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第20話

 半年ぶりにようやく母のもとに帰ることができる。フレアを無事に取り戻せてよかった。その確かな達成感もあってか、リアムの心は晴れやかに澄み渡り、言いようのない幸福感で満たされていた。


 ふと目を向けるとフレアもこちらを見て微笑んでいた。


「リアム、やっともとの暮らしに戻ることができるんだね」


「そうだね」


 この半年間に起こったことがリアムの脳裏に蘇る。いまだに現実に起こったこととは思えない。


「これからもずっと私を守ってくれる?」


 そう言ってリアムの顔を覗き込む仕草がいとおしい。


「うん」


「やったー。約束だからね」


 フレアはそう言うと前を向いて鼻歌を歌い始めた。辛かったときがようやく終わりを告げ、その表情はますます輝きを増していく。


 リアムはフレアを家に送り届けた後、ふと空を見上げた。先ほどまで雲間から差し込んでいた温かい陽射しは、いちめんの曇り空でことごとく遮られてしまい、にわかにぐっと冷え込んできた。


 真冬の凍てつく風が全身に容赦なく吹き付けてきて、頬と耳が鈍く痛む。リアムは両手を上着のポケットに入れて、まだ霜が残って葉の先端が白い雑草の上をざくざくと音をたてて急ぎ足で家路についた。


 母のアンナとは半年以上会っていない。母が危ない目にあうかもしれないと思い、無事を伝える手紙さえ出していなかった。


 今思えば、母はこの半年間、リアムが生きているのか死んでいるのか、それさえもわからず、不安で苦しい毎日を過ごしていたに違いない。


 手紙くらい出してもよかったのではないか。自分のことで精一杯で母の心情を想像する余裕がなかった。リアムは急に母に申し訳ない気持ちになった。


 リアムが9歳のとき、父が事故でなくなり、それから8年間、母と2人暮らしだった。それからの母はそれこそリアムと2人で生きていくための糧をえるため、朝早くから夜遅くまで働き詰めだった。もともと病弱で体調を崩して寝込むことが多く、リアムは一日も早く自分が働いて楽をさせたいと思っていた。


 15歳で学舎を卒業してからは、2人で働き、借金も返済し、暮らしもだんだんと楽になってきた。これまで母は自分のことは後回しで、いつもリアムのことを優先してくれた。これからは母自身に幸せになってもらいたい、そうリアムは願っていた。


 見慣れた白壁の建物が視界に入ってきた。リアムは早足から駆け足になり、肩で大きく息をしながら玄関の前に立った。腰の高さの木の塀に囲まれた小さな平屋。

 いつもの様子と何かが違う。玄関前のあちこちに雑草が伸びて、雑然としていた。


「ただいま、母さん」


 玄関のドアを開けて最初に目に入ったのは、アイラ叔母さんだった。


「リアム・・・・・。本当にリアムかい」


 アイラ叔母さんはリアムのもとに駆け寄ってきた。


「アイラ叔母さん、心配をかけてごめんなさい。いろいろあって。後で話すから。母さんはどこ?」


「アンナは流行り病になって、ここ1か月くらいずっと寝込んでてね・・・・・・」


 涙を浮かべ、震える唇からこぼれたアイラ叔母さんの弱々しい言葉がリアムの胸に突き刺さる。


「母さんっ」


 リアムは悲痛な叫びにも似た声を漏らした。

 母の部屋に入り、ベッドの傍らに膝をついた。母は目を閉じていた。生気を失い、目元はくぼみ、頬はこけ、唇はかさかさだった。


「母さん、どうして、母さんが・・・・・・」


 とつぶやくように声を絞り出した。

 涙で視界がにじみ、こころなしか母の姿が小さく見えた。目の前にいるはずなのに、その存在を遠くに感じる。


 ふいに母との思い出が脳裏に蘇ってきた。まぶたの奥がじーんとして、胸の中の深いところから何か熱いものがこみ上げてきた。目にたまった涙があふれでて、目尻からぽたぽたと頬を伝って落ちていく。


 母の手をやさしく握ると、凍えるような冷たさが伝わってきた。痩せこけて骨ばったその小さな手は乾ききっていて、今にも枯れ果ててしまうのではないかと思えた。


 すると、母の冷たい手からかすかな力が伝わってきた。母はゆっくりと瞼をひらいて、リアムに顔を向けた。そして、残された最後の力を振り絞るかのように目を大きく見開くと、生気を失っていた目は、次第に光を帯び始めた。


「母さん、リアムだよ。帰ってきたよ」


「リアムかい。もう一度会えてよかった。お前に話しておきたいことがあるの」


 母は目に涙を浮かべ、乾ききった唇からか消え入りそうな声を漏らした。


「うん」


 リアムは涙を右手の甲でぬぐい、やせ細って変わり果てた母に精一杯の笑顔を見せた。


「父さんは事故で死んだとお前には言ってきたけど、本当は殺されたんだと思う。父さんが死ぬ前に話してくれたことがあってね。父さんは職場の同僚が汚職しているせいで大勢の人が苦しんでいることを知って、それを上司に報告するかどうかで悩んでいたの」


