閑話:静寂の中の温もり
鋭い靴音が石の廊下に反響する。レオンは歩を止めず、黙々と城門へと向かっていた。視線は真っすぐ前を向いているはずだったが、心の奥底ではほんの少しだけ、あの少女――エリスの姿がちらついていた。
朝食の席、彼女は必要以上に言葉少なで、控えめで、だがそれ故に妙に目を引いた。決して誰にも媚びることのない、静かな芯の強さが垣間見えた。
さらに庭園の案内に送り出すときの姿も、妙に心に残っていた。
(……何故だ。あの人間の少女が、気にかかる)
足を止めて頭を振り払うわけにもいかず、レオンは内心のざわめきを押し殺した。番――そんなものではない。自分には番の匂いは分かる。彼女からは、確かに番の香りはしない。ただの興味、気まぐれ、保護本能。そう、彼女はただ保護すべき存在なのだ。
門の前ではすでに側近や兵士たちが揃っていた。レオンが一歩近づくと緊張感が走る。誰も余計な言葉は発しない。彼の指示だけを待っていた。
「瘴気の濃い東の森だ。魔物が二日前から群れているという報告が入った。全て殲滅するぞ」
号令一つで、一行は馬を駆って城を後にした。
◆
森の空気は淀んでいた。空は青いはずなのに木々の隙間から覗く光は妙に陰鬱で、空気が重い。鼻をくすぐる腐臭と、遠くから聞こえる唸り声が緊張感を煽った。
「陛下、南側にも魔物の痕跡が!」
「先行して潰せ。俺は中央突破する」
最も瘴気が濃い場所を、レオンは迷わず選んだ。狼の血が、危険を前にしても恐れを知らず、むしろ本能的に突き動かされる。剣を抜き、闇の中へ馬を走らせた。
現れた魔物は瘴気に染まり醜悪だった。もはや理性も無く、ただ獣の本能のまま襲いかかってくる。レオンは馬から飛び降り、一閃。鮮血が飛び散り、腐った皮膚を斬り裂いた。
「邪魔だ」
次々と襲い来る魔物を一体、また一体と斬り倒す。だが数は減らない。瘴気の発生源が深部にあるのだろう。普通の兵士では一歩進むのも難しい。レオンの筋肉は悲鳴を上げ始めたが、剣は止まらない。
しかし、一瞬の隙を突かれた。
「くっ……!」
太ももに一撃、頬に小さな裂傷が走った。痛みは一瞬で冷め、怒りと闘志が体を駆け巡る。
「……こんなもの、俺を止められると思うな」
すべての動きが獣の本能で研ぎ澄まされ、瘴気の核を断ち切った瞬間、森を覆っていた重苦しさがぱたりと消えた。最後の魔物が断末魔の叫びと共に倒れ、沈黙が森を支配した。
残ったのは疲労と、じわじわと痛む傷、そして心の片隅に巣食う奇妙な思いだけだった。
(……エリス、あの子は無事にしているだろうか)
◆
ヴァルザール城に戻った時、空はすっかり夜の帳に包まれていた。兵士たちは疲れを隠しきれず、それでも誇り高く背筋を伸ばして城門を潜った。
レオンは真っ先に浴場で血と汗を流し、傷の手当てを簡単に済ませたが頬の小さな傷は残った。瘴気に侵された魔物の毒が少し混ざっていたのか、いつもより治りが遅い気がした。
(大した傷ではない。だが……)
何故か無意識に、彼の足は自然とエリスの部屋へと向かっていた。
◆
扉の前で一呼吸置くと、レオンは音もなく扉を開けた。薄暗い部屋の中、少女が静かに眠っている。夜の静寂が彼の荒れていた心を少しだけ穏やかにした。
近づくと、エリスの眉がかすかに動き、瞼が持ち上がった。まだ半分夢の中のようだったが、彼の姿を認め、伸ばした小さな手がそっとレオンの頬に触れた。
その瞬間、暖かな光がじんわりと広がる。
(……温かい?)
驚く暇もなく、頬の傷が消えていくのを感じた。
「ご無事でよかった……」
微かな囁きが彼の耳に届き、エリスは再び眠りに落ちた。
レオンは戸惑った。このぬくもり、この力、何かが心の奥に引っ掛かった。
(この力は……一体?)
しかし答えは出ない。目の前の少女は何も知らず、ただ心から心配してくれているだけだ。それがわかるからこそ、胸の奥が妙にくすぐったかった。
静かに部屋を後にしながら、レオンは初めて気づいた。
(守りたい、と思ったのはいつ以来だろうな……)
この夜、帝国の冷たい皇帝レオンの心に、小さな温もりが灯った。




