第7話:新しい朝、異国の温もりと狼皇帝
目覚めた瞬間、エリスはまるで別世界にいるような錯覚を覚えた。柔らかな羽毛の布団が身を包み、日の光が織りなすカーテンの隙間から、温かな朝の光が差し込んでいた。
——あぁ、夢じゃなかったんだ。
ベッドから上半身を起こしたエリスは、自分の手足が汚れていないことに驚く。体を包む寝間着は清潔なリネンで、柔らかな肌触りが心地よかった。昨夜は深い眠りに落ちるまでの記憶も朧げで、ただ静かな温もりの中で何年ぶりか分からない安堵を味わっていた。
扉がノックされ、兎族のメイド、フィーリアが顔を覗かせた。
「おはようございます、エリス様。お目覚めは如何ですか?」
「おはようございます……あの、大丈夫です」
エリスの返事にフィーリアは嬉しそうに尻尾を揺らしながら部屋に入ってきた。昨日と変わらぬ、いや、それ以上に優しく親しみやすい笑顔がそこにあった。
「朝食をご用意しております。お着替えのお手伝いをしても?」
エリスは慌てて首を振った。誰かに着替えを手伝われることに慣れていない。ルミナシア王国で使用人扱いだった自分が人に世話を焼かれることなど、考えたこともなかったからだ。
「えっ……!? だ、大丈夫です……!自分で着替えられます……!」
フィーリアは困ったように首を傾げたが、無理強いはせず微笑んだ。
「では、準備ができましたらお声掛けください。朝食の間までご案内いたします」
フィーリアが扉を閉めると、エリスは改めて部屋を見渡した。広く清潔で、家具一つ一つも上質だった。
鏡の前で髪を整え、用意された簡素ながら清楚なワンピースに袖を通す。
驚いたのは、下着まで肌触りの良いものが用意されていたことだ。王都の公爵家にいた頃でさえ、こんな丁寧な扱いは受けたことがない。
「不思議な国……」
小さく呟きながら扉を開けると、すぐにフィーリアが待っていて、嬉しそうに耳をぴくぴく動かしていた。
「それでは参りましょう!」
館内の廊下を進むと、ヴァルザール城の中の雰囲気がさらにエリスを驚かせた。
硬質な石の床にも美しい絨毯が敷かれ、壁には立派な絵画や装飾が施されている。
兵士たちが行き交うが、彼らは皆一様にエリスに軽く頭を下げ、優しい目を向けた。
「……昨日からずっと、誰も私の髪や目を見て蔑んだりしない……」
「当然です、エリス様」
フィーリアが誇らしげに胸を張った。
「ヴァルザールでは髪や目の色で誰かを差別するなど、恥ずべきことですから。黒髪だろうが金髪だろうが、赤でも緑でも、美しさは個性です」
エリスの目が潤んだ。たった一晩でこんなにも心が軽くなるものなのかと、自分でも驚いていた。
案内された朝食の間には、すでにレオンが待っていた。無表情に見えるが、視線は真っ直ぐにエリスを見ている。
「おはよう」
短く告げたレオンに、エリスは慌てて頭を下げた。
「お、おはようございます……!」
「座れ。食え」
端的な言葉に戸惑いながらも席につく。テーブルの上には焼きたてのパン、香ばしいベーコン、たっぷりのスクランブルエッグ、そしてハーブ入りのスープが並んでいた。
「どうだ。食えるか」
「は、はい……とても美味しそうです。 い、いただきます……!」
スプーンを手に取ると、香りだけでお腹が鳴りそうだった。慎重に一口、スープを口に含むと、身体が内側から温まるのを感じた。
「美味しい……」
ぽつりと漏らした言葉にレオンは少しだけ目を細めた。
「たくさん食え。今のお前は骨と皮だ」
「す、すみません……」
「謝ることじゃない。食え」
エリスは震えながらも口を動かした。レオンは黙ってスープを啜り、時折ちらりとエリスを見やった。彼の目は冷たさの奥に何か温かいものが宿っているように思えた。
食事を終えると、レオンは椅子を引き、立ち上がった。
「今日は屋敷内を案内させる。フィーリアに従え。帝都の様子は後日見せてやる」
「……は、はい……!ありがとうございます……!」
短いやり取りだったが、エリスの心は不思議と安心感で満たされた。追い出され、殺されかけたはずの自分が、こうして人の温もりに触れている。
レオンが出て行った後、フィーリアがぱちぱちと手を叩いた。
「ではまず、お庭から参りましょう!」
ヴァルザール城の庭は、獣人国ならではの自然美に溢れていた。芝生の広場には遊ぶ子供たちがいて、犬族の兵士が見守っている。鳥族の若者たちが木々の間を飛び回り、兎族のメイドたちが花壇の手入れをしていた。
「この庭には、陛下自ら選んだ花が植えられているんですよ」
エリスは思わず立ち止まり、真っ白な花を見つめた。どこか儚げで、けれど凛としているその花は、ルミナシアでは見たことのないものだった。
「名前は“ノルフラ”といいます。意味は“希望”」
フィーリアの言葉に胸が熱くなった。
「希望……」
「ええ。厳しい冬でも散らずに咲く花です」
その言葉にエリスの心がふわりと浮いた気がした。虐げられ続け、諦めかけていた人生に、わずかな光が差し込んだ気がする。
その後もフィーリアの案内は続いた。厨房では犬族の料理長が元気よく挨拶し、兵舎では鍛錬に励む兵士たちが笑顔で会釈をくれた。
「……皆、優しいんですね……」
「当然です。ヴァルザールは強さを重んじますが、同じくらい他者への敬意も大切にしています」
「……ルミナシア王国とは、全然違う……」
思わず口にした本音に、フィーリアは柔らかく笑った。
「エリス様は、もうルミナシアの娘ではありません。ここヴァルザールで、新しい人生を歩まれるのです」
新しい人生──その言葉は胸の奥深くに響いた。追われるように捨てられたはずの自分が、別の国でこうして歓迎されている。まるで夢のような不思議な感覚だった。
「さあ、次は書庫へ参りましょう。エリス様のお好きな本があるかもしれませんよ!」
フィーリアに促され、エリスは小さく頷きながら歩き出した。
確かに、この国でなら自分にも“居場所”があるのかもしれない。そう思えた初めての朝だった。
──しかし、この平穏が長く続くものではないことを、このときのエリスはまだ知らなかった。