髪を切ったら、少しだけ俺に戻った
美容院の前まで来たところで、俺は足を止めた。
店の中には大きな鏡が並び、その前で何人もの客が髪を切ってもらっている。受付の近くには女性客が二人座っていて、壁にはモデルらしき女性の写真が何枚も飾られていた。
さっきまでいた服屋や下着の店ほどではない。
美容院には男だった頃から普通に行っていたし、髪を切ること自体に抵抗なんてない。
それでも。
「……ここ?」
「ここ」
千尋がスマホの予約画面を確認する。
「私がたまに来てるとこ。女性のお客さん多いけど、別に男性もいるよ」
「それは見れば分かる」
奥の席には男の客もいる。
俺が引っかかっているのはそこではない。
ガラスに映った自分を見る。
腰近くまである長い黒髪。
昨日の朝、目を覚ました時からずっと俺にまとわりついていたものだ。
切りたい。
邪魔だ。
何度そう思ったか分からない。
なのに、いざ店の前まで来ると妙な感覚があった。
「どうしたの?」
「いや……」
俺は自分の髪を一房つまむ。
「これ切ったら、本当に今の顔になるなと思って」
「今も今の顔だけど」
「そうなんだけどさ」
長い髪は、明らかに俺らしくない。
だからこそ今まで、鏡を見るたびに「知らない女がいる」と思えた。
これを自分の意思で短くして、自分が楽な形へ整える。
そうしたら。
昨日突然与えられた姿ではなく。
少しだけ、自分で選んだ姿になる。
その違いが、思っていたより大きい気がした。
千尋はしばらく俺を見てから、
「じゃあ、ちゃんと決めよう」
と言った。
「何を」
「どんな髪にするか。『邪魔だから短く』だけじゃなくて」
「それでよくない?」
「よくない」
即答された。
「せっかくなら兄ちゃんが自分で選んだ方がいいじゃん」
俺はもう一度ガラスを見る。
なるほど。
そういう考え方もあるのかもしれない。
「……分かった」
「じゃ、入ろ」
「おう」
今度は止まらず、千尋について店へ入った。
*
受付で名前を伝える。
「香坂悠真です」
自分で名乗る。
それだけなのに、受付の女性が自然に予約を確認し、
「香坂様ですね。お待ちしておりました」
と笑顔を向けてくる。
昨日から何度も経験している。
今の俺を見ても誰も驚かない。
名前が悠真でも、少し珍しい女性名だと思われるだけなのだろう。
事情を知らない相手にとっては、最初から俺はこの姿だ。
「こちらへどうぞ」
案内されて椅子に座る。
鏡の前。
自分の全身が映る。
床まで足が届かない。
「…………」
またか。
昨日までは美容院の椅子でこんなことを意識した覚えはない。
足置きには届くが、椅子の高さそのものが妙に大きく感じる。
横から千尋が気づいたらしい。
笑いそうな顔になった。
「言うなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「ちっちゃ――」
「言うな!」
美容師がやってきたところで、千尋が口を閉じる。
三十歳前後だろうか。落ち着いた雰囲気の女性で、俺の髪を見るなり少し驚いたような顔をした。
「今日はかなり切られる予定ですか?」
「はい」
俺は即答した。
「かなり」
「どのくらいまでご希望です?」
「邪魔にならないくらい」
隣から千尋の声が飛んできた。
「それだと美容師さん困るから」
「じゃあお前説明して」
「兄ちゃんの髪でしょ」
正論だった。
美容師が笑う。
「今の長さだと、かなり選べますよ。ショートまで切ってもいいですし、最初はボブくらい残すこともできます」
「ショートボブってできます?」
千尋が聞いた。
「もちろんです」
美容師が俺の髪を持ち上げ、顔の横へ少しだけ折り返すようにして長さを確認する。
「お顔立ちがはっきりしているので、かなり似合うと思います」
「ほら」
千尋が得意そうに言う。
「何でお前が誇らしげなんだよ」
