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追放聖女は獣の皇帝に愛される  作者: 宮野
第一章:追放と邂逅
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第10話:灯った微かな希望

夕暮れが過ぎ、空が深い藍色に染まり始める頃、ヴァルザール帝国の城は静けさに包まれていた。窓の外では、森の向こうに沈みゆく太陽が最後の光を投げかけ、風に揺れる木々の影が長く伸びていた。


重厚な木の扉に囲まれた執務室の中。地図が広げられた大きな机の上には、赤い印がいくつも記されていた。レオンは両腕を組み、静かにその印を見つめていた。琥珀色の瞳に宿る光は、警戒と憂いを含んだ深いものだった。


「……また増えたな」


低く漏らされた一言に、部屋の空気がわずかに揺れる。


参謀である老齢の狼族、グラハルドが地図を見下ろし、静かに頷いた。


「はい、陛下。特に北西の森林と、南部の平原地帯にて魔物の目撃例が急増しております。瘴気の濃度も、今朝と比べてもはっきりと高まっているのが分かります」


グラハルドは冷静な声音で語りながら、地図の上に指を走らせ、印の多い地域を示す。


「このまま放置すれば、周辺の村々に被害が及ぶのは時間の問題です」


部屋には他の側近たちの姿もあった。筆頭騎士である狼族のグレイは、腕を組んで立ったまま、鋭い視線を地図に向けていた。


「……魔物の動きが変わっている。討伐しても、数日もすれば同じ場所にまた出る。まるで……引き寄せられているかのようだ」


虎族の副将ランベルは、巨体に似合わぬ静かな声で同意する。


「瘴気の広がりが異様に早い。これまでの周期とは明らかに違う」


猫族のマリスが金の瞳を細めながら言葉を継いだ。


「南の国境付近でも、小規模ながら魔物が現れています。この数ヶ月で、諜報部が確認した数だけでも三十を超えました」


静かに視線を巡らせるレオン。その表情に焦りはないが、内に潜む緊張が伺える。彼は数秒の沈黙の後、低く呟いた。


「……何か、異変の兆しか……」


その言葉に対し、グラハルドがやや躊躇いながらも口を開いた。


「……聖女が現れれば、この状況も打開できるかもしれませんな」


場の空気が一瞬、重たくなる。聖女――それは伝承に語られる、奇跡の力を持つ存在。

レオンの眉がわずかに動いた。


「……四百年も前の話だ」


「ええ。ですが、最後に聖女が現れたのは、我が帝国がまだ辺境の一部だった時代。ルミナシア王国から来訪した聖女が、この地に根を下ろし、瘴気を祓い、土地を豊かに導いたと記録されています」


グラハルドは記録を見ずとも語れるほどに、過去の伝承を熟知していた。


人間の国・ルミナシア王国において、聖女はごく稀に生まれる存在。彼女たちは生まれながらにして癒しと浄化の力を持ち、その力は「幸福」を感じるほどに増していく。聖女は一度に一人しか存在せず、誰かが持つその力は、病を癒し、傷を治し、瘴気すらも祓う。


