笛の音響くこの空に・エピローグ
剣豪派拠点である<無尽城郭>は自然の中に存在する広大な日本家屋という形をとっている。
ライラックが朝にはごろごろし昼には猫と戯れている母屋では、<童子切安綱>伯耆吾郎が諸々の面倒ごとを処理している。
僕が好きでやっていることですからね、と穏やかに笑うあの男のことが光次郎は苦手だった。<魔人>であり、かつ自分にはそれ以前の記憶がないため実際にはどちらが年上なのか分からないのだが、感覚的には出来のいい兄に対する気持ちに近い。
剣の腕ではまだ敵わないのが何より大きい。試合ではなく殺し合いであればもう自分の方が強いだろうとライラックは言っていたものの、光次郎が望むのは強さと戦いであって死にたいわけでも殺したいわけでもない。だから試合は試合で大事なのである。
今日は顔を見ることもなく母屋を抜け、庭へと出た。
<無尽城郭>の最大の特徴は、あまりにも広い領域だろう。母屋と宿舎代わりの離れは収容量数百名級の旅館と評しても差し支えない規模だというのに、庭から見れば隅にある建物でしかない。庭と呼べる領域だけでおよそ一キロメートル四方あり、小川を挟んた向こうには山が聳え立っている。あくまでも自然を模したものなので生き物が生息していたりはしないのだが。なお、山を越えてみたところ眼下には見慣れた家屋と庭が映ったあたり、どうやらループ構造になっているらしい。
雲一つない晴天だ。今朝も其処彼処で剣豪派構成員が剣を合わせて鍛錬に勤しんでいる。その合間を縫い、光次郎は小川の方へと歩いてゆく。
<帝国>による強襲から始まった財団派の危機はひとまず去った。主だった脅威は領域内より排除され、秩序も戻った。騎士派は出向していた部隊の半分を用心のために残し、その一方で光次郎たちは<無尽城郭>に帰還した。
<三剣使い>たちのことが心残りではあった。彼らに関しては根本は何も解決していないのだ。が、生中な覚悟と労力でしてやれることなど何もない。今回も結局ほぼ何も出来てはいないように。せめてオーチェに忠告はしておいた。あとは彼ら自身に任せる。
不意に肌へ感じる、圧。
反応には瞬きほどの時も要らない。左回りに振り向きつつ左手へ大太刀を顕現、横薙ぎの斬とした。それは唐竹に降り来る剣閃を弾き、過たず襲撃者の首筋に触れて止まる。得物の長さの差は、一切の動きを加えることなくこれを成し遂げることを可能としていた。
「奇襲するんじゃねえよ、アホ。うっかり首刎ねるところだったぞ」
相手を確認し、面倒そうに光次郎は告げる。
短めに刈った髪に細いブルーレンズの伊達眼鏡。序列七位<数珠丸恒次>、計森泰斗が唖然としていた。
共に財団派に出向していた二人であるが、予定を合わせずそれぞれで帰って来たため、顔を合わせるのは玲奈を連れて現れた時以来だ。
そういえばあの時、帰ったらボコってやるなどと軽口を叩き合った覚えがある。
「なあ、コーちゃん……」
「ん?」
「なんか強くなってねェか?」
「さあな」
<魔人>というものへの理解を除いたとしても少し質が変わったようには思うが、剣の腕が上がったのとはまた異なるだろう。
小さく笑ってまた背を向けた。
「ボコるのはまた今度にしといてやるよ」
「おいこらずるいぞ! 何があったんだよ教えろよ!」
後ろで騒ぐのを容赦なく置いてゆき、光次郎は小川の方へと向かった。
その後も挨拶を受けたり手合わせを願われたりしながら、やがて目的地へと辿り着く。
透明な水の、ごく浅い川だ。足首までも沈まない。幅も三歩程度のものである。
この小川を渡れば小高い丘へと繋がる斜面があり、丘より更に行けば山になる。
光次郎は背丈の低い草に覆われたその斜面に寝転んだ。
空が青い。偽物のはずだが区別はつかなかった。
口笛を吹く。調子外れなことが自分でも分かる。それでも気にせず途切れ途切れに続ける。
特に意図はない。何となくである。
そうするうちに影が差した。近付く者のあることは察していたし、誰であるのかも分かっていた。
覗き込んで来たのは、少しだけ年下と見える少女である。その年頃の娘としては少し背が高く、少し長めの髪を結い上げて後頭部で一つに丸め、少し大きな瞳に戸惑うような色が浮かんでいた。
「朝っぱらからこんなところで何やってるんですか?」
「お前こそ何やってんだ」
少女の名は柊真朱、剣豪派最弱の<魔人>である。近かったから、というだけを理由として剣豪派に所属し、見様見真似で剣を振ってみたりはするものの素質の類はまったく感じられない。普段は<童子切安綱>の手伝いをしたり、手作りの菓子やらサンドイッチやらを休憩中の皆に振舞ったりしていることが多い。それが点数稼ぎと映ったのか一部の同性といざこざもあったようだが、今はむしろ意気投合して共に菓子作りを楽しんだりしているようだ。
一方、光次郎としては自分とはあまり仲が良くないと認識している。
「あなたが変な行動してるから気になって追って来ちゃったんですよ」
「ライラックの次に自由人なお前に言われたかねえよ……」
真朱はいざという時を除けばそれほど押しの強い方ではないはずなのだが、自分に対しては妙に歯に衣着せぬというか、直球でものを言ってくるように思う。初対面の頃はそうでもなかったのだが。
「ライラックから聞きましたよ。なんだかすごく強い相手とやり合ったって」
言いながら断りもなく隣に腰を下ろして来た。
「まあな」
<赤旋風>か狂犬、どちらを指しているのか、あるいは両方まとめてなのか。違いは大きかったがいずれも強敵だったに違いない。あまり言葉にする気もせず曖昧に濁す。
小さく息を吐けば、いい気分だ。今は休息の時であると無意識が知っている。
下手な口笛を再開する。
真朱も空を見上げた。
腕前を茶化すこともなくしばらくは黙って曲に耳を澄ましていたようだが、やがて自らも口笛を合わせ、響かせ始めた。
光次郎よりも随分と上手い。
二つの音が、調和しているのやらちぐはぐなのやら分からぬまま大気に溶けてゆく。
真朱の音が少しだけ止んだ。
「お疲れ様です。心配したんですよ?」
それは空耳に違いない。仲など良くもないはずなのだから。
音は再び二つになる。
二人の音楽はまだ世界を繋げないが、不器用に響き合うことは出来た。
今日が始まる。




