女物売り場の難易度が高すぎる
翌朝、目を覚ました瞬間に、俺は昨日よりも早く異変へ気づいた。
頬に髪が張りついている。首にも腕にも絡み、布団の中にまで入り込んでいて、寝返りを打ったせいなのか腰近くまである髪の一部を自分で踏んでいた。
「……邪魔」
目を閉じたまま髪をかき集め、枕の向こうへ追いやる。
昨日までなら、そのまま二度寝していたところだ。休日だし、仕事もない。何か予定があったとしても、昼過ぎから動けば十分だった。
しかし今日は違う。
枕元のスマホを手に取ると、時刻は午前八時十二分。その下には、千尋から届いたメッセージが表示されていた。
『九時半に行くから起きててね』
「早えよ……」
口から出た声は、今日もまだ自分のものとは思えない高さだった。
昨日一日で多少は聞き慣れたつもりだったが、寝起きの無意識な一言までこの声で出てくると、改めて現実を突きつけられる。
仕方なく身体を起こすと、集めたはずの長い髪がまた肩から胸元へ流れ落ちた。
今日で終わりだ。
絶対に切る。
そう心に決めながらベッドから降りる。
昨日までの癖で勢いよく立とうとして、一瞬だけ重心がずれた。ただ、昨日の朝のように本気で転びそうになることはなかった。足を一歩出せば、身体はちゃんとついてくる。
「……お」
少しだけ感心する。
歩幅も、身体の軽さも、まだ以前とはまるで違う。それでも昨日のように、一歩動くたびに自分の手足を確認する必要はなくなっていた。
たった一日で慣れた、と言うには早すぎる。
けれど身体というものは、頭よりずっと早く今の状態を受け入れているのかもしれなかった。
洗面所へ向かい、鏡を見る。
長い黒髪。切れ長の目。小さな身体。昨日、千尋から借りた部屋着。
そこにいるのは、やっぱり俺の知っている二十六歳の男ではない。
ただ、昨日の朝のように鏡を見た瞬間、心臓が冷えることもなかった。
知らない女だ。
それでも、この顔が自分だということだけは、少しずつ否定できなくなってきている。
それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からなかった。
*
九時二十八分。
インターホンが鳴った。
「時間ぴったりかよ」
玄関を開けると、千尋が立っていた。
「おはよ」
「おう」
「ちゃんと起きてる」
「俺を何だと思ってんだ」
「休日は昼まで寝る人」
「否定できない」
千尋は挨拶もそこそこに俺を上から下まで眺め、最後に髪へ視線を止めた。
今日は昨日借りた白いTシャツと黒いパンツ。腰近くまである髪は、朝から十分ほど格闘してどうにか自分でまとめてある。
「それ、自分でやった?」
「ああ」
「……まあ」
「何だよ」
「頑張ったね」
「その言い方やめろ」
どうやら出来は良くないらしい。
「相沢さんは?」
「今日は来ねえよ。昨日一日付き合わせたからな」
病院まで車を出してもらい、その後も夕方まで家に残ってくれた。さすがに今日まで付き合わせる理由はない。
というか、今日は妹と買い物へ行くだけだ。
蓮がいる必要はない。
「じゃ、行こ」
千尋に促され、財布とスマホと鍵を確認する。
靴は昨日、蓮が急場しのぎで買ってきたサンダルしかない。まずまともな靴から買おう、というのが今日の予定だった。
玄関を出て、鍵を閉める。
そこで俺は、ほんの一瞬だけ足を止めた。
「何?」
千尋が振り返る。
「いや……」
廊下の向こうにエレベーターがある。その先には建物の外があって、さらに先にはいつもの街がある。
昨日も病院には行った。
だから、今の姿で外へ出ること自体は初めてではない。
ただ、昨日は蓮の車で家と病院を往復しただけだった。目的地も事情を説明する相手も決まっていて、普通の生活とは少し違っていた。
今日は電車にも乗る。
店にも入る。
知らない人たちの中を歩く。
昨日までとは違う姿で、昨日までと同じ街へ戻っていく。
「……行くぞ」
自分に言い聞かせるように呟く。
千尋は何も聞かなかった。ただ俺の隣へ戻ると、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。
*
駅前まで来たところで、早速一つ問題に気づいた。
「人、多いな」
「日曜だからね」
「そうじゃなくて」
俺の視界に入るのは、人の背中ばかりだった。