俺は鏡を見る。
美容師が髪を顎の少し下まで持ち上げた状態だと、ずいぶん印象が変わる。
長い髪に囲まれていた時より、顔の輪郭がはっきりする。
切れ長の目。
細い顎。
鼻筋。
男だった頃の俺にもあった特徴が、長髪の時よりむしろ分かりやすい。
「……これくらい?」
「もう少し後ろをすっきりさせてもいいと思います。前はこの辺を残して」
美容師が鏡越しに説明してくれる。
俺はじっと見る。
嫌ではない。
むしろ。
「その方がいいです」
「では、かなり切りますね」
「お願いします」
言った。
自分で決めた。
それだけで、少し気持ちが軽くなった。
*
最初に髪をまとめられた。
あまりにも長いので、一気に短くしてから形を整えるらしい。
背中側で髪が束になり、首元が少し引かれる。
「結構重かったと思いますよ」
美容師が言う。
「重いです。めちゃくちゃ邪魔でした」
「ここまで長いと大変ですよね」
普通の会話。
俺がなぜ昨日突然この長さになったのかなんて、もちろん知らない。
ハサミが入る。
ざく。
思っていたより大きな音がした。
鏡越しに、黒い髪の束が切り離されていく。
その瞬間。
頭が軽くなった。
物理的に。
本当に、分かるくらい。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
「軽いでしょ?」
「めちゃくちゃ軽い」
千尋が横で笑った。
「そんな?」
「お前、これ一日頭から生やしてみろよ」
「私は昔もっと長かったけど」
「マジで?」
「高校の頃」
「知らなかった」
「兄ちゃん私の髪なんて見てなかったでしょ」
言われてみれば、そうかもしれない。
同じ家にいた頃の妹の髪型なんて、正確には覚えていない。
長かった気もする。
短かった時期もあった気がする。
その程度だ。
「……悪かったな」
「別に怒ってないけど」
千尋はそう言ってから、鏡越しに俺を見る。
「今は気になる?」
「自分のだからな」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ何だよ」
「何でもない」
妙なやり取りをしている間にも、髪はどんどん短くなっていった。
背中を覆っていたものが消える。
肩から流れ落ちていた髪もなくなる。
首の後ろに空気が触れる感覚がある。
それだけで妙に身軽だった。
「すげえ……」
「何が?」
「首が自由」
美容師が笑う。
「今までかなり長かったですからね」
俺にとっては昨日からだけど。
そこは言わない。
*
ある程度短くなったところで、一度シャンプー台へ移った。
椅子を倒される。
首を預ける。
ここまでは男だった頃にも何度も経験している。
ただ、髪が長かったせいなのか、身体が小さくなったせいなのか、いつもと少し位置が違う気がした。
店員が高さを調整してくれる。
「苦しくないですか?」
「大丈夫です」
温かい湯が髪を濡らす。
そこで初めて気づいた。
昨日から俺は、自分の髪をまともに洗えていなかった。
朝起きた時点で腰まで伸びていたし、どう扱えばいいのか分からない。昨夜は千尋に言われた通り最低限整えただけで、今朝もまとめるだけで精一杯だった。
指が髪の間を通る。
頭皮を洗われる。
美容院では当たり前のことなのに、今は妙にありがたかった。
「……これ、家で自分でやるの大変だったろうな」
つい口にすると、美容師が笑う。
「長い髪は乾かすのも大変ですからね」
「絶対無理です」
「短くしたらかなり楽になりますよ」
それが今日一番嬉しい言葉だった。
*
席へ戻り、今度は細かく形を整えていく。
鏡の中の自分は、もう最初とは別人だった。
肩より遥かに短い。
後ろはすっきりしている。
前は顎のあたりまで少し長さが残り、顔の輪郭に沿っている。
「前髪どうします?」
聞かれて、俺は困った。
「どうしたらいいですか」
