04_アイアンサ・デヴロー
窓の外では、先ほどまでの騒動の名残で周囲が騒がしかったが、意に介することなく立ち去るジルの姿を、二人の人物が静かに見下ろしていた。
一人はノア。そしてもう一人は、以前エリアスに伝えた協力者である。その協力者は、当代の豹王が乙女の姿を借りていることにいまだ慣れないらしく、鼻梁に不快げな皺を寄せながら問いかけた。
「……助けるつもりだったのか?」
「いや。多少のいざこざ程度では出る幕じゃないさ」
ノアは淡々と応じる。かつてジルが三階の窓から転落した時のような緊急事態でもない限り、手出しをするつもりはなかった。
心配していないと言えば嘘になる。だが、すでに窮地を脱し、平然と歩み去るあの後ろ姿には、確かな頼もしさがあった。ジルは強い。たとえ泥人形に襲われ恐怖に震えたとしても、それを引きずることはなかった。子供のためならば自らの命を懸けることすら厭わない。少なくとも、あのような高慢なだけの女が敵う相手ではなかった。
「醜い女だ」
ぽつりと、吐き捨てるような言葉が落ちた。ノアは隣の人物へ氷のような冷ややかな視線を走らせたが、その蔑みがジルではなく、ソノラ・ハモンドに向けられたものだと察してすぐに視線を戻した。
生徒会長に促されて歩き出したソノラの姿は、確かに醜悪だった。良心のかけらもない悪辣な本性が、歪んだ表情に滲み出ている。美貌で知られる令嬢ではあるが、彼女が自惚れているほど、周囲は彼女を崇拝していないのだ。
「確かに、醜いな」
ノアは同意し、隣に立つ人物を改めて眺めた。自分よりもわずかに背が高いその人物は、学院の制服ではなく、布織のチュニックに黒のブリーチズという動きやすい装いに身を包んでいる。腰に剣を帯びているのは、彼女が剣術を己の「ツール」に選んだ従騎士である証だ。
父親譲りの美しい銅色の長髪を、後ろで一つに束ねている。本人としては邪魔なので切り落としたいらしいが、両親から固く禁じられているために諦めたのだという。もっともノアは、彼女が正式に騎士に叙任された瞬間、その房を即座に切り落とすだろうと踏んでいた。
アイアンサ・デヴロー。
ロズリー公爵の姪であり、共に剣を学んだノアの幼馴染。ノアが即位し、アイアンサが学院で修行の道へと進んでからは顔を合わせる機会も減っていたが、彼女もまた、ノアが数少ない信頼を寄せる一人であった。
アイアンサはソノラから視線を外し、校舎へと消えていくジルをじっと見つめていた。その瞳に蔑みはないが、かといって温かみも興味も感じられない。
アイアンサという女は、剣術以外に興味を示すことが少ない。忠誠を誓うべき主君すら、いまだに決めていないのだ。本来ならばその対象は豹王であるはずだが、彼女は幼い頃から「己の主は自らの意志で決める」と公言し、それはノアが豹王となってからも変わることはなかった。
「……ところで。そのふざけた格好は何?」
矛先が突然、自分に向けられた。ノアは苦笑を隠さず答える。
「だから言っただろう。この学院に入り込むなら、男の姿のままではすぐに露見する」
「先代にも、あんたより一つ勝っていた所があったようだね」
皮肉げなアイアンサの言葉に、ノアは肩をすくめた。
「まさに、長き歴史の中でも俺だけかもしれんな。……それで、アイアンサ。調査報告を」
以前、ロズリー公爵の命により、アイアンサには学内の組織状況を調べさせていたが、その後も調査を継続させていた。デヴロー家は優秀な騎士を輩出する名門であり、彼女自身も国のために動くことを厭わない。
アイアンサは無言で一枚の写真を差し出した。そこに写っていたのは、肩幅の広い大柄な男だった。少年と呼ぶにはその眼差しはあまりに剣呑で、固く結ばれた薄い唇は、この世の全てに不満を抱いているかのようだ。
ノアはこの男の顔に見覚えがあった。
