好きな女に、俺が女になったと伝える
月曜の朝。
目が覚めて最初に思ったのは、髪がない、だった。
もちろん、なくなったわけではない。
枕元に手をやれば、顎のあたりまでの短い髪が指に触れる。ただ昨日まで腰近くまであったものが、寝返りを打っても顔にまとわりつかず、布団の中にも入り込んでこない。
その快適さに、俺はしばらく目を閉じたまま感動していた。
「……最高だな」
これなら二度寝できる。
そう思ってから、今日は会社を休むことになっていたのを思い出した。
黒田さんから正式に「休め」と言われている。チャットもメールも見るなと釘まで刺されたので、少なくとも夕方までは仕事をする理由がない。
なら本当に二度寝してもいい。
そのはずだった。
枕元のスマホが震えた。
嫌な予感がした。
黒田さんなら無視しても怒られない。むしろ仕事関係なら見るなと言われているので、堂々と無視できる。
千尋なら後で返せばいい。
蓮ならもっと後でもいい。
薄目を開けて通知を見る。
水瀬美琴。
一気に目が覚めた。
『おはよ。今日休みって聞いたけど、ほんとに大丈夫?』
「…………」
誰から聞いた。
いや、会社の人間ではない。
美琴は俺と同じ会社ではないし、仕事関係でもない。
昨日の夜、俺が月曜は休むことになったと軽く送っていたのを思い出す。
そうだった。
そこまでは自分で言った。
問題は、その理由を何一つ説明していないことだ。
俺は仰向けのままスマホを持ち上げた。
返信欄を開く。
『大丈夫。身体が女になっただけ』
消す。
「だけじゃねえ」
自分で突っ込む。
もう一度。
『体調自体は問題ない。実は転性現象っていうのになったらしくて』
そこまで打って、止める。
文章にすると、やっぱり意味が分からない。
昨日、黒田さんに報告した時にも思ったが、これは説明が難しいのではなく、内容そのものが説明向きではない。
たとえば骨折したなら、骨折したと言えばいい。
熱が出たなら、熱が出たと言えばいい。
女になった場合は。
女になった、と言うしかない。
それが一番困る。
俺はベッドの上でしばらく悩み、結局、
『体調は大丈夫。ちょっと説明しづらいから、起きたら電話していい?』
と送った。
すぐに既読がついた。
『今でもいいよ?』
「早いんだよ……」
昨日の黒田さんといい、こういう時に限ってみんなレスポンスがいい。
俺は時計を見る。
九時十一分。
休みの朝としては早い。
それ以上に問題なのは、俺が完全に寝起きだということだった。
鏡を見るまでもなく分かる。
短くしたばかりの髪は、昨日千尋から教わった通り見事に片側だけ跳ねていた。
「電話だけなら関係ないか」
そう思った。
その三秒後。
電話だけでどうやって信じてもらうんだ、という問題に気づいた。
*
顔を洗った。
髪も直した。
なぜ俺は、体調不良の説明をするためだけに片想いしている女とのビデオ通話へ向けて身だしなみを整えているのだろう。
「……違うだろ」
鏡の前で自分に言い聞かせる。
別に美琴に良く見られたいからではない。
寝癖のまま人と話すのが嫌なだけだ。
相手が蓮でも直す。
たぶん。
いや、蓮なら直さないな。
「…………」
考えるのをやめた。
昨日買った黒いパンツに、薄い青のトップスを着る。
そこまでやってから、さらに嫌なことに気づく。
これ、美琴に見せるのか。
千尋に勧められて、自分でも似合うと思って買った服。
昨日ならそれで終わった話だ。
でも美琴は違う。
俺が二年近く好きな女だ。
その相手に、自分が選んだ女物の服を着た姿を初めて見せることになる。
「……黒でよかったんじゃねえの」
着替えようかと思う。
でも、それも何か違う。
そもそも何を着ようが、女になっているという最大の問題は変わらない。
俺は諦めてソファへ座った。
スマホをテーブルへ置き、美琴へメッセージを送る。
『今いける』
間もなく着信。