「今のまま少し流すと、大人っぽい雰囲気になります。短く作るともう少し可愛い印象になりますね」
「大人っぽい方で」
即答した。
千尋が笑う。
「そこは迷わないんだ」
「二十六だぞ俺」
「見た目二十二、三だけど」
「中身は二十六だ」
美容師は事情を知らないので、兄妹の冗談だと思ったのだろう。
楽しそうに笑っている。
前髪を整える。
耳周りを調整する。
少しずつ完成形へ近づいていく。
その間、俺はずっと鏡を見ていた。
最初は美容師の手元を追っていただけだった。
でも途中から。
鏡の中の顔そのものを見るようになっていた。
長い髪だった時より、ずっと見覚えがある。
もちろん女だ。
肌も。
輪郭も。
目元も。
身体も。
全部、昨日までとは違う。
それでも。
髪が短くなったことで、男だった頃の自分の面影が表へ出てきた。
笑わずにいる時の少しきつい目。
眉間に薄く皺を寄せる癖。
何か気に入らない時に口の端だけ下がるところ。
「……俺だな」
気づけば声に出ていた。
「え?」
美容師が聞き返す。
「いや、何でもないです」
隣を見る。
千尋がこちらを見ていた。
目が合う。
「何」
「私も今、同じこと思った」
「何を」
「兄ちゃんっぽくなった」
俺は鏡へ視線を戻した。
「長い時より?」
「うん。すごく」
そうか。
俺だけではないらしい。
*
仕上げに髪を乾かしてもらう。
今朝はあれほど時間をかけてもまとまらなかった髪が、数分で軽く形になっていく。
美容師が最後に全体を確認し、鏡を後ろへ回した。
「こんな感じになります」
後ろも短い。
首元がすっきりしている。
横も長すぎない。
正面へ戻る。
そこにいたのは、小柄な女だった。
それは変わらない。
百四十八センチ。
切れ長の目。
昨日までなかった女性らしい輪郭。
身体も全部違う。
でも。
昨日、最初に鏡を見た時の「誰だこいつ」という感覚は薄かった。
むしろ。
「……いいな」
自然に言葉が出た。
美容師が笑う。
「すごくお似合いですよ」
「ほら!」
千尋が嬉しそうに言う。
「何でお前が一番喜んでんだよ」
「私が選んだんだから」
「最終的に決めたの俺だろ」
「最初にショートボブって言ったの私」
「はいはい」
文句を言いながらも。
俺も少し笑っていた。
鏡の中の女も笑う。
その瞬間。
昨日までの俺が一番分かりやすく見えた。
「あ」
千尋も気づいたらしい。
「やっぱ笑うと兄ちゃんだ」
「昨日も言ってたな」
「うん」
俺はもう一度鏡を見る。
女になった。
そこは何も変わらない。
髪を切ったから男へ戻ったわけではないし、明日になれば元の身体へ戻るわけでもない。
病院では、戻った人はいないと言われた。
これから女性として生活するための服を買った。
靴も買った。
自分用の下着まで買った。
その現実は何一つ消えていない。
それでも。
自分の意思で髪を切った。
自分が楽な長さを選んだ。
鏡を見て、自分でこれがいいと思った。
たったそれだけのことが。
思っていた以上に大きかった。
昨日の朝からずっと。
身体に合わせろ。
今の姿に慣れろ。
そう言われ続けているような気がしていた。
でも。
全部を身体に合わせる必要はないのかもしれない。
俺の方から。
今の身体を、自分が生きやすい形へ寄せてもいい。
「……これならまあ」
「何?」
千尋が聞く。
「ちょっと俺っぽい」
千尋は一瞬黙って。
「うん」
と笑った。
「私もそう思う」
*
会計を終えて外へ出る。
自動ドアが開いた瞬間、首元へ風が当たった。
「うお」
「何?」
「風」
「風?」
俺は後頭部を触る。
短い。
本当に短い。
「首に直接当たる」
千尋が笑う。
「そんな感動する?」
「昨日までここ全部髪だったんだぞ」
「一日だけじゃん」
「一日でも邪魔なもんは邪魔なんだよ」
歩き出す。
頭が軽い。
振り向いても髪が遅れてついてこない。
