女同士だからって、距離近くない?
十二時二十二分。
俺はリビングで、意味もなく時計を見ていた。
あと八分。
美琴が来る。
それだけなのに、朝から落ち着かない。
部屋は片づけた。洗い物も済ませ、病院の書類や昨日買った服の袋も端へ寄せた。
美琴が家へ来るのは初めてではない。飯を食ったことも、酒を飲んだことも、映画を見ながらソファに座ったこともある。
それでも、今回は妙にそわそわしていた。
たぶん、今の俺を直接見るのが初めてだからだ。
ビデオ通話では見せた。驚かれたし、綺麗だとも言われた。身長を教えたら笑われた。
だが、画面越しならどこか他人事にできる。
百四十八センチになった俺が、美琴の前に立つ。
俺より小さかった美琴を、今度は俺が見上げる。
声も、身体も、髪も。
画面では伝わらなかったものまで、嫌でも分かる。
なんとなく自分の服を見る。
薄い青のトップス。昨日、自分で似合うと思って買ったものだ。
別に美琴のためではない。
本当に。
インターホンが鳴った。
「うおっ」
肩が跳ねる。
時計は十二時二十九分。美琴は昔から、こういうところだけ妙に正確だ。
「はい」
『着いたよー』
「今開ける」
オートロックを解除し、なぜか髪を触る。
別に乱れていない。
「……だから何で気にしてんだよ」
好きな女が来る。少し緊張する。
それだけだ。
玄関のチャイムが鳴った。
今度こそ、来た。
*
ドアを開ける。
「お待た――」
途中で止まった。
美琴も止まった。
白っぽいシャツに細身のデニム。肩にバッグを掛け、片手には駅前の惣菜店らしい紙袋を持っている。
見慣れた姿だった。
ただ、今の俺から見ると。
「……やっぱでけえな」
「第一声それ!?」
「いや、お前もっと小さかっただろ」
「悠真が縮んだんでしょ!」
「そうだけど、感覚として」
「私、何も変わってないからね?」
美琴が俺の顔から足元まで視線を下げ、また顔を見る。
「……画面で見るのと全然違う」
「朝も本人確認しただろ」
「したけど」
美琴が一歩近づく。
俺はさらに見上げる形になった。
「……近い近い」
「だって気になるじゃん」
美琴は俺の顔をじっと見た。
「やっぱり目は悠真なんだよね」
「そこは変わってないっぽい」
「眉も。その嫌そうな顔も」
「お前ら本当にそこ好きだな」
美琴が笑う。
俺もつられて笑った。
「あ、笑うともっと悠真だ」
「千尋にも言われた」
「ほんとだ。不思議」
美琴はまだ俺を見ている。
「いつまで観察してんだよ」
「ごめんごめん」
ようやく視線を外したと思ったら、今度は俺の髪を見る。
「髪、ほんとに切ったんだ。すごい似合う」
「朝も聞いた」
「実物の方がいい」
何でもないように言われ、俺だけが返事に困った。
好きな女から褒められるのは嬉しい。
ただ、今褒められているのは、女になった俺の髪型だ。
「……とりあえず入れよ」
「うん。お腹空いた」
紙袋を受け取ろうとすると、美琴が止めた。
「あ、いいよ。休養中でしょ」
「元気だって」
「昨日一日で疲れたって言ってたじゃん」
「黒田さんから聞いたのかよ」
「今朝、悠真が言った」
「ああ、そうだった」
「大丈夫?」
「記憶は元からこんなもんだ」
「それなら安心した」
「安心すんな」
いつもの会話だ。
話している分には、美琴は美琴だ。
俺も俺。
そう思えた。
この時までは。
*
リビングへ入ると、美琴が買い物袋の山を見た。
「昨日買ったやつ?」
「ああ。服とか靴とか。持ってたもの、全部サイズ合わなくなったからな」
「靴も?」
「二十七から二十二・五」
「ちっちゃ」
「千尋と同じこと言うな」
「いや、でも二十二・五って聞いたら言うでしょ」
「言わない優しさを覚えてくれ」
美琴は笑いながらソファへ座り、隣を軽く叩いた。
「悠真、ここ」
「…………」
「何?」
「いや」
俺もその隣へ座る。
一人分くらいは空いているが、以前より明らかに近い。
美琴は気にせず、紙袋から惣菜を出していく。
「お昼、何食べられるか分かんなかったから、何種類か買ってきた」
「身体変わったからって食性までは変わってねえよ」
「分かんないじゃん」
「昨日普通に食った。量はちょっと減ったけど」
「ほら」
「身体が小さくなったからだろ」
サンドイッチ、サラダ、キッシュ、スープ。それにプリンまで出てきた。
「買いすぎじゃない?」
「余ったら夜食べればいいでしょ」
「助かる。プリン最高」
「そこは変わってないんだ」
「性別でプリンの好み変わるかよ」
また笑う。
こんな時間が続くなら、案外何も変わらないのかもしれない。
