↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女になった俺と、距離感がおかしくなった奴ら  作者: わかめ
女になった俺

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/24

髪を切ったら、少しだけ俺に戻った


美容院の前まで来たところで、俺は足を止めた。


店の中には大きな鏡が並び、その前で何人もの客が髪を切ってもらっている。受付の近くには女性客が二人座っていて、壁にはモデルらしき女性の写真が何枚も飾られていた。


さっきまでいた服屋や下着の店ほどではない。


美容院には男だった頃から普通に行っていたし、髪を切ること自体に抵抗なんてない。


それでも。


「……ここ?」


「ここ」


千尋がスマホの予約画面を確認する。


「私がたまに来てるとこ。女性のお客さん多いけど、別に男性もいるよ」


「それは見れば分かる」


奥の席には男の客もいる。


俺が引っかかっているのはそこではない。


ガラスに映った自分を見る。


腰近くまである長い黒髪。


昨日の朝、目を覚ました時からずっと俺にまとわりついていたものだ。


切りたい。


邪魔だ。


何度そう思ったか分からない。


なのに、いざ店の前まで来ると妙な感覚があった。


「どうしたの?」


「いや……」


俺は自分の髪を一房つまむ。


「これ切ったら、本当に今の顔になるなと思って」


「今も今の顔だけど」


「そうなんだけどさ」


長い髪は、明らかに俺らしくない。


だからこそ今まで、鏡を見るたびに「知らない女がいる」と思えた。


これを自分の意思で短くして、自分が楽な形へ整える。


そうしたら。


昨日突然与えられた姿ではなく。


少しだけ、自分で選んだ姿になる。


その違いが、思っていたより大きい気がした。


千尋はしばらく俺を見てから、


「じゃあ、ちゃんと決めよう」


と言った。


「何を」


「どんな髪にするか。『邪魔だから短く』だけじゃなくて」


「それでよくない?」


「よくない」


即答された。


「せっかくなら兄ちゃんが自分で選んだ方がいいじゃん」


俺はもう一度ガラスを見る。


なるほど。


そういう考え方もあるのかもしれない。


「……分かった」


「じゃ、入ろ」


「おう」


今度は止まらず、千尋について店へ入った。


     *


受付で名前を伝える。


「香坂悠真です」


自分で名乗る。


それだけなのに、受付の女性が自然に予約を確認し、


「香坂様ですね。お待ちしておりました」


と笑顔を向けてくる。


昨日から何度も経験している。


今の俺を見ても誰も驚かない。


名前が悠真でも、少し珍しい女性名だと思われるだけなのだろう。


事情を知らない相手にとっては、最初から俺はこの姿だ。


「こちらへどうぞ」


案内されて椅子に座る。


鏡の前。


自分の全身が映る。


床まで足が届かない。


「…………」


またか。


昨日までは美容院の椅子でこんなことを意識した覚えはない。


足置きには届くが、椅子の高さそのものが妙に大きく感じる。


横から千尋が気づいたらしい。


笑いそうな顔になった。


「言うなよ」


「まだ何も言ってない」


「顔が言ってる」


「ちっちゃ――」


「言うな!」


美容師がやってきたところで、千尋が口を閉じる。


三十歳前後だろうか。落ち着いた雰囲気の女性で、俺の髪を見るなり少し驚いたような顔をした。


「今日はかなり切られる予定ですか?」


「はい」


俺は即答した。


「かなり」


「どのくらいまでご希望です?」


「邪魔にならないくらい」


隣から千尋の声が飛んできた。


「それだと美容師さん困るから」


「じゃあお前説明して」


「兄ちゃんの髪でしょ」


正論だった。


美容師が笑う。


「今の長さだと、かなり選べますよ。ショートまで切ってもいいですし、最初はボブくらい残すこともできます」


「ショートボブってできます?」


千尋が聞いた。


「もちろんです」


美容師が俺の髪を持ち上げ、顔の横へ少しだけ折り返すようにして長さを確認する。


「お顔立ちがはっきりしているので、かなり似合うと思います」


