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追放聖女は獣の皇帝に愛される  作者: 宮野
第一章:追放と邂逅
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閑話:閉ざされた日々

静寂が部屋を包み込んでいた。


レオンが静かに部屋を後にしてから、エリスはしばらく扉の前に立ち尽くしていた。扉の向こう側で遠ざかっていく足音が、夜の廊下に吸い込まれていく。


ふっと息をついて、ようやく膝の上で握りしめていた拳を解いた。心臓が静かに波打ち、先ほど聞いた言葉が何度も胸の内に反響していた。


——重要なのはお前がどう生きたいかだ。


その一言が、耳の奥で何度も繰り返されていた。思わず胸元に手を当て、エリスはゆっくりと顔を上げた。夜の静寂が、窓の向こうからそっと差し込んでいる。


エリスは厚いカーテンを少しだけ開けた。窓の外には澄んだ夜空が広がり、無数の星々が瞬いていた。月は高く昇り、銀の光が城壁の石畳をやわらかく照らしていた。


「(……綺麗……)」


知らず、指先が窓枠を撫でる。


遠い記憶が静かに蘇ってくる。幼い頃、一度だけ窓の外の空を見た時のこと。あの時の空は、細く小さな窓の隙間から覗いた、ほんの切れ端だった。それが、エリスが覚えている最初で最後の「空」の記憶。


彼女が過ごしてきた年月は、こんなありふれた夜空さえ知らないものだった。





エリスはルミナシア王国の名門、フォルセリア公爵家の娘として生を受けたが、その誕生は祝福とは程遠いものだった。


実母は名門貴族の令嬢であり、フォルセリア家との政略結婚によって嫁いだ。だが、エリスを産む際、難産で命を落とした。初めての産声と共に、命が静かに消えたのだった。


娘を一目も見ることなく母は逝き、父親は妻を喪ったその瞬間から、国で「不吉」とされる黒髪と黒い瞳を持って生まれたエリスに視線を向けることはなかった。


実母が亡くなった後、父はエリスには見向きもせず、存在しないもののように扱った。父の目には、己の妻を奪った不吉な子供でしかなかったのだ。


数年後、屋敷にはカタリナという名の新たな女主人が現れた。とある男爵家の未亡人で、前夫との間に二人の娘を持っていた。


公には「縁談」として迎え入れられたが、真実は違った。カタリナは、実母が生きていた頃から父の愛人だった。男爵家の夫が死去した直後、隠されていた関係が露わになり、速やかに再婚が決まったのだ。


カタリナは堂々と公爵家の正妻として振る舞い、その娘たちも義姉として屋敷に入ってきた。屋敷の空気は冷たく変わった。いや、元々冷えていた場所が、さらに凍りついたのだ。


カタリナの口からは、初対面のときから毒が吐き出された。


「黒い髪、黒い瞳……不吉そのものじゃない。あの女の子だから仕方ないけれど、家の恥ね」


カタリナのその一言で、エリスの存在は公爵家の中で「穢れ」と定義付けられた。義姉たちも母の後押しを受け、遠慮なく蔑み、罵倒し、時に髪を引き、手を上げた。


父親は何も咎めなかった。むしろ、彼女たちの振る舞いを黙認し、放置した。


エリスの居場所は物置小屋だった。元々古道具が積まれていた屋敷の隅の小屋。寝具も家具もない、湿気と埃に満ちた冷たい場所。


公爵家の立派な部屋には一度も案内されたことはなく、花咲く庭園も、煌びやかな客間も、彼女には無縁だった。


小さな窓が一つあるだけだったが、それすら義母の指示で外から板が打ち付けられた。陽の光は遮られ、昼でも薄暗い。


使用人たちも例外ではなかった。父の無関心と義母の冷遇が全ての空気を支配し、誰も彼女に手を差し伸べなかった。食事が抜かれることも着替えが与えられないことも日常で、冬には冷たい空気が隙間風となり頬を刺し、夏には蒸し暑さで息が詰まりそうになった。


エリスは、まるでこの世に存在しないかのように一度も公爵家の外へ出してもらえず、ずっと隠されてきた。


そんな世界に抵抗することも、異議を唱えることも、エリスにはできなかった。

エリスの世界は小さな物置小屋だったから―――




「……世界はこんなにも広かったのね……」


エリスは窓枠に触れながら、そっと目を伏せた。


ふと、今日のことがよみがえる。兵士の傷が目の前で癒えた、あの瞬間の温かな感覚。エリスの中から溢れた力が、優しく包み込んだ感覚。


信じられなかった。けれど確かに起きたことだった。


レオンは「聖女」と呼ばれる存在について教えてくれたが、心の奥底では恐怖も疼いていた。もし本当に特別な力があるのだとすれば、誰かに利用され、縛られるのではないか。


けれど——。


「……重要なのは、私がどう生きたいか……」


あの時のレオンの瞳は、今まで自分を見た誰のものとも違っていた。レオンは、自分に役割や義務を押し付けなかった。ただ、自由に生きろと言ってくれた。


「(私は、今……初めて人間として生きられるの……?)」


幼い頃から「存在しないもの」として扱われた心は、そんな希望さえ持てずにいた。それでも、心の奥で小さな火が灯るのを感じた。


この国では、誰も自分を黒い髪や瞳で蔑まなかった。フィーリアも、兵士たちも、誰もエリスを罵らなかった。


温かい布団の上で、エリスはゆっくりと毛布を引き寄せた。生まれて初めて触れる柔らかな感触が、じんわりと胸の奥を満たしていく。涙が滲みそうになり、慌てて目をぎゅっと閉じた。


「(……生きたい……この世界で……)」


まだ何も分からない。ただ、自由に生きろと言われたその言葉にすがるように、エリスは静かに目を閉じた。


胸の奥には、もうあの陰鬱な屋敷の冷たい声も、閉ざされた物置小屋の寒さもなかった。


あるのは、心にぽつりと灯った、小さな、小さな希望だけだった。

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