上司に「女になりました」と報告する方法が分からない
日曜の夜。
風呂から上がって、俺は洗面所の鏡を見ながらしばらく立ち尽くしていた。
「……楽だ」
頭を左右に振る。
短くなった髪が軽く揺れる。
昨日まで――正確には昨日の朝から今日の昼まで――腰近くまであった髪とは比べものにならない。洗うのも早いし、乾かすのも圧倒的に楽だった。
千尋からは、
『根元からちゃんと乾かして』
『濡れたまま寝ない』
『朝、跳ねてたら水で一回直す』
と散々言われた。
そんなに違うのかと思ったが、ドライヤーを使ってみると、確かに男だった頃より少し気を使う。
とはいえ。
「長髪より百倍マシだな」
鏡に向かって言う。
切れ長の目。
顎のあたりで揃った黒髪。
小柄な女。
昨日の朝とはもうかなり印象が違う。
知らない女が鏡の中にいる、という感覚もまだ残ってはいる。
ただ、髪を切ったせいなのか、自分で選んだ服を着ているせいなのか、少なくとも「誰だこいつ」から「俺なんだよな、これ」くらいまでは進んでいた。
大きな進歩なのかもしれない。
たった二日でそこまで順応していいのか、という気もするが。
考えても仕方がない。
俺は洗面所を出て、リビングへ戻った。
テーブルの上にはノートパソコンが置いてある。
会社支給のものだ。
そして、その横にはスマホ。
画面には一件のメッセージが表示されている。
黒田課長。
『体調どうだ。明日について、今夜か明朝に一度連絡くれ』
「…………」
見なかったことにしたい。
非常に見なかったことにしたい。
でも無理だ。
昨日は土曜だった。
病院へ行く前、会社には「体調不良で月曜の出社が難しいかもしれない」とだけ連絡してある。
俺の会社は比較的リモート勤務に融通が利く。
開発寄りのWebディレクターという仕事柄、会議さえどうにかなれば家からでもある程度は仕事ができる。
だから昨日の時点なら、「熱が出ました」とでも言って数日休むことはできた。
問題は。
俺の身体が、数日寝たら治る種類のものではないことだ。
病院では戻った事例がないとまで言われた。
つまり。
いつかは言わなければならない。
会社に。
「女になりました」と。
「……どう報告すんだよ」
思わず頭を抱える。
報告の仕方が分からない。
仕事で問題が起きた時なら分かる。
障害が起きました。
納期が遅れます。
仕様に認識齟齬がありました。
客先と調整が必要です。
そういうものなら、事実と影響範囲と対策を整理すればいい。
でも。
身体が女になりました。
この報告に、テンプレートはない。
病院でもらった書類一式をテーブルへ置く。
診断結果。
転性現象についての説明資料。
そして、正式な手続きを進めるための案内。
医療機関から発行されることになる転性現象確認書についても説明されている。
証拠はある。
あるのだが。
証拠があるから報告しやすいかと言えば、まったくそんなことはなかった。
「メール……」
考える。
件名。
【ご報告】身体が女性になった件について。
「絶対ふざけてると思われる」
却下。
電話。
声を聞いた瞬間、まず誰だと言われる。
オンライン会議。
顔を見せれば話は早い。
ただし俺の精神が死ぬ。
「…………」
三択全部嫌だった。
スマホを手に取る。
蓮に相談しようかと思って。
やめた。
昨日一日付き合わせた。
今日は連絡も何度か来たが、さすがに何でもかんでも頼るのは違う。
千尋も帰った。
そもそも、上司への報告くらい二十六歳の社会人が自分でしろという話だ。
俺は黒田課長とのトーク画面を開いた。
『今から少しお時間いただけますか』
入力。
消す。
もう一度入力。
『今からオンラインで少しお話できますか』
これならいい。
送信。
五秒。
既読。
早い。
『大丈夫。いつもの会議URLで』
逃げ道が消えた。
「…………早えよ」
*
ノートパソコンを開く。
会社のチャットツールへログインし、いつも使っているオンライン会議のURLを開いた。
自分のプレビュー画面が映る。
そこで。
俺は固まった。
「……そうか」
他人に画面越しで見られる場合、自分も自分を見ることになる。
ショートボブ。
薄いグレーの部屋着。
顔だけ見れば二十二、三歳くらいの女。
どう見ても、会社員四年目の香坂悠真には見えない。
いや。
顔には面影がある。
千尋も蓮も分かった。
ただ、何も知らない人がいきなりこれを見て「香坂だ」と思えるかは別問題だ。
