✥1『迷える正義に引き金を。』
始まりは何だったか、
もうよく覚えていない。
けれど、記憶で覚えている限りでは、
相手側のちょっとした些細な悪口から始まったことだけは覚えている。
『おい見込、
こっち見んなよ、呪われる!』
『瓶底メガネの奥、目が真っ赤じゃん!!
マジキモ!!』
『マジ、『吸血鬼』じゃん!!』
本当に、ただそれだけだった。
――『吸血鬼』、
そう、私の生まれつきの瞳の色をからかう、
子供じみたあだ名がついた。
そこから、悪意の雪だるまはどんどんエスカレートしていき、今では学校全体を通してのものとなってしまった。
女子からは毎回、陰険ないじめを受け、
男子からは物を投げつけられる。
……下手すれば肉体目的に、好き放題に私を人目のつかないところで押さえつけたものもいた。
誰も助けてくれない、逃げ場のない毎日。
吸血鬼、吸血鬼とあざ笑われながら、私はただ血の涙を流すことしかできない無力な人間だった。
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『力がないのは罪である』
どっかの誰かの言葉だ。
そんな含蓄のある誰かの言葉を、私がボロボロになりながら助けを求めた教員は、
事もあろうに言葉に発していた。
どこか得意げな顔をしているこの教員の顔面を、今すぐ全力でぶん殴ってやろうかと、
私は何度も思った。
けれど、
私にはその顔を殴るだけの『力』がなかった。
『みんな、吹き飛んじまえ』
私は本気でそう思った。
この日常も、
この痛みも、
そこで押し殺してきたこの想いも。
すべてを本物の爆弾で爆発させて、粉々に吹き飛んでしまえたなら、
どれほどよかっただろうか。
それでも世界は何事もなかったかのように人々が営み続けている。
この退屈で理不尽な日常は変わらず、
変化せず、流れ続けてゆく。
今年で14になった。
でも、私には誇れるものなど一つもない。
『君の誇れるものは、誰に対してもその怒れるその心が、君の利点だよ』
10年前に死んだ叔父は、まだ幼かった私にそう言った。
私と同じ、赤に近い奇妙な茶色い瞳をしていた叔父。
私は生まれつきこの赤い目が影響で弱視だったために視力が低く、それは叔父も同じだった。
10年前に叔父が死に、死んだ時に形見としてその遺品のメガネを私は譲り受けた。
レンズこそ自分に合う分厚い瓶底レンズに替えてもらったけれど、少し大きめのフレームは叔父が使っていた時のまま使っている。
腰まである長い黒髪を二つの三つ編みに結び、叔父のメガネをかけて、
周囲のクラスメイトと同じ黒いセーラー服の中に身を縮める。
それが私のすべてだった。
――今の私に、
叔父の言葉すら誇れるのだろうか?
ただ怯えて、
心の中で『消えろ』と喚くだけのこの醜い感情を、叔父は本当に私の『利点』だと言ってくれるのだろうか?
そんな、泥のような思考に溺れていた、放課後の通学路でのことだった。
「ほら、ミミズ! 次あっち!」
「あはは!ウケる、吸血鬼のくせにマジで虫ケラみたい」
現実の暴力が、私の思考を鋭く引き裂いた。
クラスのいじめっ子たちが私の手からカバンを乱暴に奪い取り、私はバランスを崩しその場で派手に転んだ。
その際に膝を擦りむいて膝からは血が流れた。
そのまま、すぐ横にある路地裏の隙間へと面白半分に投げ込んだのだ。
「ミミズなんだから、ジメジメしたゴミ溜めがお似合いだろ!」
そこは大人が一人通るのがやっとの、狭く薄暗い隙間だった。
潰れた段ボールや、いつからあるのかもわからない生ゴミの袋が乱雑に散乱している、街の死角。 地面には、飲食店から流れ出たギトギトした油混じりの汚水が溜まり、真っ黒なヘドロが不気味に沈殿している。
「じゃあな、
ちゃんと拾って帰れよ、ミミズ!」
満足した彼らの笑い声が遠ざかってゆく。
私は膝の擦り傷の痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。
投げ込まれた衝撃で、カバンのジッパーは完全に開いてしまっていた。
「……あ」
隙間の奥を覗き込んだ私は、絶望に息を詰まらせた。
教科書も、
ノートも、
筆箱も、
すべてがジッパーの隙間から飛び出し、
生ゴミの悪臭が漂う黒いヘドロと汚水の中に、バラバラに水没していたのだ。
私は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえ、その狭い隙間へと這いずるように足を踏み入れた。