そして、聖女を大切にする国は繁栄し、蔑ろにすれば衰退する。これは聖女の存在そのものが国の命運に関わると信じられている理由だった。


レオンは昨夜の出来事を思い出したが、淡い期待を打ち消すかのように息を吐いた。


「……だが、それはあくまで伝承だ」


レオンの声は淡々としていたが、その奥にある思考の重みは消えていなかった。

グレイが重い口を開く。


「伝承とはいえ、瘴気の増加と聖女の出現が何らかの因果を持つなら無視はできません」


マリスも尾を揺らしながら同意を示す。


「仮に、その力を持つ者が再び現れたなら……その影響は、帝国全土に及ぶでしょう」


「そうだな。……しかし、いつ現れるかも分からない存在に期待をしたところで意味はない」


その言葉に全員が黙り込む。

すると、控えめなノック音が会話を断ち切った。


「失礼いたします。フィーリアです」


レオンが短く返事をすると、灰色の耳を揺らしながらフィーリアが入室した。いつもと変わらぬ落ち着いた面持ちだったが、どこか沈んだ空気が彼女の表情に影を落としていた。


「……お話し中に申し訳ありません。ですが、陛下に訓練場での出来事についてお伝えしたく」


「構わん。何があった?」


レオンの問いに、フィーリアはゆっくりと言葉を選びながら話し出した。


「本日、エリス様を訓練場にご案内した際、訓練中に足を負傷された兵士がいたのですが……エリス様が治して見せたのです。――まるで魔法のように」


グラハルドが息を呑み、静かに問いかける。


「……フィーリア、それは本当ですか?」


「はい、私もこの目で確認いたしました」


フィーリアの声は揺るぎなかった。そして彼女は続ける。


「ですが……その後のエリス様は少し不安そうなご様子でした。ご自身の力に驚かれていたようで……そのまま黙ってお部屋へ戻られてしまいました」


室内の空気がまた、沈黙に包まれる。


「兵士たちは?」レオンが問いかける。


「訓練場では、『あの方は聖女かもしれない』という噂が広がり始めております。ですが、エリス様ご本人は“聖女”という言葉にも困惑されていた様子でした。おそらく、伝承についても詳しくはご存じないのだと思います」


「……それは問題ですね」


グラハルドが静かに眉を潜めた。


「知らぬまま力を使えば、無用な恐れや不安を抱えることになりましょう。彼女が聖女であるかどうか以前に、少なくともその存在が何かを知っておくべきかと」


レオンはしばらく沈黙したのち、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


「……俺から、直接話そう」


その言葉に、全員が頷いた。







夜も深まった頃、レオンは静かな足音でエリスの部屋の前に立ち、軽く扉をノックした。


「……エリス、起きているか?」


数秒の間のあと、戸惑ったような声が返ってきた。


「……はい、起きております」


「少し話がある。入ってもいいか?」


「……はい、どうぞ」


扉が静かに開かれ、白い寝間着に身を包んだエリスが姿を見せた。驚いた様子を見せつつも、丁寧に頭を下げ、部屋に招き入れる。


部屋の中は蝋燭の柔らかな灯りに照らされ、穏やかな香りが漂っていた。


「こんな夜分に申し訳ない。少し、話しておきたいことがある」


レオンは窓際の椅子に腰を下ろし、彼女に座るよう促した。

エリスは彼の前に座り、静かに手を膝の上に重ねた。


「今日、訓練場で怪我をした兵士を癒したと聞いた」


「……はい。わ、私には小さな傷を治すくらいの力しかないはずなのですが……でも、皆様があまりにも優しくしてくださるので……せめて、何かお返しがしたくて……」


彼女の声には戸惑いが混じり、その表情は不安と困惑に彩られていた。

レオンはその姿を見つめながら、穏やかな声で話し出した。


「お前は『聖女』という存在を知っているか?」


「……いえ、詳しくは……」


「そうか」


レオンは静かに頷くと、まっすぐに彼女の瞳を見つめて言った。


「聖女とは、幸福を力に変える存在だ。瘴気を祓い、病や傷を癒し、土地を豊かにする。その力は、心が穏やかであるほど強まる。そして……同時にこの世に一人しか現れない」


エリスの黒い瞳が揺れた。


「……まさか、私が……?」


レオンは首を振った。


「さぁな。それはまだ分からないが……ただ、聖女であっても、そうでなくても、重要なのはお前がどう生きたいかだ。誰かの理想にもならなくていい。ただ、お前が、お前のままであること。それが一番だ」


その言葉にエリスは目を見開いた。静かな、けれど確かな言葉だった。

エリスの心に暖かな波紋が広がった。誰からも否定され、蔑まれてきた人生の中で、初めて受けた温かい言葉だった。


「……陛下……ありがとうございます……」


レオンは小さく頷き、立ち上がった。


「何かあれば遠慮なく言え」


そう言い残し、彼は静かに部屋を後にした。

エリスはしばらく扉を見つめ、そっと胸元を押さえた。心の中で灯った小さな温もりが、ほんの少し不安を和らげていた。


胸に残るのは、あの言葉。


“重要なのはお前がどう生きたいかだ”


それは、呪いのように刷り込まれていた自分の過去に、初めて灯った希望のようだった。


「(私は……ここで、どう生きていけば……)」


彼女の問いはまだ答えを持たなかったが、その夜はほんの少しだけ心が温かくなっていた。

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