俺はカメラをオフにした。
まず声だけで話そう。
――いや。
声も違う。
「詰んでるな」
仕方ない。
参加ボタンを押す。
数秒後。
黒田課長が入ってきた。
四十一歳。
営業でもエンジニアでもないが、両方の話をある程度理解できるタイプの上司で、無駄に大声を出さない。
トラブルが起きても、最初に「誰が悪い」ではなく「何が起きた」を確認する人だ。
俺が今の部署へ異動してから二年ほど世話になっている。
『香坂?』
スピーカーから声がする。
「はい」
一拍。
『……香坂?』
「はい」
分かる。
その反応は正しい。
「すみません。声も変わってます」
『声も?』
さすがに引っかかったらしい。
俺は額を押さえた。
どう説明してもおかしい。
なら、もう最短で言うしかない。
「……黒田さん」
『うん』
「ちょっと、信じてもらえないと思うんですけど」
『うん』
「身体が、女性になりました」
沈黙。
かなり長い。
画面の向こうで黒田さんが瞬きを一度した。
『……すまん』
「はい」
『ちょっと意味が分からない』
「俺もです」
即答した。
『病気?』
「一応、病院には行きました」
『事故とかではなく?』
「違います」
『……女性になったっていうのは』
黒田さんが言葉を探している。
当然だ。
俺だって二日前の自分から同じ報告を受けたら、意味が分からない。
「そのままです。身体全部、女性になったみたいです」
自分で口にすると、改めてとんでもない報告だった。
「転性現象っていうらしくて、過去にも症例はあるそうです」
『ああ……』
そこで黒田さんの表情が少し変わった。
『ニュースで聞いたことあるな』
「俺もありました」
他人事として。
一生自分には関係ない話として。
『それが香坂に起きた?』
「はい」
『……マジで?』
「マジです」
黒田さんが椅子の背もたれへ身体を預けた。
五秒ほど天井を見る。
それから、また画面へ視線を戻す。
『カメラ、出せる?』
来た。
「……やっぱり必要ですよね」
『いや、無理ならいい。ただ、今の話だけだと、俺もどう受け取っていいか分からん』
「ですよね」
俺は観念した。
カメラのボタンを押す。
画面の隅に、自分の顔が現れる。
黒田さんが。
止まった。
「…………」
『…………』
俺も何も言わない。
黒田さんの目が、画面の中の俺を確認している。
髪。
顔。
目元。
そしてまた顔。
『……誰?』
「香坂です」
『いや』
黒田さんが一度目を閉じる。
『分かってる。分かってるんだけど』
「俺も昨日からその状態です」
黒田さんがしばらく黙る。
それから画面へ顔を少し近づけた。
『目元は……確かに香坂っぽいな』
「妹にも言われました」
『あとその不機嫌そうな顔』
「みんなそこ言うんですよ」
『本人だな』
「判断基準ひどくないですか」
思わずいつもの調子で返した。
黒田さんが少し笑った。
その瞬間、ようやく空気が少しだけ緩む。
『病院には行ったんだな?』
声の調子も変わった。
驚いている上司から、普段の黒田さんへ戻っていく。
「昨日、総合病院で一通り検査してもらいました。健康上は問題ないそうです」
『体調は?』
「今のところは大丈夫です。身体の感覚が全然違うんで、慣れてないだけで」
『薬とか治療は?』
「ないです。というか、戻す方法自体が今のところないらしくて」
口にした途端。
少し空気が重くなった。
黒田さんはすぐに何かを言わなかった。
「戻った症例も、確認されてないそうです」
『……そうか』
「はい」
『それは、きついな』
短い言葉だった。
励ましでもない。
大丈夫だとも言わない。
でも。
妙にありがたかった。
「まだ実感ないですけどね」
『そりゃ二日じゃ無理だろ』
「そうなんですよ」
自分以外の人間からそう言われると、少し安心する。
千尋も似たようなことを言っていた。
俺がおかしいわけではない。
二日で処理できる方がおかしい。
*
「それで」
俺は姿勢を少し直した。
ここからは仕事の話だ。
「明日なんですけど」
『休め』
即答された。
「いや、でも午前の定例――」
『休め』
「午後のクライアント会議が」
『俺が出る』
「資料、途中ですけど」
『今日中に場所だけ教えろ。中身は俺と佐々木で見る』
「でも」
『香坂』
黒田さんの声が少し低くなる。
怒っているわけではない。
仕事の時の声だ。
