第3話
リアムは手ごろな大きさの岩にフレアを座らせて、血がにじんで痛々しい膝の手当てを済ませると、横に腰を降ろした。
「リアム、本当に痛いところない?」
「うん。大丈夫」
フレアはリアムの左腕に体を預け、そのまま見上げるようにリアムの瞳を覗き込んできた。フレアの息遣いをかすかに感じる。びしょ濡れの服越しにフレアの体温が伝わってきた。小刻みに震えているのがわかる。
「助けに来てくれて、すごくうれしかったよ。ありがとう。リアム」
「うん」
リアムはフレアの腰に腕をまわしてやさしく抱き寄せた。するとフレアは両腕をリアムの首に絡め、頬と頬とを触れ合わせた。
その熱を帯びた頬はそのままゆっくりと動き続け、しっとりとしてやわらかいものがリアムの唇の端に触れたかと思うと、2つの唇は吸いよせられるかのように1つに重なった。フレアのほとばしる感情がそのかわいらしい唇を通じてはっきりと伝わってきた。
重なり合った2つの唇が名残惜しそうに別れを告げると、フレアは恥ずかしさを紛らわすかのようにリアムの胸に赤く火照った顔をうずめた。
「ごめんなさい。リアムと会えなくなると想像したら胸がとっても苦しくなって」
「僕も同じだよ。命をかけてでもフレアを助けたいと思った」
フレアは恥じらいながらその潤んだ瞳でリアムを見上げた。
「リアム、大好きだよ」
頬を真っ赤に染めて視線を反らすフレアはとても愛らしかった。
「ありがとう、フレア。僕も大好きだよ」
リアムはフレアをぎゅっと抱きしめ、再び唇をやさしく合わせた。言葉では表せないほどの幸福感が体の中を駆け巡っていく。
しばらくの間、幸せの余韻にひたっていたが、森のあちこちから聞こえてくる獣たちの咆哮が現実に引き戻した。僕たちは、今もなお、絶対絶命の窮地に立たされているのだ。
「フレア、大切な話がある。いいかい、僕たちはこれで助かったわけではないんだ。奴らは必ず追ってくる。奴らは僕たちの名前も住んでいる場所も全部知っているだ」
「どうして私たちのことを知ってるの?」
「4人組のひとりはハリソンという名前で、そいつの顔を見たんだ。以前街で見かけたことがある顔だった。大商人ヘルペスのところで働いていた」
「ヘルペスが人さらいってこと?」
「その可能性が高いと思う」
「もう街には戻れないの?」
「奴らが公安に捕まらない限り、戻るのは危険だと思う」
「私たちこれからどうなっちゃうの?」
「しばらくはどこかで隠れて暮らすしかないと思う。だけどいつか必ず元の生活に戻れるようにするからね」
「うん」
「もうすぐ日が暮れる。まずは今夜安全に休めるところを探さそう。服も乾かさないとね」
2人は暗くなる前に急いで周辺を探索した。すぐに今晩の寝床になりそうな大木を見つけることができた。3mほど登ると2m四方の大きなくぼみがあった。リアムもフレアも木登りは得意だった。今夜はここで寝ることにした。
大木の上に登ると、服を脱いで水を絞って、手ごろな小枝にかけた。フレアも恥ずかしそうに服を脱ぎ始めた。リアムは慌てて木の下に降りると、大木を中心に半径30mくらいの周辺を見て回った。
どこかで見かけたような葉っぱがあったので、なんとなくその茎を引っ張ってみると、細長い赤い色をしたイモのようなものがいくつも連なって出てきた。根や地下茎に栄養をため込む根菜のようだ。リアムは持っていた縄でそれらを結んで固定し、腰に巻き付けた。
「それ、なぁに?食べられるの?」
大きな葉っぱで体の前をなんとか隠そうとして隠しきれていないフレアは、リアムの腰のものを不思議そうに見ていた。
「これはイモの一種じゃないかと思う。食べたことないけど」
リアムはなんとか平静を装う。
「そうなんだ。おいしいのかな?」
フレアはそう言って横になると、すぐに寝息を立て始めた。やれやれ。こんな状況でもすぐに寝られるとは大したものだ。
リアムは暗闇で何も見えない森の奥に視線を向けた。何者かが縄張りに獲物が迷い込んでくるのを息を殺してじっと待っているような、そんな張り詰めた空気が漂っていた。日が落ちてから森の中を移動するのは危険だ。やつらも朝になってから動き出すだろう。
なんとしてもフレアを守りたいが、もはや自力だけでなんとかなる状況ではないのかもしれない。そもそも、あの絶望的な状況で逃げ出すことができたのは奇跡だった。根拠があるわけではないが、クヌム神様が助けてくれたように思えた。