通話。
俺は最初、映像を切ったまま応答した。
『もしもし?』
聞き慣れた声だった。
それだけで少し緊張する。
「もしもし」
沈黙。
『……え?』
予想通りだった。
「俺」
『え?』
「悠真」
『…………え?』
三回目。
声だけでは無理だ。
「だから説明しづらいって言っただろ」
『待って。その声、悠真?』
「そう」
『なんで?』
「それを今から説明する」
俺は息を吐いた。
黒田さんへの報告より緊張している。
仕事の上司には言えて。
親友にも言えて。
妹にも言えた。
なのに美琴にだけ言いづらい。
理由は分かっている。
美琴の中にいる俺は、男だった。
二人で食事をして。
酒も飲んで。
LINEをして。
何度か休日に出かけて。
俺はずっと、いつかもう少し先へ進めたらと思っていた。
その可能性がどれくらいあったのかは分からない。
少なくとも、完全な脈なしではないと思っていた。
――思いたかった。
それが今。
どうなるのか。
考えたくなかった。
『悠真?』
美琴の声で我に返る。
「ああ。いる」
『大丈夫?』
「身体は大丈夫」
『身体は、って何』
聞かれた。
もう逃げられない。
「……美琴」
『うん』
「たぶん信じないと思うけど」
一度言っているので、昨日よりは口にしやすい。
それでも相手が違うだけで、言葉が妙に重かった。
「俺、女になった」
沈黙。
黒田さんの時とほぼ同じだった。
ただ。
美琴の方が長かった。
『…………何て?』
「女になった」
『女?』
「うん」
『悠真が?』
「俺が」
『…………』
俺は額に手を当てる。
分かる。
普通はそうなる。
『ごめん。ちょっと待って』
「ああ」
『何かの病気ってこと?』
「病気って扱いなのかは分からん。転性現象ってやつ」
『転性……』
そこで美琴の声が変わった。
『あれ? ニュースでやってた?』
「それ」
『え、でもあれって……本当にあるの?』
「あるらしいぞ。俺も一昨日まで同じ感想だった」
『それが悠真に?』
「そう」
『いつ?』
「土曜の朝。起きたら」
『起きたら!?』
声が大きい。
「俺に言われても困る」
『いや、だって……』
美琴が言葉に詰まる。
それから、少し声の調子が変わった。
『病院は?』
「行った」
『ちゃんと?』
「総合病院で検査までした。身体は健康だって」
『戻るの?』
来た。
やっぱり最初に聞きたくなるのはそこなのだろう。
俺自身も、医者に最初に確認したかったことだ。
「……今のところ」
少し間を置いた。
「戻った人はいないって」
今度の沈黙は、さっきとは違った。
驚いているだけではない。
『……そっか』
「うん」
『ごめん』
「何で美琴が謝るんだよ」
『なんか……軽く聞いちゃったから』
「普通聞くだろ」
俺だって逆なら聞く。
しばらく会話が途切れた。
美琴は何かを考えているらしい。
俺も何を言えばいいか分からない。
このまま話を終わらせてもよかった。
説明はした。
体調が悪いわけではないことも伝えた。
それで十分なはずだった。
『……見てもいい?』
心臓が一つ、変な鳴り方をした。
「何を」
聞かなくても分かっているのに、聞き返した。
『今の悠真』
「…………」
『嫌だったらいいけど』
逃げ道まで用意された。
そこで断ることもできた。
今度会った時でいい。
まだ自分でも慣れていない。
そう言えば、美琴は無理に求めないだろう。
でも。
いつまでも隠しておけるものではない。
それに。
俺は少しだけ。
美琴が今の俺を見た時、どんな顔をするのか知りたかった。
「……笑うなよ」
『笑わないよ』
「絶対?」
『なんでそんな信用ないの』
「蓮も千尋も最初かなり笑ったから」
『それは悠真が普段からそういう扱いされてるからじゃない?』
「お前まで言う?」
少しだけ空気が戻った。
俺はカメラのボタンへ指を置く。
一瞬止めてから。
押した。