そう思った。
*
昼飯を食べながら、病院で聞いたことを説明した。
転性現象であること。過去にも症例があること。今のところ元に戻った例はないこと。公的手続きの書類があること。会社にも報告したこと。
美琴は朝の電話で大半を聞いていたが、身体のことだけは改めて確認した。
「身体は本当に健康なの?」
「検査上はな。薬も今のところない」
「そっか」
美琴は安心したように息を吐いた。
「でも、全部女性になったってことなんだよね」
「医者にはそう言われた。身体の機能も全部」
「……すごいね」
「ほんとな」
それ以上は深く聞いてこなかった。ありがたい。俺自身、まだ全部を説明したいわけではない。
「困ってることは?」
「いっぱいある。身長、歩幅、靴、服、髪、声。高いところに届かないし、人混みで前も見えない」
「最後の方ちょっと面白い」
「本人は切実なんだよ」
「ごめん」
「あと力も落ちた。蓮を蹴っても全然効かなかった」
「何で蹴ったの?」
「色々あった」
「雑」
「昨日まで持てたものが重いんだよ」
家の中は、百七十六センチの男だった俺に合わせてある。食器棚も、収納も、洗面所の棚も高い。
「高いところ取る時どうしてるの?」
「椅子」
「危ないよ。脚立買いなよ」
「買うもの増やすな」
「必要経費」
「千尋と同じこと言ってる……」
*
食事の片づけを始める。
美琴が皿を運び、俺が洗う。美琴は俺が何も言う前に、食器を食器棚の下段へ移し始めた。
「そこ届かないでしょ」
「届く」
俺は手を伸ばした。
届かない。
「笑うなよ」
「ごめん。でもほんとに小さくなったんだなって」
「俺は昨日から毎分思ってる」
「じゃあ、よく使うものだけ下に移そうよ」
「今度やる」
「今やろう。私がやるし」
美琴は勝手知ったるように収納を整理していく。
「これ下に移していい?」
「いいよ」
「こっちは?」
「そこは使う」
少しずつ、俺がよく使うものが下へ移されていく。
便利なのは分かる。
それでも、自分の家が今の身体に合わせて変わるのを見ると、元の自分が遠くなる気がした。
「……変な感じだな」
美琴が手を止める。
「嫌だった?」
「いや、便利。ただ、昨日まで普通に使えてた家なのになって」
美琴は少し考えた。
「じゃあ、よく使うところだけにしよう。戻したくなったら戻せるように」
髪は伸びる。服はしまえる。棚も戻せる。
身体は、今のところ戻った人がいない。
「……そうする」
「じゃあ、これはここね」
その言い方が妙にありがたかった。
*
片づけが終わり、ソファへ戻る。
少し疲れた俺に、美琴が声をかけた。
「大丈夫?」
「ああ。ちょっと疲れただけ」
「無理しないでよ」
「分かってるって」
美琴が隣へ座る。
やっぱり近い。
肩との間は拳一つ分ほどしかない。
美琴はスマホを取り出し、昨日俺が送った写真を見た。
「これ、美容院の後?」
「そう。千尋が撮った」
「やっぱり実物の方がいいね」
「まだ言う?」
「だってほんとだし」
俺が少し横へずれると、美琴も同じだけ寄った。
「……おい」
「何?」
「いや」
何と言えばいい。
美琴は以前から、女友達とはこのくらいの距離で座る人だったのかもしれない。
俺が男だったから、今までは少し離れていただけで。
そう考えると、胸の奥がざらついた。
「悠真、手、見せて」
「何で」
「比べたい」
美琴が手を差し出す。
「子供かよ」
言いながら、俺も手を出した。
掌を合わせる。
以前なら俺の方が明らかに大きかった。
今は。
「……私の方が大きい」
「マジか」
「変な感じ」
「俺の台詞だよ」
美琴が手を離す。
たったそれだけなのに、掌に体温が残った。
昨日までとは、距離が違う。
*
「ねえ。触っていい?」
「どこを」
「髪」
「ああ」
美琴が俺の髪へ指を伸ばし、毛先を軽く持ち上げる。
「すごいさらさら」
「美容院行ったばっかだからじゃね?」
「それだけじゃないと思う」
指が耳の横から後ろへ滑り、首筋へ近づいた。
身体が小さく反応する。
「今、びくってした?」
「してねえ」
「したよ。ここ?」
「おい」
もう一度伸びてきた手を、俺は掴んで止めた。
「やめろ」
「くすぐったい?」
「知らん。昨日からの身体なんだから、知らねえこといっぱいあるんだよ!」
思ったより必死な声が出た。
美琴が目を丸くする。
「……ごめん」
「いや、俺もびっくりしてる」
手を離すと、美琴は少し笑った。
「なんか可愛い」
「それ言うな」
「何で?」
「似合わねえだろ」
「今は似合うよ」
さらっと言われ、返事に詰まる。