昨日までなら、人混みの中でも前方を見渡すのにそれほど苦労しなかった。百七十六センチという身長は別に大男というほどではないが、少なくとも周囲の肩越しに向こうを見ることくらいはできた。
今は違う。
前を歩く男の肩。女性の後頭部。その向こうが見えない。
周囲の大人の大半が、自分より大きい。
「……前が見えねえ」
「ああ」
千尋もようやく意味が分かったらしい。
「兄ちゃん、今まで背高かったもんね」
「百七十六あったからな」
「今は百四十八」
「わざわざ数字を言うな」
信号が青に変わり、人の流れが一斉に動き始める。
俺もその中へ入るが、今度は歩幅の違いに気づく。千尋は特別急いでいるわけでもないのに、昨日までと同じ感覚で歩いていると少しずつ離される。
「お前、歩くの早くない?」
「いつも通りだけど」
「じゃあ遅くしろ」
「はいはい」
千尋が半歩ほど速度を落とす。
それがまた妙に腹立たしい。
「なんか嫌だな」
「何が?」
「妹に歩幅合わせてもらうのが」
「可愛いね」
「帰るぞ」
「ごめんって」
まったく反省していない顔だった。
*
最初に入ったのは靴屋だった。
「まずサイズ測ろ」
「俺、昨日まで二十七だったけど」
「それはいったん忘れて」
「簡単に言うなよ。二十六年間それで生きてきたんだぞ」
とはいえ、昨日のサンダルを買った時点で小さくなっていることは分かっている。
店員に測ってもらった結果は、二十二・五センチだった。
表示された数字を見て、思わず声が漏れる。
「……小さ」
「全体的にね」
「千尋」
「何?」
「今日それ何回言うつもり?」
「まだ二回くらい」
「今ので最後にしろ」
俺が履けるサイズのスニーカーを何足か出してもらう。黒と白。余計な装飾はない。履き心地も悪くない。
黒いものを指して、
「これでよくない?」
と言うと、千尋が少し考えたあと頷いた。
「兄ちゃんっぽい」
「だろ?」
「地味だけど」
「うるせえ」
結局、黒と白を一足ずつ買った。
「二足もいる?」
会計を終えてから聞くと、千尋が呆れたように言う。
「昨日サンダル一足しかなかった人が何言ってるの」
「金が飛ぶ」
「必要経費」
必要経費。
たぶん今日は、その言葉を何度も聞くことになる。
*
そして次に向かったショッピングモールの三階で、俺は本日二度目の足止めを食らった。
レディースファッションフロア。
目の前には、昨日まで自分とはほとんど関係がなかった服が並んでいる。
ワンピース。スカート。ブラウス。パンツ。カーディガン。
色も形も多い。
客もほとんど女性だ。
「……千尋」
「何?」
「ちょっと待て」
「心の準備?」
「そう」
千尋が笑いを堪えながら待っている。
昨日、病院では医者に身体が完全に女性になっていると言われた。
今朝も鏡で確認した。
さっき靴まで女性用のサイズで買った。
それでも、こういう場所へ「自分の服を買うために入る」となると、今までとはまた違う壁がある。
「……俺、ここ入っていいの?」
言った瞬間、自分でも変な質問だと思った。
案の定、千尋も妙な顔をする。
「今の兄ちゃんが入らなくて誰が入るの?」
「そうなんだけどさ」
自分を見る。
白いTシャツ。黒いパンツ。長い黒髪。買ったばかりのスニーカー。
外見だけなら、女性用の服を買いに来た客以外の何者でもない。
「まだ慣れない?」
「昨日の今日だぞ」
「そりゃそうか」
千尋は少しだけ考えてから、先に売り場へ入った。
「じゃあ最初は私が選ぶ」
「それはそれで怖い」
「普通のにするって」
「昨日『また今度』とか言ってた奴の普通を信用できるか」
「今日はまだやらないよ」
「まだ?」
何をやる気なのか聞く前に、千尋はさっさと先へ進んでしまった。
仕方なく俺も続く。
その途中、すれ違った店員が笑顔を向けてきた。
「いらっしゃいませ」
ただの挨拶だ。
俺以外の客にも同じように言っている。
なのに、俺は一瞬だけ振り返りそうになった。
あの「いらっしゃいませ」は、俺にも普通に向けられていた。
誰も驚かない。
誰も俺を見て、昨日まで男だったなんて思わない。
俺の事情なんて知らない店員からすれば、ここにいるのは服を買いに来た小柄な女。それだけなのだ。
「兄ちゃん?」
「……何でもない」
返事をして、千尋の隣へ並んだ。
外へ出るというのは、こういうことなのかもしれない。