画面の端に、自分が映る。
短い黒髪。
薄い青の服。
切れ長の目。
二日前までの俺を知る人間からすれば、別人に見えるはずの姿。
美琴の映像も表示される。
自宅らしい。
淡い色の部屋着。
肩くらいまである髪。
画面を見たまま。
完全に止まっていた。
「…………」
『…………』
この沈黙には覚えがある。
「何か言えよ」
『え』
「いや、そんな固まられると俺も困るんだけど」
『ちょっと待って』
美琴がスマホへ顔を近づける。
画面いっぱいに顔が寄ってきた。
距離なんて実際には存在しない。
ただの映像だ。
なのに俺は反射的に少し身体を引いた。
『……悠真?』
「だからそうだって」
『ほんとに?』
「声まで変わってる奴がこんな嘘つくと思う?」
『いや、だって……』
美琴が俺の顔をじっと見る。
目。
鼻。
口元。
何度も視線が動く。
『あ』
「何」
『目、悠真だ』
またそこだった。
「みんなそれ言うな」
『あとその顔』
「どの顔」
『今の、ちょっと面倒くさそうな顔』
「本人確認雑すぎない?」
美琴が笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺の肩から少し力が抜けた。
笑われた。
でも、俺を笑ったわけではない。
いつもの会話で笑った。
それだけで、かなり救われる。
そして。
美琴がもう一度画面を見る。
今度はさっきよりゆっくり。
『……すごいね』
「何が」
『ほんとに女の子だ』
言われた。
分かっていた。
当たり前のことだ。
病院でも確認されたし、鏡なら昨日から何十回も見た。
なのに。
好きな女から言われると。
妙に胸の奥へ刺さった。
「まあな」
平気なふりをする。
『髪、切った?』
「ああ。昨日まで腰くらいあった」
『嘘』
「マジ」
『見たかった』
「絶対嫌だ」
『写真ないの?』
「千尋が撮ってるかもしれんけど見せない」
『えー』
普段と変わらない。
美琴はこういうところがある。
人の話を聞いて心配もするくせに、気になることがあればすぐ興味の方へ引っ張られる。
それが今はありがたかった。
重く扱われ続けるより、ずっと楽だ。
『ていうか』
美琴がまた画面を見た。
「何」
『綺麗だね』
「…………」
一瞬。
意味が理解できなかった。
『悠真、元々顔整ってたけど、その面影ちゃんとある』
「……そう?」
『うん。目元ちょっときついのもそのままだし』
「それ褒めてる?」
『褒めてる』
美琴が笑う。
『でも、思ってたよりずっと女の子だね』
「医者にも完全に女性って言われた」
『身長は?』
「…………」
『何、その間』
「百四十八」
『えっ』
「笑うなよ」
『ごめ――』
笑っている。
「おい」
『だって悠真、私より大きかったじゃん!』
「今は小せえよ!」
美琴は百六十センチ前後だ。
以前は俺の方が十六センチほど高かった。
今なら逆に、十二センチくらい俺の方が低い。
『私より小さいの?』
「数字聞いたろ」
『いや、分かってるけど、想像つかない』
「俺もまだつかないよ。人混みで前見えねえし」
『え、何それ』
「笑うな」
『ごめん。でも……』
美琴はまだ笑っている。
俺も少しだけ笑った。
こんな話をしていると、昨日までと何も変わっていないような気がする。
でも。
画面の中には。
以前よりずっと小さくなった俺と。
好きな女が並んでいる。
女同士にしか見えない二人。
それを意識した途端。
少しだけ気持ちが沈んだ。
俺は美琴が好きだ。
少なくとも。
二日前までは、その言葉に何の疑問もなかった。
今だって気持ち自体が消えたわけではない。
でも。
美琴から見た俺がどう変わったのかは分からない。
『悠真?』
「ん?」
『また考え込んでる』
「ちょっとな」
『やっぱりしんどい?』
「……分かんねえ」
この答えにも慣れてきた。
「身体が変わったのは分かる。でも、それで何が変わるのかがまだ全然分からない」
