……そうして彼らは、

私の絶望した顔を見て、さらに何か新しいいじり方を思いついたようだった。

その瞬間、

額山の手が私の顔に伸び、乱暴にメガネを剥ぎ取った。


「あ……っ、返して……っ!」


額山は私の声を無視して、奪い取ったメガネを高らかに持ち上げた。

そして、ニヤニヤとした下劣な笑みを浮かべながら、彼らはこう言うのだ。


「これ、お前の大事なやつなんだって?

 確か、誰かの遺品だったよな?」


「はははっ、

そんな気持ち悪いもんつけてんじゃねーよ、

吸血鬼!」


「お前のために、

今からこれを壊してやるよ!」


コンクリートの壁に、叔父の形見のメガネを叩きつけようとする額山の手。


その光景を見た瞬間、

――私の中で、何かがぷつり、と切れる音がした。


全ての景色が、

激しく歪んで見えた。


メガネを外された私の目からは、

世界のすべてがぼやけて、何一つまともに視認できない。


だけど、

胸の奥から湧き上がる怒りと殺意だけは、

これまでの人生のどの瞬間よりも、

鮮明に、

鋭く、私の肉体を支配していた。


(――もう、我慢しない。)


もう、赤のボタンを押さないなんて、

そんな生ぬるい誓いなんて知るものか。


私は地面に倒れ込んだまま、

はだけた自分の服のポケットへ、

額山たちによって汚されヘドロのようにねばついた素手を滑らせた。


指先が、あの赤と緑のラインが入った銀色の携帯電話に触れる。


パカリッ

と、開いた画面は私の激情とシンクロするように、デフォルトの黄色から、血のような『警告の赤』へと瞬時に染まり、

馬の紋章が怪しく拍動しているように見えた。


ぼやける視界の先、

私のメガネを壊そうと笑っている、

額山たちのシルエットに携帯の裏側を真っ直ぐに向ける。


――そして、

私の親指が、真ん中にある『✕マークのついた赤いボタン』を

深く、深く押し込んだ。


私は、自分の魂をすべて乗せるように、

絞り出すような声でこう言った。


「――全部、吹き飛んじまえ」



――直後、学校全体に白い閃光と雷のような音が轟いた。




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