「ほら」


千尋が得意そうに言う。


「何でお前が誇らしげなんだよ」


俺は鏡を見る。


美容師が髪を顎の少し下まで持ち上げた状態だと、ずいぶん印象が変わる。


長い髪に囲まれていた時より、顔の輪郭がはっきりする。


切れ長の目。


細い顎。


鼻筋。


男だった頃の俺にもあった特徴が、長髪の時よりむしろ分かりやすい。


「……これくらい?」


「もう少し後ろをすっきりさせてもいいと思います。前はこの辺を残して」


美容師が鏡越しに説明してくれる。


俺はじっと見る。


嫌ではない。


むしろ。


「その方がいいです」


「では、かなり切りますね」


「お願いします」


言った。


自分で決めた。


それだけで、少し気持ちが軽くなった。


     *


最初に髪をまとめられた。


あまりにも長いので、一気に短くしてから形を整えるらしい。


背中側で髪が束になり、首元が少し引かれる。


「結構重かったと思いますよ」


美容師が言う。


「重いです。めちゃくちゃ邪魔でした」


「ここまで長いと大変ですよね」


普通の会話。


俺がなぜ昨日突然この長さになったのかなんて、もちろん知らない。


ハサミが入る。


ざく。


思っていたより大きな音がした。


鏡越しに、黒い髪の束が切り離されていく。


その瞬間。


頭が軽くなった。


物理的に。


本当に、分かるくらい。


「……うわ」


思わず声が漏れる。


「軽いでしょ?」


「めちゃくちゃ軽い」


千尋が横で笑った。


「そんな?」


「お前、これ一日頭から生やしてみろよ」


「私は昔もっと長かったけど」


「マジで?」


「高校の頃」


「知らなかった」


「兄ちゃん私の髪なんて見てなかったでしょ」


言われてみれば、そうかもしれない。


同じ家にいた頃の妹の髪型なんて、正確には覚えていない。


長かった気もする。


短かった時期もあった気がする。


その程度だ。


「……悪かったな」


「別に怒ってないけど」


千尋はそう言ってから、鏡越しに俺を見る。


「今は気になる?」


「自分のだからな」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ何だよ」


「何でもない」


妙なやり取りをしている間にも、髪はどんどん短くなっていった。


背中を覆っていたものが消える。


肩から流れ落ちていた髪もなくなる。


首の後ろに空気が触れる感覚がある。


それだけで妙に身軽だった。


「すげえ……」


「何が?」


「首が自由」


美容師が笑う。


「今までかなり長かったですからね」


俺にとっては昨日からだけど。


そこは言わない。


     *


ある程度短くなったところで、一度シャンプー台へ移った。


椅子を倒される。


首を預ける。


ここまでは男だった頃にも何度も経験している。


ただ、髪が長かったせいなのか、身体が小さくなったせいなのか、いつもと少し位置が違う気がした。


店員が高さを調整してくれる。


「苦しくないですか?」


「大丈夫です」


温かい湯が髪を濡らす。


そこで初めて気づいた。


昨日から俺は、自分の髪をまともに洗えていなかった。


朝起きた時点で腰まで伸びていたし、どう扱えばいいのか分からない。昨夜は千尋に言われた通り最低限整えただけで、今朝もまとめるだけで精一杯だった。


指が髪の間を通る。


頭皮を洗われる。


美容院では当たり前のことなのに、今は妙にありがたかった。


「……これ、家で自分でやるの大変だったろうな」


つい口にすると、美容師が笑う。


「長い髪は乾かすのも大変ですからね」


「絶対無理です」


「短くしたらかなり楽になりますよ」


それが今日一番嬉しい言葉だった。


     *


席へ戻り、今度は細かく形を整えていく。


鏡の中の自分は、もう最初とは別人だった。


肩より遥かに短い。


後ろはすっきりしている。


前は顎のあたりまで少し長さが残り、顔の輪郭に沿っている。


「前髪どうします?」


聞かれて、俺は困った。


「どうしたらいいですか」


「今のまま少し流すと、大人っぽい雰囲気になります。短く作るともう少し可愛い印象になりますね」


「大人っぽい方で」


