第33話
エリン師匠は服と靴と鞄を買って上機嫌なご様子。
「リアムは何を買うの?」
「私は特に何も買いませんけど」
「つきあい悪いわね。じゃあ、買ったものを私の家まで運んでくれる?」
「師匠のお望みのままに」
「弟子らしくなってきたわね」
師匠の家は公安省から歩いて10分ほどのところにあった。瀟洒な建物の2階にある師匠の部屋は、その住人の性格から想像するものとは違って、整理と掃除が行き届いていた。
「荷物はこっちに置いて。好きなところに座っていいわよ」
「あの、私はもう失礼しますので」
「お礼にご馳走するから食べて行きなさい。命令よ」
「ふぁい。わかりました」
命令、命令って。業務と関係ない命令ばかりなんですけど。
「じゃあ、ちゃちゃっとごはん作るから、あなたはここで休んでなさい」
「私も何かお手伝いしましょうか。料理は得意なので」
「へぇー、そうなんだ。だったら手伝ってもらおうかな」
「何を作りますか」
「そうね。あなた何か苦手な食べ物のある?」
「いえ、なんでも食べます」
「えらいわね。私、そういう人好きよ」
言いながら少し照れてる?
でもまさか師匠が照れるなんてことないよねと横顔をのぞくと頬が少し赤い。どうした、師匠?
「そんなこと言っても何もでませんよ」
「ごほん、それじゃ、野菜スープとポークソテーとサラダとパンでいい?」
「はい。もちろん。見かけによらず料理得意なんですね」
リアムは自覚のないまま心の声を言葉にしていた。しまった~。
「何言ってるの。失礼な弟子ね」
師匠の足がリアムの足の甲を踏みつけた。
「いたたっ。すいません。師匠。お許しください」
「罰としてなんでも言うこと聞いてもらうからね。まぁ。楽しみにしてなさい」
いつもなんでも命令してるじゃないですか、と心の中で叫ぶ。
そうこうするうちに料理が出来上がり、こじんまりした丸テーブルに料理が並べられた。
「師匠、このポークソテー、絶品ですね。肉がやわらかくてしっとりしています。玉ねぎが入ったトマトソースが肉の旨味をよりいっそう引き出していて、とてもおいしいです」
「よかったわ。喜んでくれて」
師匠のこんな満面の笑顔を見るのは初めてだった。
「それにスープもおいしいです。やさしい味ですね。野菜の甘味が体に染みわたるというか。母が作ってくれたスープにどこか似てるような気がします」
「そういえば、あなたのお母さんはどちらに?」
「実は母は少し前に流行り病で亡くなりまして」
「そうだったの。ごめんなさい。辛いことを思い出させてしまって」
「いえいえ、もう大丈夫ですから」
「ご兄弟はいるの?」
「いません。今は仲間5人と一緒に暮らしています。師匠はこちらで一人暮らしですか?」
「うん。まあね。実は私も学院1年のときに両親を亡くして、それ以来一人なの」
「すいません・・・・・・」
「気にしないで。調子狂っちゃうから」
「はい。師匠」
なんかいつもの師匠と違う感じ。師匠にもこんな一面があるんだな。
リアムは皿洗いを終えると、師匠にお礼を言って玄関に向かった。
「リアム、今日はありがとうね。じゃあ、また明日」
「はい。今日はご馳走になりました。お休みなさい」
翌朝、リアムはいつもより早めに出勤していた。
「師匠、おはようございます。昨日はありがとうございました」
「あ、うん、リアム、おはよう」
エリン師匠、なんかいつもと様子が違う?
