27 悪くないって思った
朦朧とした頭では今自分がどこにいるのかなんて分からなかった。
ただ、あいつに抱きかかえられていることだけはわかる。
「名前を呼べと言っただろ」
そんな困ったように言われても知らない。言われてないと思う。
そういえば、何か先日名前を改めて名乗っていたけど、あれはただ名前を確認しただけ、でしょ。
でもさっきあいつの名前を呼んだ瞬間、力が湧いてきたような気がしたから何か細工がされていたのかもしれない。
「呼べば護りの魔法が作動して、お前がどこにいるか俺に伝わるようになってたのに」
「そういう、大事なことは、ちゃんと言わなきゃわかんないのよ」
思っていたよりも普通に声になったことに自分自身が驚いた。
「はあ? いわれなくても察しろ」
「あれで察するの無理」
いつもだったらもっと強い口調で言い返していたと思うけど、今日は無理だ。全身に力が入らない。
もう触られることなくゆっくり眠れるんだと、ものすごく安心しきっていた。
「次はちゃんと呼ぶから」
「次を起こすな!」
起こしたくないよ。勝手に起こってしまうんだから。
「怖かったし、気持ち悪かったし、もうやだ」
目を閉じようとすると思い出す。
感触が、全てが思い出すとおぞましくて震えがくる。
「やだ、もうやだ。怖い。下して」
震えているのがばれたくなくて、目を開けて頼んでみたが無視されてしまった。
「自分で歩く。歩けるから、大丈夫だから」
「大丈夫じゃない。大仕事をしたんだから、少し休め」
大仕事? 私はただ、開けただけ、だ。
外につながるあの扉をつかんで開けただけ。
あとはこいつが全部を片付けてくれた。
「俺が怖いのか?」
「……ううん」
直接聞かれて考えてみる。
怖く、ない。なんでだろうな。慣れちゃったから?
怖いのはあの大神官。無遠慮に私を好き放題していたあいつ。
「……絶対に、許さない!」
「怖いのはお前の方だ」
被せるように言って奴は私の目を覆うようにその左手を乗せた。
まるで、大聖堂の時のあの手のように。
「そんな殺人鬼みたいな顔すんなよ。見てるこっちが怖いわ」
「そんな顔、してない……」
「してた。後で鏡見とけ」
そんな顔してた? 怒りはあった、けど。
だって、まるで私が自分の物みたいに好きなようにされるのは、屈辱的でもあって。悲しかった。
この感情は、口にしたってこいつに理解はされないだろう。
「……触られたくない」
「我慢しろ」
「やだ」
目を覆っている手も、抱きかかえられている腕も振り払うつもりもない。
単なるわがままを言いたかっただけ。
だってきっと文句は言っても結局は許してくれるはず。許されることで少しだけ自分であることを許されるような気がした。
今はそれだけで、救われるような気がした。
「口開けろ」
まだ口の中の物を飲み込みきっていないのに、マレムが急かしてくる。
その目に殺気に似たものを覚えて慌てて飲み込んで口を開けば、フレンチトーストを一口大に切り取ったものをフォークで私の口の中に放り込んできた。
これは小鳥への餌やりか何かなのか!
タイミングが早いと文句を言うことも叶わないまま、とにかく高速で咀嚼することに全神経を注いだ。
だってこの状況、考えれば考えるほど、訳が分からなさ過ぎて混乱しそうだったから。
無理してあの壁を破ろうとしたせいで、私の両手は焼けただれ、ちょっと目を逸らしたくなるぐらい酷いことになっていた。
奴が治癒魔法を施しても傷が治らない。
教授に診せたら、どうやら私、治癒魔法も無効化させている可能性があるみたい。
だから、私の両手はしばらく使えない。
帰ってきて、その可能性が提示されたのが昨日。
そして今日は朝からこの男が朝食を運んできたかと思えば、この餌やりだ。
「あーん」じゃないところがこの男らしいとも言える。
「最後だ」
差し出されたそれをぱくっと食んで一生懸命噛む。――が、最後だったらもうそんなに急がなくてもいいかと思い直した。
自分のペースに戻してゆっくりと食べ終えた。
「次はスープだ」
「スープは無理! 冷めてたら、ストローで行けるでしょ!」
この微妙に開いた距離では絶対にこぼすし、嫌な予感しかしない。
「……口移しか」
「やめてよ! 絶対美味しくないからそれ!」
言っていい冗談と悪い冗談がある。それにそんなに嫌そうに言う冗談なら言わない方がいいと思う。
もういい、十分お腹はいっぱいだし、作ってくれた人たちには申し訳ないけど、なんかこの男に何かされるっていうのは落ち着かない。
「今日は朝から何なの! パンだったら頑張れば掴めるし、介助されなくても平気なんだから」
「『妻』である人間が不自由しているのなら、手を貸すのは『夫』の務めだろ」
「はあ?」
何を突然。
そんな真人間みたいなこと言われると戸惑うしかないんだけど!