エリアスとジルに催眠術をかけようとした、あの「白ウサギ」。エリアスが無理やり被り物を剥ぎ取り、その首が跳ねられる寸前、一瞬だけ露わになった男の素顔だ。
「画伯の絵と特徴が一致しているだろう」
アイアンサの言葉に、ノアは思わず吹き出しそうになった。エリアスが描いた、無数の線が多重に走るあの独創的な絵……。しかし、アイアンサの言う通り、口元の黒子や瞼が半分閉じたような独特の風貌は、確かに捉えられていた。
「誰だ?」
「ドネリー・カーマイケル。西部地方の準男爵の元長男だったけど、三年前の父親の他界に伴い、現在は彼が準男爵の爵位を継いでいる。最高学年の十八歳。成績は優秀で顔も広く、社交クラブや各部活動にも頻繁に出入りしていたそう。だが、移動遊園の事件以来、学院には姿を見せていない。領地にも戻っていないようだね」
「画伯様様だな。……性格は、一見すると頼りがいがあり人当たりも良いが、その実は尊大で粗暴。といったところか?」
「付け加えるなら、爵位や能力に釣り合わないほど、自尊心が高い」
「この男で間違いないな。出入りしていた場所の検討はついているか?」
誰に聞いているんだ、と言わんばかりの無言のまま、新たな紙が差し出された。学院には多種多様な社交クラブや部活動が存在するが、ドネリーはそれらを網羅するように出入りしていたようだ。
「お前は……社交クラブに出入りするような柄ではないな。今の質問は愚問だった」
ノアは自嘲気味に呟き、指示を出す。
「部活系を中心に当たってくれ。奴がどう関わっていたかを知りたい。おそらく、公認の団体が組織ぐるみで動いているわけではないはずだ。狙いは個別の勧誘だろう。奴の不審な動きを覚えている者がいるかもしれない」
「わかった。社交クラブの方は?」
「俺が接触する」
「その姿で? 生徒じゃないとすぐにバレるだろうに」
「手はあるさ。ロズリーには俺から報告しておく。頼むぞ」
「ああ」
短く了承を返すと、アイアンサは訓練の時間が迫っていることを告げ、その場を辞した。去り際、幼馴染の顔色の悪さを一瞥したが、彼女は何も言わなかった。
彼女は叔父であるロズリーから、事の全容を聞かされているわけではない。ノアの体内に潜む存在を含めた最高機密に触れられる立場にはなかったからだ。
だが、豹王であるノア自らが調査に乗り出していること自体が、すでに異常事態である。その異様さ、そしてこれまでの調査で垣間見えた断片から、彼女は直感していた。
想像を絶する深淵が広がっていることを。
※
エリアス・サルダーノを諦めるというのは、実に口惜しい決断だった。だが、もはや退かねばなるまい。奴は、こともあろうに豹王の庇護下に入ってしまったのだから。
それに、以前の奴であれば仲間に引き込めた確信があった。だが今は違う。今の奴は、かつてのように孤独ではないからだ。
人の心に澱のように溜まる孤独や憎悪、嫌悪、そして果てしない寂寥感といった「負の感情」こそが、我々の原動力となるのに、それらが薄れつつある今の奴を引き込むのは難しいだろう。
本来であれば、ジリアン・ノウルズにもこれ以上関わるべきではない。彼女の存在は、エリアス・サルダーノ以上に豹王に近い。火に飛び込む羽虫のような危うさがそこにはある。
だが、それはできない。
あの箱……。あの箱の中に封じられていた「もの」が、なぜ跡形もなく消え去ってしまったのか。その理由を解明しない限り、前へは進めない。
今の自分は、恐ろしいほどにその謎に取り憑かれている。
もっと彼女のことが知りたい。ジリアン・ノウルズとは何者か。
その真実を、もっと、もっと知りたいのだ。
更新情報はXにて @sharineko01
「年度末、始め」プラス、子供の卒園、入学が重なりバタバタしてました。
少し落ち着いてきたので、引き続きよろしくお願いいたします。