ツンと鼻を突く汚水の臭いに吐き気を堪えながら、私は手袋もしていない素手をヘドロに突っ込み、油を吸って黒ずんでいく自分の持ち物を一つずつ拾い集めていく。
ノートを拾い、ひしゃげた筆箱を回収し、
文字が滲んでいくプリントをかき集める。
惨めさと悔しさで、視界がじんわりと滲む。
あと一冊、油まみれの汚水に沈んだ英語の教科書を拾おうと、赤錆びた缶やゴミの山の隙間のヘドロに指先を深く突っ込んだ、
その時だった。
指先が、教科書とは違う、 妙に冷たくて硬い質感のものに触れた。
ヘドロの中からそれを取り出したとき、私は動きを止めた。
「……何、これ。スマホじゃない……」
それは、私の短い人生の中で一度も見たことがない、異質な物体だった。
私たちの世代にとって、携帯電話とは全面ガラスの薄い板のことだ。
けれどこれは、真ん中にヒンジがあり、上下にパカパカと折りたためるような不格好な構造をしていた。
昔の人が使っていたという『ガラケー』に似ていたけれど、テレビで見たそれとも明らかに違っていた。
黒いヘドロを纏ったボディを侵食するように、不自然な太さの配線や、鈍く光る未知の金属パーツがむき出しで改造されている。
まるで生物の器官と機械が融合したかのような、禍々しく無骨な形。
画面の下には、かすれた謎の文字――ギリシャ語で『ΑΓΝΗ ΔΙΚΑΙΟΣΥΝΗ』と刻まれている。
スマホのフォントとは違う、どこか神聖で異様なその文字列を、中学生の私が読めるはずもなかった。
私が戸惑いながらその不格好な塊をまじまじと眺める……、
その時だった。
――ジリリリリリン!!!
唐突に、けたたましい電話のベルの音が、狭い路地裏に鳴り響いた。
あまりの爆音に心臓が跳ね上がり、思わずその機械を汚水の中に再び落としそうになる。
「な、何!? どうやって止めるの!?
これ……っ!!?」
いじめっ子たちに聞かれたら見つかってしまう。
焦った私は、いつも自分のスマホを操作するように、
液晶画面を指で必死になぞったりして止めようとした。
けれど、
ガラスではない画面は何の反応も示さず、うるさい音は一向に止まらない。
どうしたらいいのかわからない。
パニックになりかけた私の視界に、電話の動きに合わせて、キーボードの左上にある『緑のボタン』が激しく光り、点滅しているのが飛び込んできた。
私は祈るような気持ちで、その光る緑のボタンを親指で強く押し込んだ。
カチリ、と硬いクリック音が響くと同時に、耳障りなベルの音がピタリと止まった。
拾った瞬間に表示されていた丸い縁取りの中に馬の絵が入った黄色いシンボルマークが表示されている画面が、電子の妖しいグリーンの馬のシンボルマークに色が切り替わり、そのシンボルマークの下には 通話を意味する通話時間のタイマーが動き出し通話中であることを示す表示に変わった。
画面のその表示を見たとき、ちょっとした好奇心が勝ってしまったのだろう。
私は吸い寄せられるように、
その機械のスピーカーにあたるところにそっと耳を当てた。
『――電話を拾ってくれてありがとう、迷える正義よ』
耳元で響いたのは、全身の肌が粟立つような、不気味な声だった。
ボイスチェンジャーを使っているのだろうか?
高い声と低い声が同時にぴったりと重なって響く、非常に不気味な電子音声。
『さて、電話を拾ってくれた君に、
ひとつ問おう。
君の望む、平和とは何だと思う?』
私が口を開くより前に、声の主は容赦なく質問を重ねてくる。
あまりにも大きすぎるその質問に、私は答える内容が何一つ思いつかなかった。
私が質問の答えを返すことができず、ただ黙っていると、耳元の受話器から、
ふむ、という声が漏れた。
そして、私の心を暴くように、二重の電子音声が再び響く。
『では、質問の仕方を変えよう。
今、君はこの世界の何に怒っている?
それを君はどうしたい?』
私は口を開けて、何かを喋ろうとした。
けれど言葉を失って、すぐに口を閉じる。
……また喋ろうとして、喉の奥が詰まって、
まるで金魚のように口を開け閉めを繰り返した。
呼吸が激しく乱れ、胸の奥のマグマが溢れそうになるのを、必死に言葉の形にしようともがいた。
口を開いては閉じる、
そんな不格好な呼吸を五、六回ほど繰り返しただろうか?
ヘドロがこびりついた爪を手のひらに食い込ませ、私はようやく、声を絞り出した。
「……たい、
……全部、壊したい!