「なにをそんなに驚く。さすがの俺もそれぐらいの分別はある」
「あ、そう、なの」
「……社交界の話だって、お前がやりたいと思うんだったら、俺は止めないし、サポートぐらいするぞ」
……あ、そうなんだ。
普通のことなのに、こいつが言うと何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまうのは、仕方ないことじゃないのかな。
社交って突然何かと思ったけど、先日ファーナ様に指摘されたこと、気にしていたんだ。
やらなくていいって言ってくれた方が助かるから、忘却の彼方に追いやっていたのにな。
「別に、やりたくはないから、いい」
「だろうな」
だって積極的に貴族の中になんて入りたくはない。
みんながみんなファーナ様みたいな方ばかりだったら考えるけど、絶対ありえないでしょうし。
「できれば一般市民がいい」
「それは無理だ」
「なんで?」
「何度連れ去られればわかるんだよ、呆けてんのか」
そうですね、おっしゃられる通り。
自分でも嫌になるほど連続して攫われてた。市井で暮らせばもっと頻繁になるっていうか、どっかで殺されて終わる?
それは、想像だけでも嫌だな。ごめんかも。
そうか、もう私、普通には生きられないのか。せっかく自分の中で生まれた希望だったのに、一生叶うことはないんだ。
例えこいつと結婚しなくても、そうなってしまったってことか。あーあ、本当にあーあだ。
「少し監視はつくが、敷地内の離れならばだいぶ静かに生活はできる。一般市民とまるっきり同じようにとは約束できないが、貴族ではない生き方は保証できる」
え、それは、結構、心惹かれる。
「それは、本気?」
「最初から考えていた。だが、そこに行きつくまではまだ乗り越えなければならないことが多すぎる。確約できないことを提案してぬか喜びさせるのはあまり望むところじゃない」
「言わなきゃわかんないのよ、そういうのは」
「それに、兄が見つかる可能性もあるしな」
出奔中の長男か。
可能性は高いのか低いのかわかんないけど。
色んなこと、ちゃんと言って欲しい。
言わないから、こいつのこと人でなしだとずっと思っていたんだし。
名前を呼んだら発動する魔法のことだって言ってくれていたらもっと早めに何とかなったと思う。
「普通の夫婦のようになれるとは思っちゃいない。ただ、お互いに役割だけは果たさないか。夫として妻として」
「役割」
役割と言われても、あんまりぴんとこなかった。
それは私があまりに普通じゃない環境に身を置きすぎていたせいなのだろう。
「わかんないのよ、夫婦ってどういうものなのか」
「猫に向けてるそれの一部を俺に向けるだけでいいだろ」
セレに向けているもの、って言われても困る。
「セレには私だけだから、絶対に裏切らないってわかっているから、だから安心して愛情のやりとりができるの。他には向けられない」
「俺のこと人でなし呼ばわりしているけど、絶対お前の方が人でなしだよな」
呆れたように言われて、少しだけ傷ついた。
でもこいつの言うことは図星。
私には、きっと愛という感情が欠落している。
あいつが部屋から出ていくのを見送って、ベッドの上に腰を下ろした。
改めて指摘されてしまえば、そうなんだよね、としか言えない。
あいつのいう通り、私は「愛」というものを知らない。
大神官にやたらと愛をささやかれていたけれど、理解のできない感情は正直気持ちが悪いとしか思えなかった。
「セレ」
ベッドの上で丸まって寝入っているセレを見やる。
寝息をたてて寝ている姿は愛らしい。
吸いつきたかったけど、大神官の様子を思い出して躊躇してしまった。
あれをぶつけられるのは、やっぱ不快よね?
セレに気持ち悪いって思わせたくない!
撫でたいけど、今は両手とも使い物にならない。少しの刺激で激痛がするからな。
治ったらおもいっきり撫でまわしたい。
……セレに向けている感情って何だろう、な。
それをあいつに少しでも向ける? 無理でしょ。比べれば天と地ぐらいの差がある。勿論セレが天。
地の方に少しでも分配できるかっていうと、無理だとしか言えない。さっきあいつに伝えたとおりだ。
そもそもセレに抱いている気持ちは『愛』なのかな。
大好きではある。私の人生に欠かせない存在。
もう会えないと考えることができないほど、失うことさえ想像できないほど、大事な存在。それはわかってるんだけど。
「やっぱわかんないな」
ただ、ちょっとだけ、『妻』がやれないことを『夫』がフォローするみたいな言い方は、悪くなかった、と思う。
あの餌やりみたいなのは次は避けたいけど、でもその気持ちは、嬉しい……のかな。
向けられたことのない想いはむず痒いようで、気持ち悪くなくて、……やっぱり嬉しいで、いいんだろうな。
私のことをそうやって想っていてくれる人がいるって、悪くない気分だ。
それが夫婦だっていうんだったら、悪いもんじゃないのかもしれない。
初めての感情は、ドキドキする。緊張する。
でも悪くはない。うん、悪くない。
結婚したくないけど、このまま逃げられなかったとしても、大丈夫なのかも、と思えるぐらいには悪くなかった。