「そういうの慣れてねえんだって」
「可愛いって言われるの?」
「当たり前だろ」
美琴は楽しそうだった。
腹立つ。
でも、悪い気はしない自分がもっと腹立つ。
*
しばらくして、美琴が立ち上がった。
「トイレ借りるね」
「ああ」
美琴が廊下へ向かう背中を見送りながら、俺は気づいた。
今日、美琴は一度も警戒していない。
以前から信用されてはいた。二人きりで家に来るくらいだ。
でも、何かが違う。
ソファで座る距離。
顔を覗き込む距離。
手を重ねること。
髪へ触れること。
美琴からすれば、女友達へするのと同じ程度なのだろう。
俺は美琴が好きだった。
今も好きだ。
だから近いのは嬉しい。
でも、欲しかった近さは、こういうものだっただろうか。
男だった俺が欲しかった距離に、女になったことで入れてしまった。
ずるをしたみたいでもあり、最初から別の場所へ案内されたみたいでもあった。
*
美琴が戻ってくる。
「どうしたの? また難しい顔してる」
「元からこういう顔だよ」
「それ、さっきも言ってた」
美琴が隣へ座る。
俺は少し迷ってから聞いた。
「美琴。今日、距離近くない?」
「距離?」
「物理的に。前はもっと離れてただろ」
美琴が俺との間を見る。
「ああ。悠真、男だったもんね」
胸の奥が少し詰まった。
「……だったな」
「ごめん。嫌だった?」
「嫌っていうか、慣れねえ」
美琴は困ったように笑った。
「私もまだ慣れてないんだよね。悠真が女の子になったこと」
「そりゃそうだろ」
「でも見た目が普通に女の子だから」
美琴はまた距離を見る。
「女同士なら、このくらい普通かなって」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
女同士。
今の俺と美琴は、確かにそうだ。
「嫌なら離れるけど」
美琴が身体を動かそうとする。
「いや」
反射的に止めた。
「別に、嫌じゃない」
好きな女が近くにいるのだから、嫌なわけがない。
美琴は一瞬俺を見て、笑った。
「じゃあいいじゃん」
そのまま、距離は戻らなかった。
俺も離れなかった。
*
夕方近く、美琴が帰る支度を始めた。
「明日も休み?」
「たぶんリモートで少し復帰する。夕方に黒田さんと話すけど」
「無理しないでね」
「分かってる」
「分かってない人が言うやつ」
「黒田さんにも言われた」
「じゃあ二票」
「多数決やめろ」
玄関まで送る。
美琴が靴を履いて立ち上がると、やはり俺より高かった。
「……まだ変」
「何が?」
「お前を見上げるの」
「私はちょっと新鮮」
「楽しむな」
美琴は笑いながら、俺の頭に手を置いた。
「ほんとに小さい」
「お前」
「ごめんごめん」
俺が手を払うと、美琴はまた笑った。
「じゃあ、また連絡する。困ったことがあったら言ってね」
「千尋にも言われてる」
「じゃあ二人いるから安心じゃん」
「女の生活サポートが二人体制になった」
「何それ」
ドアを開けた美琴が、廊下で一度振り返る。
「悠真。今日会えてよかった」
思っていなかった言葉だった。
「……俺も」
「じゃあね」
「ああ。また」
ドアが閉まり、足音が遠ざかっていく。
俺はしばらく玄関に立っていた。
さっきまで美琴がいた。
昨日までと同じように話し、笑い、飯を食った。
それなのに、何かが確実に違った。
リビングへ戻り、ソファへ座る。
さっきまで美琴がいた場所。俺との間は、拳一つ分くらいだった。
「……女同士、ね」
声に出してみる。
嫌ではない。
むしろ嬉しい。
美琴が近かった。
髪へ触れられ、手も重ねた。
男だった頃なら、一つ一つに意味を探していたはずだ。
脈があるのか。
異性として意識されているのか。
今日は違う。
全部、『女同士だから』で説明できてしまう。
俺が欲しかった距離より近いのに、欲しかった意味はない。
「……なんだそれ」
笑おうとして、うまく笑えなかった。
首元に手をやる。
さっき美琴の指が近づいた場所。もう何も残っていないはずなのに、妙に意識に残っていた。
これは身体が変わったせいだ。
昨日から敏感になっているだけ。
美琴だからじゃない。
そう思いながら、今度は掌を見る。
重ねた手。
美琴の方が少しだけ大きかった。
「……めんどくせえな」
二日前、俺は美琴ともう少し近くなりたいと思っていた。
今日、実際に近くなった。
なのに、こんな形で近くなりたかったわけじゃない。
女になって三日目。
初めて、身体だけではなく、人との距離まで変わり始めたことを。
俺は少しだけ実感した。