全てをめちゃくちゃにして、何もかも、
全部! 全部!!」
その剥き出しの怒りの言葉に対して、電話の向こう側の声の主は、一瞬だけ息を呑んだような、そんな気配を見せた。
『……てっきり、路地裏で拾ってくれたから、もしかしたらもう少し、年を取った方が手に取ったかと思っていたのだが。
その声、若いね。
一体、君はいくつなんだい?』
「14」
『若いね……』
私が間髪入れずに答えると、相手は少し困ったような声になった。
……そこにはどこか、
優しさがあるような気がした。
しかし、相手はすぐに感情を切り替えるように、また最初の頃のような毅然としたトーンで喋り始めた。
『君がこの端末を手に取った時点で、
君の願いは叶う。
無垢な正義よ、世界を救え。
それが、君と僕の望みだ。』
そう言って声の主は思い出したように語る。
『……そういえば、名乗るのを忘れていたね。
僕の名前はトロイ。君の名前は?』
「……見込水琴、」
声の主の質問に私が名乗ると、電話の向こうで少し無言になる相手。
長い沈黙の後、トロイは掠れた声で呟いた。
『……そうか。
なるほど……これも、運命か。』
どこか遠くを見るような声、
しかしそれも 先ほどと同じく 一瞬のことですぐに元の声に戻る。
『水琴、
今君の目の前にその路地から見える灰色のビルがあるだろう?
そこに向いて携帯のダイヤルの中で一番大きなボタンの赤のボタンを押してごらん。
そこに、君の望む『力』がある』
私は携帯電話を耳に当てたまま、周囲を見渡した。
ほんの少し切り取られた空の方向に、灰色のビルが見えた。
私は意味がわからないまま、受話器に耳を当てたまま、ダイヤルの中心にあるその赤いボタンを深く押し込んだ。
カチッ、硬い金属音が響いた。
その瞬間に モニターに映っていた緑色に光っていたシンボルマークが赤色になる。
次の瞬間、私の頭上、
――切り取られた四角い空の向こうから、羽虫の羽音をさらに鋭く、巨大にしたような不気味な高音が響き渡った。
――鼓膜を擦るような、凄まじい高速の風切り音が切り取られた四角い空を駆け抜けて行く。
「え……?」
それが何なのかわからず、私はただ呆然とその影を見上げていた。
どこからともなく現れた『何か』が、猛烈なスピードで空を切り裂いていく。
西日の逆光の中に浮かび上がったシルエットは鳥ではなく、固定されたシャープな羽を持ち、尾羽根があるであろう部分には プロペラがついている。
……まるで小さな飛行機のような形だった。
それが、固定翼ドローンであると気づいたまさにその瞬間、その影は灰色のビルの下の階層に吸い込まれるようにして当たった。
――直後、足元から突き上げるような衝撃とともに、街の空気が一瞬にして爆砕した。
それは、通常の爆薬が上げるオレンジ色の火の玉とは根本的に異なる、異様な光景だった。
爆心地から放たれたのは、超高圧によってプラズマ化した大気が放つ、視界を完全に遮断するほどの純白の閃光。
熱線による燃焼を置き去りにし、毎秒10キロメートルを超える目に見えない衝撃波が、遅れて世界をひっくり返したかのような暴力となって街を駆け抜ける。
狂ったような猛烈な爆風が狭い路地裏の奥深くまで押し寄せ、腰まである私の三つ編みを一瞬にして激しく前後左右へと掻き乱した。
爆風が通り過ぎた一瞬、急激な減圧によって周囲の水分が凝縮し、世界は一時にして白い霧に包まれる。
その不気味な霧の向こうで、凄まじい風圧に晒された叔父のメガネのフレームがガタガタと震えていた。
「うそ……、嘘でしょ……っ」
自分の口から漏れた声が、あまりの恐怖に情けなく裏返った。
炎に包まれるのではなく、超高圧の衝撃波に骨組みから粉砕された灰色のビルは、まるで地面の底へと沈み込んでいくかのように、内側から瓦解していく。そのコンクリートの躯体が崩落していく凄まじい地響きが大気を震わせ、地面を通じて私の体を包み込むような激しい音となって伝わってきた。
ガタガタガタと膝の震えが止まらない。
コンクリートの細かな振動が伝わっているせいだけじゃない。
自分の両足が、恐怖で文字通りガタガタと激しく震え、立っているのがやっとの状態だった。
私が心の中で願い、口にしてしまった
『全部壊したい』という破滅。
――それが、この手の中にある不気味な機械によって、本当に叶ってしまったのだ。
自分が恐ろしい引き金を引いてしまったという実感が、遅れて脳髄を殴りつけてくる。
立ち上る濃煙と、地響きに震える身体。
だけど、
これが終わりではなく、むしろ、私の足元で何かが『これから始まる』ということを……、
私は如実に、そして本能的に理解していた。
手の中の携帯電話は、
画面の赤光もシンボルマークも消え、冷たい漆黒の闇へと戻っていた。
――こうして私は
非日常な世界に足を踏み入れ、目まぐるしい破壊と創造の1週間が始まった。
更新は週3の金土日で行こうと思います
よろしくお願いします