座っても挟まらない。
何より、もう身体にまとわりつかない。
「最高」
「そこまで?」
「髪短いって素晴らしい」
「兄ちゃん昔から短かったもんね」
「ああ」
そこだけは。
昨日までと同じだった。
ショッピングモールのガラスに姿が映る。
俺はまた足を止める。
朝とは違う。
長い髪の女はいない。
代わりに、ショートボブの小柄な女が立っている。
昨日までの俺と同じではない。
それでも。
少しだけ。
鏡の中の相手との距離が縮まった気がした。
千尋が隣に立つ。
「写真撮ろ」
「何で」
「記録」
「いらん」
「いる」
「何に使うんだよ」
「昨日の兄ちゃんと今日の兄ちゃん比較」
「絶対ろくな用途じゃねえ」
「いいから」
千尋がスマホを構える。
「待て待て」
「はい、こっち見て」
「勝手に――」
ぱしゃ。
撮られた。
「おい!」
「もう一枚」
「いらねえって!」
結局三枚くらい撮られた。
そのうち一枚を見せられる。
俺は少し黙った。
写真の中にいる。
小柄で。
短い黒髪で。
目つきの少し悪い女。
笑ってはいない。
むしろ、勝手に写真を撮られて不機嫌そうな顔をしている。
「…………」
「どう?」
「俺っぽい」
「でしょ」
それが妙におかしくて。
少し笑った。
「それ送って」
千尋が目を丸くした。
「欲しいの?」
「別に。今の自分の写真一枚くらいあった方がいいだろ」
会社にもいずれ新しい写真が必要になる。
身分証だって変わる。
理由はいくらでもある。
「はいはい」
スマホが震える。
千尋から写真が送られてきた。
画面いっぱいに自分の顔が映る。
昨日までなら。
女の写真を見て、自分だと思うことなんて絶対になかった。
今もまだ完全には慣れない。
でも。
「まあ……これなら」
「何が?」
「自分の顔って言われても、昨日よりは納得できる」
千尋は何も茶化さなかった。
ただ。
「そっか」
とだけ言った。
*
帰り道。
朝より少し人が増えていた。
それでも、不思議と行きより歩きやすかった。
人の背中ばかり見えるのは同じだ。
歩幅も小さい。
俺の身長が百四十八センチであることも変わっていない。
服の入った袋。
靴の箱。
日用品。
全部持っている。
今日一日で、ずいぶん色々買った。
財布は軽くなった。
頭も軽くなった。
「兄ちゃん」
隣を歩く千尋が言う。
「何」
「帰ったら髪の乾かし方教える」
「この長さでも何かあるの?」
「あるよ」
「マジか」
「あと朝のセット」
「必要?」
「何もしなくても大丈夫なようには切ってもらったけど、ちょっとやるともっといい」
「めんどくせえ」
「覚えて」
「女、手間かかりすぎだろ」
「女というか、髪のある人はね」
「俺だって昨日まで髪あったわ」
「そういう意味じゃない」
また笑われる。
信号の前で止まる。
隣に並ぶ。
以前なら。
千尋よりずっと高い位置から見ていた。
今は少し見上げる。
そこはまだ慣れない。
きっとしばらく慣れないだろう。
でも。
頭へ手をやる。
短くなった髪に触れる。
これは。
もうそれほど変ではなかった。
身体は突然変わった。
選べなかった。
戻れるかどうかも分からない。
だけど。
その身体でどう生きるかまで、全部勝手に決められたわけじゃない。
今日は服を選んだ。
髪も選んだ。
小さなことばかりだ。
それでも昨日よりは。
ほんの少しだけ。
自分で自分を決められた気がした。
信号が青になる。
「行こ」
千尋が歩き出す。
「ああ」
俺も続く。
そして数歩進んだところで。
「千尋」
「何?」
「歩くの早い」
「あ、ごめん」
「だから合わせんな。それが腹立つ」
「じゃあ頑張って」
「お前なあ!」
短くなった髪が、首元で軽く揺れた。
昨日までの俺とは違う。
朝の俺とも違う。
それでも。
今までで一番。
鏡の中の自分を、俺だと思えた。