「あの、どこか調子が悪いんですか?」
「そんなこと・・・ないよ。ええと、今日はね、私は午前中用事があるから、午前中はグースとこれまでの情報交換の時間にしなさい」
「はい、承知しました」
リアムはグースのところに行くと、グースも指導係のトマスさんから話を聞いていたのか、すぐに立ち上がって隣の会議室へ向かった。
「言っておきたいことがある」
部屋に入るやいなやグースが口を開いた。
「何だい」
「俺はお前のことを認めない。お前のような奴と同列に置かれるだけで反吐が出る。専門学院も卒業せずに図々しく公安省に入ろうなんて、お前、恥ずかしくないのか?俺はお前と違ってエリート中のエリートだ。いいか、よく聞け。俺の父上は産業省副長官、母上は大豪商セデス一家の長女。俺は選ばれた人間で、お前のように身分も低く才能も金も地位もないやつとは住む世界が違うんだよ。金輪際、俺の周りをうろちょろするな。さっさと辞めて田舎に帰れ」
グースの言葉は全くの想定外だった。まるで猛毒を吐きかけられたような気分だ。初対面のときに何か嫌なものを感じていたが、まだたいして話したこともない人に対してここまで悪意を向けられるものだろうか。
グースに何かひどいことをしたわけでもないのに、なぜここまで醜悪な表情をして人をののしることができるのだろう。
リアムは思いもよらない誹謗中傷に戸惑うどころか、返って頭の中が冷静になっていった。グースの言葉を脳内でゆっくりと反芻すると、リアムは言葉を発した。
「グース。道学を学んでいるはずなのに、君は道学の本質を何一つ理解していない。僕のほうこそこれ以上君と話すことはない」
「お前、俺のことを誰だと思って・・・・・・」
リアムはグースの言葉が終わるのを待たずに部屋から出ていった。
グースは自分を特別な人間と思って他の人を見下し、何事も自分の思い通りになると思っている人種なのだろう。自分に非がないのにこのような悪意を向けられると正直こたえる。
グースの言ったとおり、自分は平民出身でペレスでの後ろ盾は何もない。グースは父親や母親の力を使って、自分を排除しようとするだろうか。
リアムは自席には戻らず、公安省内をぶらぶらすることにした。公安省には多くの部門が存在する。殺人、傷害、人さらい、窃盗など、犯罪の種類に基づき組織化されている。
公安省は人に害をなす犯罪者を捕まえ罰することを使命としている。一方で、グースの言動も人に害をなすものではあるが、現在の法律でそれを取り締まることは難しい。
身に降りかかる火の粉は自分で振り払わなければならない。一番良いのはグースのような人間には近づかないことだが、それが難しい場合どうしたらいいのだろう。
グースのような人間を更生させることも、排除することも簡単なことではない。かと言って唯々諾々と従いたくはない。
人はこうした悪意や理不尽なことに耐えて、乗り越えて行くだけのしたたかさが必要ということなのだろうか。
忍耐だけが解決策なのであればつらすぎる。でも、このことを己を鍛えてさらに成長していくための糧として捉えればどうか。
人は目前の困難を乗り越え、壁を越えて行くことで、成長することができる。道学にもそんなことが書かれていた。
そのように考えると少し気持ちが楽になったが、もやもやしたものが完全になくなったわけではなかった。
家に帰って食卓についても、リアムの心は晴れなかった。
「リアム、何かあったの?」
フレアが心配そうにリアムの顔をのぞきこんでくる。
「いや、実はね。これまで経験したことがないような悪意をぶつけられて。ちょっと落ち込んでる」
「なになに、どういうことか詳しく説明してもらおうか」
ベンが楽しそうに聞いてきた。ちょっと腹が立ってきたんだけど。
リアムは事の顛末をみんなに話した。
「う~ん。それはやっかいな奴だな。一番いいのはそいつに関わらないようにすることだけど。同じ職場だと難しいよな」
ノアの考えはやはり合理的だ。
「リアム、かわいそうに。あとで私の膝まくらを貸してあげるね」
フレアの発言は日に日に大胆になっていく。
「そうね・・・・・・。そいつの弱みを握って脅すのがいいんじゃない?」
おいおい、カリン、かわいい顔してちょっと過激では? でも、その手はあるかもね。少しはおとなしくなるかも。専門の訓練を受けた諜報員はやはり発想が違うね。
「こういう奴はムキになって相手にしないほうがいい。放っておけばいいんじゃない」
ルカの意見も一理あるが、グースはかなり粘着質タイプのような気がする。
「う~ん。やっぱり一度痛い目に合わせるのがいいんじゃない?」
おいおい、カリン。僕、公安省で働いているんですけど。逆に捕まっちゃうよ。
「みんな、アドバイスありがとう。もう少し様子を見てみるよ」
やっぱり、そんなに簡単な解決策はないよな。しばらくは忍耐モードで行くしかないか。