『昨日、身体全部変わったんだろ』
「……はい」
『その状態で月曜から普通に出てきた方が怖い』
「それはそうですけど」
『健康上問題ないのと、仕事できる状態かどうかは別だ』
言われて。
返せなくなった。
確かにその通りだった。
今日は買い物をしただけでかなり疲れた。
人混みを歩くのも。
服を選ぶのも。
知らない店へ入るのも。
全部、昨日までなら何でもなかったことなのに妙に消耗した。
明日一日働けるかと聞かれると。
正直、分からない。
「……じゃあ、一日だけ」
『一日と言わず、必要なら何日でもいい』
「それは困ります」
『何でお前が会社側みたいなこと言うんだ』
「案件止まるんで」
『止めないのが俺の仕事』
ぐうの音も出ない。
「分かりました」
『まず明日は休み。火曜以降はまた明日の夕方話そう』
「はい」
『出社もしばらくしなくていい。リモートでできることから戻せばいい』
「助かります」
『で』
黒田さんが少し考える。
『会社側の手続きが必要だな』
「ですよね」
来た。
俺が避けていた問題。
「保険証とか、社員情報とか、どうなるんですかね」
『俺も知らん』
「ですよね」
『人事に確認する。ただし、勝手に詳細を広げることはしない』
俺は少し顔を上げた。
『必要な担当者だけに事情を伝える。どこまで共有していいかは、先に香坂と確認する』
「……ありがとうございます」
『当然だろ』
さらっと言う。
その「当然」がありがたい。
『戸籍とか公的書類は?』
「これからです。病院から手続きの説明は受けてて、転性現象確認書っていうのが出るらしいです」
『じゃあ、それが出たら人事に回せるようにしよう。社員証の写真とかも変える必要あるな』
「あ」
思わず声が出た。
『何』
「社員証……」
今の社員証。
当然、男だった頃の俺の写真だ。
短い黒髪。
今より二十八センチ高い身体。
スーツ姿。
当時は何とも思っていなかった顔。
「使えないですよね」
『別人だからな』
「本人なんですけど」
『見た目は完全に別人だ』
「ですよね……」
今日、千尋に撮られた写真を思い出す。
まさか、あれが早速役に立つとは。
『あとトイレ』
「……ああ」
完全に忘れていた。
『出社するならそこも人事と確認しないとな』
「女子トイレ……」
自分で口にして、妙な気分になる。
法律上とか会社規則とか。
そういう話以前に。
俺自身がまだ、女子トイレへ普通に入れる気がしない。
『更衣室は使わないとして、健康診断も扱い変わるだろうし、出張の宿泊もある』
「…………」
『何』
「急に面倒になってきました」
黒田さんが少し笑う。
『さっきからずっと面倒な話しかしてないだろ』
「仕事だけなら何とかなる気がしてたんですけど」
『仕事以外が多いから会社なんだよ』
嫌な名言だった。
でも正しい。
*
『あと一つ』
黒田さんが言った。
「はい」
『社内で何て呼ばれたい?』
意味が分からず、少し考える。
『名前。香坂のままでいいのかとか』
「ああ」
俺は拍子抜けした。
そんなことか。
「普通に香坂でいいです」
『悠真も?』
「変える必要あります?」
『本人がいいならない』
「じゃあそのままで」
考えるまでもなかった。
身体は変わった。
名前まで変える理由はない。
俺は香坂悠真だ。
昨日までも。
今日も。
『分かった』
課長はメモを取る。
『呼び方も今まで通りでいい?』
「はい」
『扱いについて何か希望あるか?』
「扱い?」
『仕事上とか。周りにどう接してほしいとか』
そこで初めて。
俺は少し考えた。
女として扱ってほしい。
男として扱ってほしい。
どちらも何か違う。
身体は女性になった。
だから現実的に配慮が必要なところはある。
でも。
仕事まで別人になったわけではない。
「……仕事は」
自然と答えが出た。
「できれば今まで通りでお願いします」
黒田さんが頷く。
『了解』
あっさりしていた。
『じゃあ復帰したら、資料遅れてたら普通に詰める』
「そこは少し優しくしてもらっても」
『今まで通りがいいって言ったろ』
「早速後悔してます」
『知らん』
俺は笑った。
黒田さんも少しだけ笑う。
それだけのやり取りなのに、妙に安心した。
昨日から。
何もかも変わった。
歩く速度も。
服も。
靴も。
髪も。
鏡に映る自分も。
知らない人から向けられる視線も。
これから会社へ戻れば、そこでもきっと色々変わる。
