✥2『曇天の日常。』
あの後、
自分がどうやって路地裏を抜け出し、
どうやってここまで帰ってきたのか私には一切の記憶がなく、
完全に記憶が抜け落ちていた。
気がついたときには、私は見慣れた自分の自室のベッドの中にいた。
肌はシャワーですすがれ、あの生ゴミと油の臭いが染みついていた黒いセーラー服は、
無意識のうちに洗濯機へと突っ込まれていたらしい。
部屋の中がひどい惨状になっているということはなかったけれど、
それすら記憶にないほど、私の心は限界を迎えていたのだ。
毛布を頭からすっぽりとかぶり、ベッドの隅で小さくなって、私はただひたすら震えていた。
奥歯が鳴る音が狭い部屋に虚しく響く。
震える手でリモコンを拾い、自室の小さなテレビの電源を入れる。
『――続いてのニュースです。
昨日の正午頃、✕✕県✕✕✕市の北側で発生したビル爆発崩落事件について、新たな情報が入りました』
画面の向こうのアナウンサーが、神妙な面持ちで原稿を読み上げている。
ヘリコプターから撮影された映像には、
昨日までそこにあった無機質な灰色の躯体が、完全に地面へと沈み込み、無残な瓦礫の山と化している姿が映し出されていた。
『崩落したのは、十数年前に開発が頓挫したまま放置されていた、商業ビルで地元では廃墟ビルとして知られていた場所でした。
所有者に取材したところ本来であれば無人のはずとのことでしたが、捜査関係者への取材により、ここ最近は廃墟には身元のわからない『愚連隊』などの若者たちが不法に住み着き、
地元で何度か衝突があったようです。
そのため犯罪の温床になっていた可能性が高いとのことで、警察は不良グループと反社会的勢力による『内部抗争が原因の爆破事件』ではないかとして、捜査をすると同時に現在、瓦礫の下に取り残された被害者がいないか確認をしています。
また、世論でも様々な憶測が囁かれて――』
画面に映る瓦礫を見つめたまま、私は毛布を強く握りしめた。
愚連隊、
反社会的勢力、
内部抗争、
ニュースが告げる言葉は、
どれも私には縁のない、
遠い世界の出来事のようだった。
あの灰色のビルがそんな場所だったなんて、今の今まで知りもしなかった。
私を『ミミズ』『吸血鬼』と呼び、好き放題にいたぶってきた学校のいじめっ子たち。
彼らの一部が、そういった街の不良たちと裏で繋がっているという噂を耳にしたことはあるけれど、
それが本当なのか、
あのビルに彼らが関わっていたのかすら、私には何も分からない。
今回の事件は、私にとっては分からないことだらけなのだ。
――ただ一つだけ確かなのは、
私が『全部壊したい』と願ってあの赤いボタンを押した直後に、あの場所が現実の爆発で吹き飛んだということだけだ。
しかし、
唯一自分が直面しているこの現実味のない事態を紛れもない『現実』である、と認識させる『もの』が手元に一つだけ残されていた。
昨日、あの薄暗いゴミ溜めで拾った、あの『改造携帯電話』だった。
昨日は生ゴミの汚水とヘドロ、そしてギトギトとした油でひどく汚れていた。
けれど、それも昨夜のうちに、私が無意識のうちに洗面所で綺麗に洗い流していたらしい。
ヘドロが落ちたその筐体は、昨日は汚れのせいでただの黒いジャンクパーツに見えていたが、実際には全く違っていた。
鈍い輝きを放つ銀色の金属製。
そのシャープなボディを這うように、鮮やかな赤と緑のラインが刻まれている。
私がパカパカと折りたたみ式の本体を開くと、その動きに連動して液晶モニターが鮮やかに点灯した。
昨日は黒く粘ついたヘドロまみれでよく見えていなかったけれど、バックライトに照らされた画面の中央には、デフォルトの輝きである『妖しい黄色の馬の紋章』がくっきりと浮かび上がっている。
……昔、歴史の教科書
か何かで読んだことがある、
ギリシャ神話の挿絵。
その戦記に出てくる、大きな戦の道具によく似ている。
「……トロイの……木馬?」
端末の光に顔を照らされながら、私は、自分の脳裏に浮かび上がったその言葉を、ぽつりと、自室の静寂の中に口に出していた。
画面下部のキーボードのところも、私が丁寧に拭き取ったのだろう。
汚水が消え去ったことで、3つの並んだボタンの意匠がはっきりと視認できた。
真ん中には、
✕のマークがついた、禍々しいほど鮮烈な
『赤いボタン』。
左上には、
受話器のマークがついた
『緑色のボタン』。
左下には、
クラシックな自動車のマークがついた
『青色のボタン』。
そしてその右側には、いつだったか昔の話や古い映像で聞いたことのある、黒電話と言われる大昔の機械を500円台の大きさにまで縮小した回転ダイヤルが、不自然な歪さで取り付けられていた。
(……赤のボタンは、もう二度と押さない。)
ビルの崩壊の凄まじい地響きを思い出し、私は心の中で強くそう決めた。
あんな恐ろしい破壊の引き金には、もう指一本触れたくはない。
そう決めながら、私は他のボタンへと視線を移した。
クラシックな自動車のマークがついた青色のボタンは、そもそも何を意味しているのかが分からなさすぎて論外だ。
……だとすれば、いま押せる可能性があるのは、受話器のマークがついた緑色のボタンだけだった。
けれど、
これを押したら一体どうなるのだろうか?