クヌム神様、私たちを救ってくださり、ありがとうございました。心から感謝いたします。これからもどうかフレアと私をお守りください。お願いいたします。
リアムは、フレアの幸せそうな笑顔を思い浮かべ、その願いを言の葉に乗せて、心中深くクヌム神様にフレアの幸せを祈った。
母はクヌム神様へのお祈りを毎日欠かさなかったが、父は現実主義者で、目に見えない力には一切頼ろうとせず、何事も自分の力で切り開いていく人だった。
父は、常々、クヌム神様に祈ればなんでもうまくいくなんていうのは幻想だと言っていた。その影響もあってか、リアム自身も何の努力もせずにクヌム神様や人の力に頼ろうとするのではなく、まずは自分の力を高めていくことが大事だと考えていた。
だけど、生きていれば必ず自分の力だけではどうにもならないことがある。そのときは、クヌム神様に、『助けてください』と絶叫するしかない。まさに今がそのときなのだと思う。
やはり、自分の力だけでなんとかする、何とかなるという考え方そのものが傲慢なのではないか?
自分の力を高めつつも、クヌム神様に頼ってもいいのではないか?
そんなことをとりとめなく考えていると、リアムはまるで体中の細胞が溶けていくような不思議な感覚に包まれながら深い眠りに落ちていった。
●●●●●●
「いいか。リアムという野郎はおそらくこのあたりに土地勘があるはずだ。このデントスの森についても知っているだろう。この森は、おおよそだが、川に沿って約30km、川に対して垂直方向に約5kmの大きさだ。やつらが落下した場所はちょうど森の中間あたり。ということは、奴らが森を出る最短ルートは川に対して垂直方向に進むルートになる。奴らは早く森を抜けたいはずだ。まごまごしていれば肉食獣に食われるか餓死することになるからな」
「なるほど。それで俺たちはどこから森に入っていくんですか?」
「いいや、森には入っていかない。森から出てくる奴らを待ち伏せて捕まえる。ハリソンは奴らの落下場所を起点とした右斜めあたりの森と平原の境界が見渡せるところで見張れ。ジェイクは逆の左斜めあたりの森と平原の境界が見渡せるところで見張れ。タイラーは馬に乗ってハリソンとジェイクの中間地点で見張れ。見つけたら笛を鳴らせ。俺は馬で移動しながら奴らを見つける。女がいるからそう遠くまでは行けないだろう。俺たちが見張っているどこかに必ず現れるはずだ。追われている側の心理からすると、俺たちがやって来る方向とは逆方向、つまり、ジェイクが見張っている場所に現われる可能性が高い」
「さすが、兄貴。すげぇ作戦です」
「よし。日の出前までに各自見張り場所で待機しろ」
●●●●●●
リアムははっと目を覚ました。まるで現実のような夢だった。細部まではっきりと覚えている。
「フレア、起きて」
肩をやさしく揺する。
「う~ん」
目をこすりながら上体を起こした。
「おはよう。リアム」
フレアは昨日のことを思い出したのか、少し照れくさそうな顔をしていた。
「ああ、おはよう。フレア。もうすぐ夜が明けるからすぐに出発するよ」
「うん。わかった」
リアムは頭をフル回転させた。まず、どの方向に逃げるかを決めなければならない。間違った道を選べば2人の命運が尽きることになる。
もし、あの夢が現実になるとしたら、行くべきは、川沿いとなる。川沿いといっても右と左どちらに行くか。いずれも森の外に出るまで15kmくらいの距離がある。
いや、そもそも、あの夢が現実になるとは限らないではないか。夢は夢だ。しかし、リアムは夢が現実になると直観めいたものを感じていた。
リアムとフレアは日の出と同時に手をつないで歩き出した。お互いの手をしっかり握りあっているせいか、すぐに手が汗ばみ始めた。それでも手は離さず握ったままだ。
フレアが前方の近いところや足元を、リアムが前後左右遠くに目を向ける。木や石などの障害物があるとフレアが手を強く握って知らせてくれた。リアムはすぐに前を見て障害物をよけていく。
これを繰り返しながら確実に前に進んでいく。この速度ならば、森を抜けるのに休憩も含めて5時間もかからず、昼頃には森を出られるはずだ。
******
ライアンは焦っていた。
もう日の出から3時間が過ぎている。3時間も経てば、奴らは必ず見張りの網にかかるはずだと高をくくっていた。
ひょっとしてまだ寝ているのか?