でも。
全部が変わらなくてもいい。
仕事でミスをすれば怒られる。
期限があれば守る。
会議があれば出る。
俺が女になったところで、案件の納期まで性別を変えてくれるわけではない。
それは少し嫌で。
同時に。
かなりありがたかった。
*
『じゃあ、今日はもう仕事見るなよ』
会議の最後に黒田さんが言った。
「資料の場所だけ送ります」
『それだけ』
「チャット確認は?」
『しなくていい』
「メール」
『見るな』
「厳しいな」
『休むのが下手すぎるんだよ、お前』
言われた。
「じゃあ明日の夕方、連絡します」
『俺からする。体調悪かったら返さなくていい』
「分かりました」
『あと』
「はい?」
黒田さんが一瞬だけ言いづらそうな顔をした。
『……大変だと思うけど、一人でどうにかしようとするなよ』
予想していなかった言葉だった。
俺は少し黙る。
『会社でできることは会社にやらせろ。こっちも初めてだから、すぐ完璧にはできんけど』
「……はい」
『じゃあ、お大事に』
「ありがとうございます」
通話が切れた。
画面から黒田さんの顔が消える。
残ったのは、自分のプレビューだけだった。
ショートボブの女。
さっきまで会社の上司と仕事の話をしていた。
俺だ。
当たり前なのに。
その事実が少し嬉しかった。
*
約束通り、資料の保存場所だけチャットで送る。
『確認した。今日はもう閉じろ』
即座に返ってきた。
「監視されてんのかよ」
苦笑して、ノートパソコンを閉じる。
そしてソファにもたれた。
疲れた。
買い物より疲れたかもしれない。
上司に、
身体が女性になりました。
そう報告する人生があるとは思わなかった。
スマホを手に取る。
通知が一件。
蓮からだった。
『髪どうなった?』
そういえば、まだ見せていない。
俺は少し迷ってから、今日千尋に撮られた写真を開いた。
短い髪。
不機嫌そうな顔。
確かに俺っぽい。
これを送ればいい。
そう思って。
指が止まった。
「…………」
何で止まった?
昨日までなら、自分の写真を親友に送ることなんて何も考えなかった。
変な顔だろうが寝起きだろうが関係ない。
それなのに。
今は。
写真の中にいるのが女だからだろうか。
いや。
蓮が今の俺を見て、どう思うか。
それを少しだけ気にした。
「……何考えてんだ俺」
馬鹿らしい。
写真を送る。
『こうなった』
数秒後。
既読。
返事は来ない。
十秒。
二十秒。
「遅えな」
昨日ならすぐ返してきたのに。
三十秒ほど経って。
ようやくメッセージが届いた。
『似合ってる』
それだけだった。
「…………」
普通の返事だ。
千尋にも美容師にも言われた。
何も特別な言葉ではない。
なのに。
なぜか少しだけ。
顔が熱くなった。
「……何だよ」
誰もいない部屋で呟く。
続けて通知。
『ていうかマジで悠真だな』
今度は普通に笑った。
『だろ』
返す。
さらに。
『明日、会社どうすんの?』
『休みになった』
『課長に言えた?』
『言った。「女になりました」って』
『草』
『殺すぞ』
いつものやり取り。
昨日までと変わらない。
少なくとも。
画面の中では。
俺はスマホをソファへ置いた。
今日は髪を切った。
服を買った。
会社にも話した。
一つずつ。
今の身体で生きるためのものが揃っていく。
明日は休み。
その次にどうなるかは、まだ分からない。
会社に戻ったら。
同僚はどう見るのか。
取引先にはどう説明するのか。
美琴には――。
そこまで考えて。
俺は止まった。
「…………美琴」
まだ言っていない。
スマホをもう一度手に取る。
トーク一覧。
水瀬美琴。
昨日届いたメッセージが、そのまま残っている。
『体調大丈夫?』
俺はまだ、
『ちょっと変なことになってるけど大丈夫』
としか返していなかった。
変なこと。
そんな言葉で済む状況ではない。
言わなければならない。
女になった、と。
蓮より。
千尋より。
黒田さんより。
なぜだろう。
その相手に言うのが。
一番嫌だった。
俺が二年近く好きだった女に。
自分が女になったことを伝える。
「……難易度高すぎるだろ」
今日だけで何度そう思ったか分からない。
スマホを伏せる。
今日はもう無理だ。
明日。
明日考える。
そう決めて。
俺はソファへ身体を沈めた。
女になって三日目を迎える前に。
まだ一つ。
どうしても越えたくない壁が残っていた。