即答した。


千尋が笑う。


「そこは迷わないんだ」


「二十六だぞ俺」


「見た目二十二、三だけど」


「中身は二十六だ」


美容師は事情を知らないので、兄妹の冗談だと思ったのだろう。


楽しそうに笑っている。


前髪を整える。


耳周りを調整する。


少しずつ完成形へ近づいていく。


その間、俺はずっと鏡を見ていた。


最初は美容師の手元を追っていただけだった。


でも途中から。


鏡の中の顔そのものを見るようになっていた。


長い髪だった時より、ずっと見覚えがある。


もちろん女だ。


肌も。


輪郭も。


目元も。


身体も。


全部、昨日までとは違う。


それでも。


髪が短くなったことで、男だった頃の自分の面影が表へ出てきた。


笑わずにいる時の少しきつい目。


眉間に薄く皺を寄せる癖。


何か気に入らない時に口の端だけ下がるところ。


「……俺だな」


気づけば声に出ていた。


「え?」


美容師が聞き返す。


「いや、何でもないです」


隣を見る。


千尋がこちらを見ていた。


目が合う。


「何」


「私も今、同じこと思った」


「何を」


「兄ちゃんっぽくなった」


俺は鏡へ視線を戻した。


「長い時より?」


「うん。すごく」


そうか。


俺だけではないらしい。


     *


仕上げに髪を乾かしてもらう。


今朝はあれほど時間をかけてもまとまらなかった髪が、数分で軽く形になっていく。


美容師が最後に全体を確認し、鏡を後ろへ回した。


「こんな感じになります」


後ろも短い。


首元がすっきりしている。


横も長すぎない。


正面へ戻る。


そこにいたのは、小柄な女だった。


それは変わらない。


百四十八センチ。


切れ長の目。


昨日までなかった女性らしい輪郭。


身体も全部違う。


でも。


昨日、最初に鏡を見た時の「誰だこいつ」という感覚は薄かった。


むしろ。


「……いいな」


自然に言葉が出た。


美容師が笑う。


「すごくお似合いですよ」


「ほら!」


千尋が嬉しそうに言う。


「何でお前が一番喜んでんだよ」


「私が選んだんだから」


「最終的に決めたの俺だろ」


「最初にショートボブって言ったの私」


「はいはい」


文句を言いながらも。


俺も少し笑っていた。


鏡の中の女も笑う。


その瞬間。


昨日までの俺が一番分かりやすく見えた。


「あ」


千尋も気づいたらしい。


「やっぱ笑うと兄ちゃんだ」


「昨日も言ってたな」


「うん」


俺はもう一度鏡を見る。


女になった。


そこは何も変わらない。


髪を切ったから男へ戻ったわけではないし、明日になれば元の身体へ戻るわけでもない。


病院では、戻った人はいないと言われた。


これから女性として生活するための服を買った。


靴も買った。


自分用の下着まで買った。


その現実は何一つ消えていない。


それでも。


自分の意思で髪を切った。


自分が楽な長さを選んだ。


鏡を見て、自分でこれがいいと思った。


たったそれだけのことが。


思っていた以上に大きかった。


昨日の朝からずっと。


身体に合わせろ。


今の姿に慣れろ。


そう言われ続けているような気がしていた。


でも。


全部を身体に合わせる必要はないのかもしれない。


俺の方から。


今の身体を、自分が生きやすい形へ寄せてもいい。


「……これならまあ」


「何?」


千尋が聞く。


「ちょっと俺っぽい」


千尋は一瞬黙って。


「うん」


と笑った。


「私もそう思う」


     *


会計を終えて外へ出る。


自動ドアが開いた瞬間、首元へ風が当たった。


「うお」


「何?」


「風」


「風?」


俺は後頭部を触る。


短い。


本当に短い。


「首に直接当たる」


千尋が笑う。


「そんな感動する?」


「昨日までここ全部髪だったんだぞ」


「一日だけじゃん」


「一日でも邪魔なもんは邪魔なんだよ」


歩き出す。


頭が軽い。


振り向いても髪が遅れてついてこない。


座っても挟まらない。


何より、もう身体にまとわりつかない。


「最高」


「そこまで?」