「そうだったんだね・・・・・・。話してくれてありがとう」


 必死に父のことを話そうとする母の姿を見ていると、涙が止まらなかった。


 父のエリスは、トポスの役人だった。子供のころから役人の仕事はどうあるべきかについてよく聞かされていた。父が事故死ではなく、汚職の秘密を知ったため、事故に見せかけて殺されたとすれば、母の悲しみはいかばかりだっただろうか。


「父さんは、ヘルペスという商人が同僚と手を組んで不正な商売をしていると言っていた。同僚の名前までは言っていなかったけど」


「ヘルペス・・・・・・」


 それ以上の言葉は出てこなかった。


「父さんはね、苦しんでいる人を救おうとしたの。それだけはあなたにわかってほしかった。私は父さんのことを誇りに思ってるわ」


「母さん、僕も父さんのこと、誇りに思ってるよ」


 母はリアムの言葉を聞いてほっとしたように、わずかに微笑んで、目を閉じた。


 ベッド脇にある小さな窓は強かな風を受けて小刻みに震え、ガタガタと大きな音を立てていた。そして、にわかに大粒の雨が窓ガラスを叩きはじめた。まるで風と雨がリアムに成り代わって泣き叫んでいるようだった。


 リアムは母の部屋を出て食卓に行くとアイラ叔母さんに話しかけた。


「母はどれくらい悪いんですか。医者はなんて言っていますか」


「リアムには正直に言うわね。アンナにはもう病気と戦う力は残されていないって」


 そんな予感はあった。それでも、その無情な言葉にリアムの思考は停止し、膝が震えだした。


「私たちができることはアンナが幸せな気持ちで旅立てるようにしてあげることだけ。あなたの笑顔をアンナにみせてあげなさい」


 リアムは気づくと食卓の上で突っ伏して寝ていた。まだ夜は明けていない。暖炉ではパチパチと小気味いい音が弾けていた。ローソクの灯りで母の部屋をのぞくと、ひっそりとした薄闇の中からかすかに母の寝息が聞こえてくる。


 月明かりが窓からわずかに差し込み、もの悲しい陰影を作り出していた。窓の外を見上げると、冷たく輝く三日月を縁取るように白く淡い光がぼうっと浮かんでいるのが見えた。手元のローソクの小さな光がほのかに揺れている。その光の揺らめきは、リアムのこころのさざ波のようだった。


 アイラ叔母さんの言うように母は本当にもう助からないのだろうか。苦労を重ねて自分をここまで育ててくれた母をなんとかこの手で幸せにしたかった。


 リアムは食卓に着くと、弱々しいろうそくの火に照らされて浮かび上がる、これまでずっと母と過ごしてきた生活空間を見渡し、そこに母の姿を重ねると、クヌム神様に祈り始めた。


 クヌム神様、どうか母をお救いください。病気に打ち勝つ力を母にお与えください。一日も早く元気になって、幸せにしてあげてください。


 リアムは元気なときの母が笑顔で料理を作って楽しそうに話している姿を想い描きながら祈った。そして、いつの間にか眠りに落ちていった。



「リアム」


 聞きなれた声がする。


「リアム、起きて」


 フレアの声だ。リアムは顔をあげた。


「大丈夫?アンナさんの病気のこと、今朝初めて聞いて。心配になって来ちゃった」


「ありがとう、フレア」


 リアムは立ち上がるとフレアを母の部屋に案内した。母アンナはまだ眠っていた。フレアは床にひざまずいてアンナの手を握った。


「アンナおばさん、早くよくなってね」


 リアムはすぐにフレアを部屋から連れ出した。


「フレア、母さんの流行り病がうつるといけないから、今日はもう帰ったほうがいい。しばらく会えないのは寂しいけど、僕が連絡するまでここに来てはいけないよ。わかったかい」