私は、本体の横に取り付けられた黒電話の回転ダイヤルには触れないまま、その緑色のボタンをそのまま真っ直ぐに押し込んだ。
軽い、カチッとした小さなクリック音が静かな自室に鳴る。
押した途端、
その黄色の紋章が、次の瞬間には一瞬にして鮮烈な緑色へと染まり、どこかへと発信を始めた。
五回ほどコール音が鳴り響いた後、
向こう側の誰かが電話を取ったのか画面に通話中という表示が出る。
私はそっと、受話器を右耳に当てた。
『おはよう、水琴。調子はどうだい?』
耳元で響いたのは、昨日聞いたあの声だった。
高い声と低い声が同時にぴったりと重なって響く、
非常に不気味な、あのボイスチェンジャー越しの人間の声。
機械のプログラムなんかじゃない。
この電話の向こう側には、
私の『全部壊したい』という願いを聞き届け、
この恐ろしい力を貸してくれている『本物の誰か』が確かに存在している。
「……元気そうに見える?」
皮肉をたっぷりと込めて、私は受話器に向かって口にした。
あんな大事件の引き金を引かされて、一晩中恐怖でガタガタ震えていたのだ。
元気なわけがない。
しかし、私の精一杯の抵抗に対して、電話の向こう側の人物は、少し困ったような苦笑混じりの声を響かせた。
『……すまないね。
残念ながら、僕の方からは君が今どういう顔をしているかとかは分からないんだ。
僕が確認できるのは、君の現在の位置情報だけだからね』
「……この携帯、発信機でもついてるの?」
自分が監視されているような不気味さを覚えて、私は思わず受話器を握る手に力を込めた。
すると、トロイはまるで何でもない世間話でもするかのように、軽いトーンで言ってのけた。
『それは最近の携帯なら、どれにだってGPSくらいついているだろう?
まあ、僕の場合は、僕個人が打ち上げて所有している専用の人工衛星だけどね』
軽いことのように、彼はそう言った。
ハッキングして他人の衛星を覗き見ているのではない。
正真正銘、
自分個人の衛星を宇宙に飛ばして、私の位置を上空から見下ろしている。
――個人で、人工衛星。
この端末の向こうにいる人物が、世界のルールそのものを動かせる領域にいる存在なのだという現実が、私の背筋を冷たく撫でていった。
そんな人間が、なぜヘドロの中にあんな 端末を置いて行ったのだろうか?
「……あなたは一体……」
『何者なんだ?』そう、私がその喉元まで出かかった疑問を突きつけようと、
――まさにその時だった。
コンコン、と私の部屋の扉を優しくノックする音が、静かな自室に響き渡った。
「水琴ちゃん、学校は行かなくていいの?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、少し低く落ち着いた女性の声。
我が家に契約で来ている、家事代行の鼎さんだ。
その声を聞いて、私はハッと我に返る。
どうやら母は今日も仕事で帰ってきていないらしい。
いつも通りの、誰もいない冷え切った我が家。
「あ、すみません!