仕事。
家族。
友達。
生活。
そして。
恋愛。
最後の一つだけは言わなかった。
美琴は少し考える。
『今日、一人?』
「一人。会社も休み」
『千尋ちゃんは?』
「仕事」
『相沢くんは?』
「蓮も仕事だろ。昨日まで付き合わせたし」
『そっか』
また少し間があった。
それから美琴は、思ったより自然な調子で言った。
『じゃあ、今日行っていい?』
「……どこに」
『悠真んち』
理解するまで一秒かかった。
「今日?」
『うん』
「今から?」
『昼くらいになるけど』
「いや、でも」
思わず自分を見る。
服は着ている。
部屋も、一応昨日片づけた。
そこではない。
美琴が家へ来る。
それ自体は初めてではない。
以前にも何度かある。
二人で飯を食って、そのまま家で映画を見たこともある。
何も起きなかった。
俺としては何か起きてもよかったが、そこは言わない。
今までなら。
美琴が家へ来ると言えば、普通に嬉しかった。
今日も嬉しい。
なのに。
それとは別の緊張がある。
『駄目?』
「駄目じゃないけど」
『じゃあ行く』
決まった。
「行動早くね?」
『だって気になるし』
「何が」
『悠真』
心臓がまた妙な鳴り方をした。
しかし続いた言葉は。
『今の生活とか。困ってることあるでしょ』
「ああ……そっち」
『そっちって何?』
「何でもない」
危なかった。
何を期待した俺。
『女の人の生活って、千尋ちゃんに聞いてる?』
「昨日かなり教えてもらった」
『でも千尋ちゃん今日仕事なんでしょ?』
「そうだけど」
『じゃあ私も見れることあるかもしれないし』
女同士。
その言葉は出なかった。
でも。
意味としては、たぶんそれに近かった。
昨日までの俺なら、美琴が自分からそんな理由で家へ来ることはなかったと思う。
俺が男だったから。
今は女だから。
近づきやすくなった。
そのことを。
嬉しいと思えばいいのか。
傷つけばいいのか。
まだ分からなかった。
「……分かった」
俺は答えた。
「来るなら昼飯なんか買ってきて」
『病人に買わせる気?』
「病人じゃねえって」
『じゃあ悠真が用意して』
「休養中なんだけど」
『都合いい時だけ病人になるじゃん』
「昨日女になったばっかなんで」
『それ強いね』
「今週は使う」
美琴が笑った。
『じゃあ何か買ってく。十二時半くらいでいい?』
「ああ」
『分かった。また後でね』
「おう」
通話が切れた。
画面が暗くなる。
俺はそのまま、しばらくスマホを持っていた。
言えた。
とりあえず。
一番言いたくなかった相手に。
女になった、と。
美琴は驚いた。
笑った。
心配した。
それでも。
電話の向こうでは、ほとんどいつもの美琴だった。
よかった。
そう思う。
本当に。
よかったはずなのに。
『ほんとに女の子だ』
『綺麗だね』
『今の生活とか。困ってることあるでしょ』
さっきの言葉が、妙に頭に残る。
男だった俺に向けられていた距離と。
女になった俺に向けられる距離。
まだ何も起きていない。
美琴だって、たぶん何も考えていない。
変わったばかりの友人を心配しているだけだ。
分かっている。
それなのに。
「……今から来るのか」
独り言が漏れる。
時計を見る。
午前九時四十七分。
あと三時間弱。
俺は部屋を見回した。
昨日までなら、美琴が来るとなれば普通に片づけていた。
今日もそれは同じだ。
なのに。
何となく洗面所へ向かう。
鏡を見る。
ショートボブ。
薄い青の服。
顔は大丈夫。
髪も。
そこで。
俺は自分が何を確認しているのかに気づいた。
「……アホか」
好きな女が来るから、身だしなみを気にしている。
そこは昨日までと同じ。
ただ。
鏡の中にいるのは。
その好きな女と同じ性別になった俺だった。
その事実だけが。
どうにもまだ。
頭の中でうまく噛み合っていなかった。