「髪短いって素晴らしい」


「兄ちゃん昔から短かったもんね」


「ああ」


そこだけは。


昨日までと同じだった。


ショッピングモールのガラスに姿が映る。


俺はまた足を止める。


朝とは違う。


長い髪の女はいない。


代わりに、ショートボブの小柄な女が立っている。


昨日までの俺と同じではない。


それでも。


少しだけ。


鏡の中の相手との距離が縮まった気がした。


千尋が隣に立つ。


「写真撮ろ」


「何で」


「記録」


「いらん」


「いる」


「何に使うんだよ」


「昨日の兄ちゃんと今日の兄ちゃん比較」


「絶対ろくな用途じゃねえ」


「いいから」


千尋がスマホを構える。


「待て待て」


「はい、こっち見て」


「勝手に――」


ぱしゃ。


撮られた。


「おい!」


「もう一枚」


「いらねえって!」


結局三枚くらい撮られた。


そのうち一枚を見せられる。


俺は少し黙った。


写真の中にいる。


小柄で。


短い黒髪で。


目つきの少し悪い女。


笑ってはいない。


むしろ、勝手に写真を撮られて不機嫌そうな顔をしている。


「…………」


「どう?」


「俺っぽい」


「でしょ」


それが妙におかしくて。


少し笑った。


「それ送って」


千尋が目を丸くした。


「欲しいの?」


「別に。今の自分の写真一枚くらいあった方がいいだろ」


会社にもいずれ新しい写真が必要になる。


身分証だって変わる。


理由はいくらでもある。


「はいはい」


スマホが震える。


千尋から写真が送られてきた。


画面いっぱいに自分の顔が映る。


昨日までなら。


女の写真を見て、自分だと思うことなんて絶対になかった。


今もまだ完全には慣れない。


でも。


「まあ……これなら」


「何が?」


「自分の顔って言われても、昨日よりは納得できる」


千尋は何も茶化さなかった。


ただ。


「そっか」


とだけ言った。


     *


帰り道。


朝より少し人が増えていた。


それでも、不思議と行きより歩きやすかった。


人の背中ばかり見えるのは同じだ。


歩幅も小さい。


俺の身長が百四十八センチであることも変わっていない。


服の入った袋。


靴の箱。


日用品。


全部持っている。


今日一日で、ずいぶん色々買った。


財布は軽くなった。


頭も軽くなった。


「兄ちゃん」


隣を歩く千尋が言う。


「何」


「帰ったら髪の乾かし方教える」


「この長さでも何かあるの?」


「あるよ」


「マジか」


「あと朝のセット」


「必要?」


「何もしなくても大丈夫なようには切ってもらったけど、ちょっとやるともっといい」


「めんどくせえ」


「覚えて」


「女、手間かかりすぎだろ」


「女というか、髪のある人はね」


「俺だって昨日まで髪あったわ」


「そういう意味じゃない」


また笑われる。


信号の前で止まる。


隣に並ぶ。


以前なら。


千尋よりずっと高い位置から見ていた。


今は少し見上げる。


そこはまだ慣れない。


きっとしばらく慣れないだろう。


でも。


頭へ手をやる。


短くなった髪に触れる。


これは。


もうそれほど変ではなかった。


身体は突然変わった。


選べなかった。


戻れるかどうかも分からない。


だけど。


その身体でどう生きるかまで、全部勝手に決められたわけじゃない。


今日は服を選んだ。


髪も選んだ。


小さなことばかりだ。


それでも昨日よりは。


ほんの少しだけ。


自分で自分を決められた気がした。


信号が青になる。


「行こ」


千尋が歩き出す。


「ああ」


俺も続く。


そして数歩進んだところで。


「千尋」


「何?」


「歩くの早い」


「あ、ごめん」


「だから合わせんな。それが腹立つ」


「じゃあ頑張って」


「お前なあ!」


短くなった髪が、首元で軽く揺れた。


昨日までの俺とは違う。


朝の俺とも違う。


それでも。


今までで一番。


鏡の中の自分を、俺だと思えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。