 リアムは寂しそうな表情を見せるフレアに淡々と言い聞かせた。


「私にできることはないの?」


「アイラ叔母さんがいるから大丈夫。フレアには絶対に病気になってもらいたくないんだ」


「わかったわ。リアムも気を付けてね」


 フレアは何度も振り返り、寂しげな表情を見せながら帰っていった。


 アイラ叔母さんが母の体を拭いていると、母が目を覚ましたようだった。リアムが部屋に入ると、母はリアムのほうに目をやり、ぎこちない笑顔を見せた。


「母さん、気分はどう?」


 リアムは泣き声にならないように必死に堪えた。


「うん、リアムが戻ってきてくれて最高の気分だよ」


 リアムはこの半年間何があったのか、できるだけ明るく話した。


「大変だったね。よくがんばったね。リアム・・・。自慢の息子だよ。これからはもう1人でも大丈夫だね・・・・・・。ゴホツ、ゴホッ」


「母さん、無理しないで」


「リアムと最後に会えて本当によかった。クヌム神様が私の願いを叶えてくれた」


「母さん」


 リアムは母の手をやさしく握った。そして、か細く頼りない体をしっかりと抱きよせた。


「病気がうつるから離れなさい。リアム・・・・・・、ありがとう」


 母の体から何かが抜けていった。


「母さん、母さん・・・・・・」


 リアムは母の体をやさしくゆすりながら声をかけ続けた。涙がこぼれ落ちてリアムの頬を伝った。そのあとはもうとめどがなかった。


 リアムは母の枕元の床に膝をついて泣き崩れた。涙と鼻水でくしゃくしゃになりながら、嗚咽の混じった声で、なおも母に話しかけた。


「母さん・・・・・・」


 母との思い出が次々と蘇り、感情があふれ出てくる。リアムはこの悲しくてせつない気持ちのやり場をどこにも見つけられなかった。


 父さんが死んだとき、母さんは今にも泣き出しそうな表情を悟られないように無理やり笑顔を作り、


「母さんがんばるから」


 そう言って、自分が泣きたかったのを我慢して、やさしく励ましてくれて、ありがとう。


 朝早くから夜遅くまで慣れない仕事で疲れ切って帰ってくるのに、僕のためにいつもおいしいご飯を作ってくれて、ありがとう。


 いつも自分のことは後回しにして、僕のことを一番に考えてくれて、ありがとう。


 辛くて苦しいときもあっただろうに、そうした素振りも見せず、いつも明るい笑顔をくれた母さん。 僕のことを愛してくれて、ありがとう。


 母さんにちゃんとありがとうって言いたかったよ・・・・・・。


 リアムは、母の自分への無償の愛を想い、とめどなくぽたぽたとこぼれ落ちる涙をぬぐうこともせず、母の冷たい手を握ったまま、声を出して泣き続けた。


 もっと生きていて欲しかった。幸せになってもらいたかった。

 母さんの笑っている顔をもっと見たかった。

 涙で視界がかすんでいる目を母の亡き骸に向けると、一瞬、色を失っていたはずの顔に輝きが戻り、うっすらと微笑んでいるように見えた。


 そして、母の優しい声がリアムの中にしみいるように入り込んできた。


 そんなことないのよ。リアム。

 あなたが立派に成長していく姿を見ることができて、とてもうれしかったわ。

 あなたの笑顔を見るのがわたしの喜びだった。

 とても幸せだったのよ。わたしに幸せをくれて、ありがとう、リアム。

 最後にあなたと会えて本当によかった。


 あなたはこれから一人になってしまうけれど、強く生きていくのよ。

 何があっても目の前のことに精一杯ぶつかっていくのよ。

 どんなに辛く苦しいときでも、必ず乗り越えられると信じて、魂を輝かせるのよ。


 自分に起こるすべての困難や苦しみは自分自身を成長させるための糧として受け取るのよ。

 そして、その困難と苦しみに対してでさえ、喜びと感謝の心を見出しながらクヌム神様に祈るの。


 ただ忍耐しているだけでは、身も心もすり減らしてしまうわ。

 だから、どんなに辛く苦しいことにも、喜びと感謝の心を見出すの。

 それが、自らを救い、自らを幸せにすることにもなるのよ。

 クヌム神様が教えてくれたの。くれぐれも忘れないでね。


 この世ではもうあなたには会えないけれど、また、いつかどこかできっと会えるわ。

 リアム、愛してる。

 クヌム神様に呼ばれているからもう行かないと・・・・・・。



 慈愛に満ちた母の言霊は、悲しみで凍てついたリアムのこころに小さなあかりを灯した。そして、そのあかりは次第に春の陽射しのようにあたたかくてやわらかな光の塊となって輝きを増し、闇に溶けて消え入りそうだったリアムを内側から照らしだした。


 翌日、流行り病ということもあり、母の葬儀は、パウル叔父さんとアイラ叔母さんの3人でひっそりと行った。


 リアムはお墓の前で、母に最後のお別れの言葉を告げようと目を閉じた。そのとき、父と母の顔がふいに頭に浮かんできた。2人とも笑顔でリアムを見つめている。リアムはおもむろに話しかけた。


「父さん、母さん、もっと生きして欲しかったです。親孝行をしたかったです。もう会えないと思うと切ないです。でも母さんは父さんとそちらで再会できたのですね。父さん、母さん、お幸せに・・・・・・」


 愛する人、大切な人が死んでしまい、もう二度と会えない。

 この世でもっとも辛く苦しいことなのかもしれない。

 それでも立ち止まることなく、それを乗り越えていかなければならない。


 母は、毎日、クヌム神様への祈りを欠かさなかった。

 物心ついた頃からリアムも母とともに祈りをしていたが、よくわからないまま、ただ手を合わせていただけだったのを覚えている。


 だけど、フレアがさらわれたときの祈りは、まさに魂の奥底からの絶叫だった。

 そして、クヌム神様は願いをお聞きくださり、フレアを救ってくださった。

 なんの根拠もないがそう確信していた。理屈ではなかった。


 クヌム神様との約束は必ず守る。

 リアムは改めてその誓いを胸に刻んだ。


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