昨日のことを考えると疲れ果てて寝ている可能性も否定できないが、この状況でそこまで呑気ではないだろうと、その考えを打消した。
ライアンは奴らが川沿いに逃げているとの前提で作戦を修正した。川沿いに移動しているとすれば森を抜けるのにおよそ5時間はかかるだろう。残り時間は2時間もない。この残された時間で何をすべきか?考えを巡らせた。
問題は奴らが川沿いのルートのどちら側へ逃げているかだ。追われる立場にならば、俺たちがやって来る方向には行きづらいはず。
ライアンは、ハリソンとジェイクの中間地点で見張りをしていたタイラーのところに急ぎ馬を駆ると、森を正面に見たときの左端、すなわち自分達がやって来た方向にある森の端付近を見張るように指示を出した。
ハリソンとジェイクには、そのまま見張りを続けさせた。ライアンはタイラーとは反対側の森の端へと向かった。馬のスピードならまだ十分に間に合う。馬に鞭を入れ先を急いだ。
ライアンは森と平原の境界が見渡せる場所に身を隠し、忍耐強く待ち続けていたが、12時を過ぎたころから次第に焦り始めた。
なぜ、来ない? 女の足が遅いからか?
もし女を取り返せなかったらどんな目に合うか、身の毛もよだつ想像が一瞬頭をよぎり、全身に寒気が走った。12時半まではなんとか耐えたが、それ以上はもう無理だった。
馬に乗って川沿いから森に入って行った。そんなことをすれば相手に察知され、身を隠されるのはわかっていたが、どうしても抑えきれなかった。
まもなくしてライアンは少し冷静さを取り戻し、ジェイクのところに戻った。
「ジェイク、2人を見つけたか?」
「いえ。ということは、まだ見つかってないんですか?」
「ああ。ハリソンとタイラーのところに向かう。お前はここで見張りを続けろ」
そう言うとライアンは馬に鞭をいれた。
「ハリソン、二人を見つけたか?」
「いえ」
「そうか。俺はタイラーのところに向かう。お前はここで見張りを続けろ」
タイラーのところに着いたのは13時半過ぎだった。
「タイラー。奴らを見つけたか?」
「いえ。ずっとここで見張っていましたが見てません。ここに来る途中ですれ違ったのは馬車だけでした。まだ森の中にいるか、自分が来る前にトポスに向かったかのどちらかだと」
「だとすれば、トポスに向っている可能性が高いな。俺はこのまま奴らを追う。お前はもうしばらくここを見張っていろ」
ライアンは一縷の望みを見出した。
「わかりました」
ライアンはその後2時間ほど道の周辺にも目を光らせながら馬を走らせた。しかし、とうとう見つけることが出来なかった。
一体奴らはどこに消えた?
ライアンは意気消沈してタイラーのところに戻った。
「どうでしたか?」
タイラーが不安げに聞く。
ライアンは弱々しく首を振った。ここでずっと見張っているわけにもいかない。ボスに報告する必要がある。奴らもいずれ街に戻ってくるはずだ。そのときにもう一度やるしかない。
******




