第9話:小さな癒し、大きなざわめき
朝の光が石造りの窓から斜めに差し込み、柔らかな金の筋がエリスの頬を撫でた。薄い瞼が小さく震え、ゆっくりと目を開く。霞んだ視界の中で、昨夜の出来事が淡い夢のように蘇る。
(……陛下が部屋にいらして……私が、怪我を治した……?)
エリスは自分の手を見下ろし、そっと指先を擦り合わせた。しかし何の特別な感覚も残っていない。ただ、心の奥には不思議な温かさだけが微かに残っていた。
「……夢、だったのかしら……」
思わず口から漏れた独り言は、石造りの静かな部屋に吸い込まれていった。
その時、扉の向こうから控えめなノック音が響く。返事をするとすぐに扉が開き、フィーリアが静かに現れた。
「おはようございます、エリス様」
「お、おはようございます、フィーリアさん」
フィーリアは丁寧に頭を下げ、穏やかな笑みを浮かべた。その灰色の耳がぴくりと揺れ、ふわりとした尻尾が静かに揺れている。
「昨晩はよくお休みになれましたか?」
「はい、おかげさまで」
「それは何よりです!今日は兵舎と訓練場をご案内いたしますね。帝国の兵士たちの様子を、ぜひご覧いただきたいです」
「分かりました。よろしくお願いします」
エリスは起き上がり、着替えと朝の身支度を終え、フィーリアに続いて部屋を出た。城の廊下を歩くと、足音が静かに響き、清潔に磨かれた石の床に反射する光がちらちらと踊っている。
窓の外には澄み切った青空が広がり、太陽が高く昇り始めていた。爽やかな空気に包まれながらも、エリスの胸には淡い不安が残っていた。
◆
昨日と同じく案内された朝食の間にはレオンの姿はなかった。
席につき、運ばれてくる美味しそうな朝食を横目にエリスは陛下がいないことを疑問に思った。
「……あの、フィーリアさん……陛下は……?」
「陛下は早朝から討伐隊を率いて出発なさいましたよ」
「……そう、ですか……」
エリスの手が無意識に胸元を押さえる。レオンの無事を祈りつつ、何もできない自分の無力さに胸が締めつけられるようだった。
「エリス様、大丈夫ですよ! 陛下はとてもお強く、必ず無事にお戻りになります!」
「はい……ありがとうございます、フィーリアさん」
フィーリアは安心させるように微笑む。
慣れているはずなのに、一人きりの食事は少し寂しさを感じた。
食事の間、エリスは静かだった。口に運ぶ手も遅く、何度も窓の外に目を向けては、遠くに思いを馳せた。
◆
食後、フィーリアの案内で向かったのは訓練場だった。
「こちらが帝国の訓練場でございます。兵士たちは日々、戦いの技を磨いております」
「……すごい活気ですね」
訓練場の門を抜けると、活気に満ちた声が迎えてくれた。
広々とした訓練場では数十名の若い兵士たちが剣や槍を手にして鍛錬に励んでいて、剣のぶつかる音、木槍が風を切る音、掛け声と笑い声が交じり合い、力強い気配が溢れていた。
「当然です。ここヴァルザール帝国の兵士は、肉体と本能を研ぎ澄ましていますから」
耳と尻尾がぴくぴくと動くフィーリアの誇らしげな口調に、エリスは微笑んだ。人間国では見られなかった、まさに“強さ”を目の当たりにして、自然と背筋が伸びる。
「いってぇっ……!」
訓練場の一角から、軽い悲鳴が上がった。
「……? 何でしょうか……少し様子を見てまいりますね」
「あ、はい……」
兵士たちの様子を見に行ったフィーリアだが、少し時間が経っても戻ってこない。
よほど深刻な状況なのだろうかとエリスも様子を見に行く。
エリスが近づくと、集まっていた兵士たちはすぐに道を開けた。その中央には若い兵士が座り込み、足首を押さえて顔をしかめている。
「足を捻挫したようで……。今、兵士の一人が医者を呼びに行っているらしいのですが……」
怪我をした兵士を見てエリスの心も痛む。
フィーリアは、そんなエリスを気遣ってこの場を離れようと提案する。
「すみません、エリス様。ここを離れましょうか」
「……え?で、でも……」
けれど、エリスの視線はその兵士の足元から離れなかった。じんわりと赤く腫れた足首。顔をしかめる青年兵の苦しそうな様子。誰もが自分を優しく迎えてくれたこの国で、傷ついた人を目の前にして、自分は何もできないのか。
「(……私では小さな傷しか癒せない……でも……)」
この国の人々は皆、優しい。異国の地で怯えていた自分を温かく迎え入れてくれた。何もできないままでいるより、今は……恩返しがしたい。
「……あの、少し見せていただけますか?」
「え?あ、はい……」
若い兵士は驚いた顔で頷いた。フィーリアもきょとんとしつつ、静かにエリスを見守る。
エリスは静かに膝をつき、震える指先で兵士の足首に触れた。冷たい汗が額を伝う。不安と恐れで胸がいっぱいになる。
―――もし、何も起こらなかったら?
恥をかくだけじゃない。余計に迷惑をかけるかもしれない。
そんな思いが駆け巡る。けれど、脳裏に浮かんだのは彼らの優しさだった。自分を蔑むことなく受け入れ、この国で生まれて初めて穏やかな日々を過ごせた。
「(……返したい。少しでも)」
そっと触れた指先。目を閉じ、祈るように願う。
「お願い……少しでも癒えて……」
心の奥から優しい光が湧き上がるような感覚がした。淡い金色の光が指先から流れ、兵士の足首を包み込んだ。
「……え?……痛みが、引いていく……?」
ざわめきが訓練場を駆け巡る。若い兵士はゆっくりと足を動かし、恐る恐る立ち上がる。
「……動かせます……全然、痛くない……!」
「……!」
何事もなかったかのように兵士の足が治り、エリスは安堵した。
だが、正直なところ本当に治せるとは思ってはいなかった。エリスの力は小さな傷にしか効果がないということは今までの経験からして明らかだったからだ。
なのに、どうして今回は治せたのか―――
「す……すごい……!」
「……おい、今の見たか……?」
兵士たちは驚きと感動の混じった視線をエリスに向けた。
――まるで聖女のようだ
誰かが言ったその言葉に兵士たちが賛同して、口々に「聖女様」とエリスを称える。
「えっ……!ち、違います……!私は……そんな……聖女様だなんて……」
エリスは顔を赤くし、両手を胸元に引き寄せて首を横に振った。兵士たちの視線が一斉に集まり、エリスの心臓は早鐘のように高鳴る。
「ご、ごめんなさい……私……もう失礼します……!」
エリスは小さくお辞儀をして、その場を離れた。フィーリアが慌てて後を追いかける。
「エリス様……!お待ちください!」
だが、エリスは構わず城の廊下を走り、自室へと戻った。重い扉を閉め、背中を預けたまま膝を抱え込む。
「(私の力って一体……)」
窓から差し込む光は穏やかであったが、エリスの胸の内はざわついたまま静まらなかった。