今行きます!」
私は慌てて大きな声を返し、ベッドの上で再び手元の端末へと視線を落とした。
緑色に染まっていたはずの『トロイの木馬』のシンボルマークは、いつの間にか元の妖しい『黄色』のデフォルト表示に戻っており、
通話画面は切れていた。
鼎さんのノックの音に合わせるように、向こうから静かに回線を遮断されたのだ。
私は急きょ現実へと押し戻され、残された銀色の折りたたみ携帯をポケットに押し込むと、ベッドから立ち上がった。
部屋を出ると、台所の方から出汁と焼き魚の、香ばしい朝食の匂いが漂ってくる。
リビングへ向かうと、
そこには家事代行の鼎朝子さんが立っていた。
20代後半の彼女は非常に仕事ができる人で、
いつも我が家を清潔に保ってくれるだけでなく、常に美味しい食事を作り置きしてくれている。
鼎さんは私の顔を見ると、いつものように優しく顔をほころばせた。
「おはよう、水琴ちゃん。
ご飯できてるわよ。
早く食べなきゃ遅刻しちゃうから、さっさと食べちゃいなさい。
あと、服が洗濯機に入ったままだったから、乾かしといたわ。
それ着なさいね」
「おはようございます、鼎さん。
朝食いただきます……あと、制服ありがとうございます」
私はお礼を言って席についた。
鼎さんはまあまあ気さくな人ではあるけれど、学校での陰惨ないじめのことも、
今まさに巻き込まれているであろうトロイの恐ろしい携帯電話のことも、彼女にだけは絶対に話せないな、
と、私は胸の奥で思っていた。
テーブルに並んだ朝食のメニューは、
温かいお味噌汁に焼き魚、
炊き立ての白米。
その横には、ほうれん草の胡麻和えが丁寧に添えられている。
私がそれらの朝食を口に運んでいる間も、リビングのテレビでは、今週末に開催されるという『ソラミール平和ゲートタワー』の開業5周年記念セレモニーの特集を流していた。
煌びやかな平和のニュースの後に映し出される、黒い煙を上げる無惨な瓦礫の映像。
それを見ながら、鼎さんは頬に手を当てて、
「物騒ねぇ……」
と、他人事のように呟いていた。
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私は静かに朝食を食べ終えると、鼎さんが乾かしてくれた黒いセーラー服に袖を通した。
カバンを持って玄関へ向かい、
靴を履こうとしたその時、後ろから鼎さんが「あっ」と声を上げて私を呼び止めた。
「そういえば水琴ちゃん。
昨日、用水路かどこかに足入れちゃったの?
靴、すごいことになってたわよ」
「……えっと、」
私は玄関で硬直した。
どうやら昨日の私は、服や体はどうにか無意識に洗い流していたらしいけれど、革製の通学靴だけはヘドロと油にまみれたまま放置していたらしい。
鼎さんはやむを得ず靴を洗ったとのことだった。
そして、干すのに時間がかかるため今日はまだ履けない、とも。
指定のローファーが使えない。
仕方なく、私は下駄箱の奥から、普段の休日なんかに履いていた私物の革のブーツを取り出した。
黒いセーラー服に合わせるには、若干ごつくてミリタリー調の、少し目立つ靴。
いつもなら『吸血鬼』『ミミズ』と目立っていじめられるのを恐れて絶対に学校には履いていかない種類のものだ。
だけど、背に腹は代えられない。
さらに、リビングのテレビの天気予報や、
自分が普段から使っている普通のスマートフォンに目を落とすと、どうやら今日は午後から雨が降るらしい。
それも踏まえて、私は玄関の収納に仕舞われていた、黒いコートのような形をしたカッパを引っ張り出す、
黒いセーラー服の上からその黒い雨合羽を羽織り、ごついブーツの紐をきつく結ぶ。
極力目立たないように生きてきたはずなのに、図らずも今の私は、全身を禍々しい黒で包み込んだような異質な格好になっていた。
ポケットの奥には、赤と緑のラインが入った銀色の携帯電話が重みを主張していた。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい。」
家族ではない人物によって見送られる我が家にそう声を残し、私は玄関のドアを開けて外の世界へと踏み出した。
――外は、見事なまでの曇天だった。
太陽の光は分厚い灰色の雲に完全に遮られ、まだ午前中だというのに街全体が薄暗い影に沈んでいる。
ひんやりとした湿った風が私の三つ編みを揺らし、雲の遥か向こう側から、
鈍く低い雷の音が地鳴りのように聞こえてきた。
空までが、これから何かが始まるのだと私に告げているようだ。
私はいつもより硬く重い足音をアスファルトに響かせながら、地獄のような日常の中心である学校へ向かって歩き始めた。