俺の中では昨日と今日の間に巨大な断絶があるのに、他人から見ればそんなものは存在しない。
*
千尋が選んだ服は、意外なくらいまともだった。
白や黒、紺、グレーを中心にしたシンプルなものが多く、形も奇抜ではない。
「……お前、俺の好みちゃんと分かってんじゃん」
「兄妹何年やってると思ってんの」
「二十二年」
「正解」
そこへ千尋が、薄い青のトップスを一着追加した。
「これも」
「それはちょっと女物っぽくない?」
「全部女物だよ」
「そうじゃなくて」
男だった頃の俺なら、自分ではまず選ばなかった色だった。
派手ではない。ただ、黒や紺より柔らかい。
「嫌なら買わなくていいから、とりあえず着てみて」
「……まあ、それなら」
何着か持って試着室へ入る。
カーテンを閉めたところで、また少しだけ落ち着かなくなった。
昨日、自宅で千尋から借りた服へ着替えた時とは違う。
店の試着室。
女物の服。
正面には大きな鏡。
全部が初めてだった。
「兄ちゃーん」
外から千尋の声がする。
「何」
「着たら見せて」
「嫌だ」
「何で」
「……恥ずかしいだろ」
口にしてから、自分で違和感を覚えた。
外も一瞬静かになる。
「兄ちゃんがそれ言うんだ」
「うるせえ」
昨日までなら、妹の前で服を見せることを恥ずかしいなんて思ったことはない。
蓮の前で着替えることすら何ともなかった。
今は別に裸を見られるわけでもないのに、カーテン一枚向こうへ出ることに妙な抵抗がある。
身体が変わると、こんなところまで変わるのだろうか。
いや。
身体そのものではなく、自分がそれをどう扱えばいいのか分からないせいなのかもしれない。
「……面倒くせえな」
小さく呟きながら、まず白いシャツと黒いパンツに着替える。
鏡を見る。
悪くない。
というより、普通だった。
昨日までの俺が選びそうな服を、そのまま今の身体用に作り直したように見える。
これなら安心できる。
カーテンを開ける。
「どう」
「いいじゃん」
千尋が即答した。
「兄ちゃんっぽい」
「それならいい」
何着か同じように試す。
紺。グレー。
どれも問題ない。
繰り返しているうちに、試着室から出ることへの抵抗も少しずつ薄れていった。
そして最後に、薄い青の服を着る。
鏡を見て。
少し黙った。
「……似合うな」
腹立たしいが、そう見えた。
昨日までの自分とは違う肌の色。細くなった肩。腰まである黒い髪。
柔らかい色が、思っていたよりずっと自然に馴染んでいる。
「兄ちゃん?」
「今出る」
カーテンを開けると、千尋が一瞬だけ黙った。
「……何」
「似合う」
「俺もそう思った」
「自分で言う?」
「鏡見れば分かるだろ」
千尋が笑う。
「買う?」
俺はもう一度、鏡を見る。
少し迷ってから頷いた。
「……買う」
「お」
「何だよ」
「絶対嫌がると思った」
「似合うならいいだろ」
そう答えたあとで、妙な感覚が残った。
昨日までなら「自分に似合う女物の服」なんて考える必要すらなかった。
それなのに今は、自分で鏡を見て、似合うと思ったから買うと決めた。
大したことではない。
ただ服を一枚選んだだけだ。
それでも、自分が少しずつ今の身体に合わせた判断を始めていることに気づく。
昨日より一つ。
今の身体で生活する方法を覚えた。
そんな気がした。
*
千尋が調子に乗ったのは、その直後だった。
「じゃあ次これ」
渡された服を見て、俺は眉をひそめる。
「待て。スカートじゃん」
「スカートだね」
「普通の服って言ったよな?」
「普通の服だよ?」
「俺にとって普通じゃねえ」
「今後必要になるかもしれないじゃん」
「何に?」
「色々」
「雑すぎるだろ」
千尋は完全に楽しんでいる。
「試すだけ」
「嫌だ」
「一回」
「嫌」
「似合わなかったらやめるから」
「似合ったら?」
「買う」
「罠じゃねえか」
少し離れたところにいた店員が、こちらを見て笑いを堪えている気がする。
やめてほしい。
俺にも尊厳がある。
たぶん、まだある。
「今日はパンツだけでいい」
「頑固」
「昨日まで二十六年間男だったんだぞ。二日目にスカートは早い」
「日数で決まるんだ」
「俺の中では決まる」
「じゃあ一週間後?」
「そういう話じゃねえ!」
結局、スカートは回避した。
千尋は少し残念そうだったが、これは俺の勝ちだ。
何に勝ったのかは分からない。
*
服を買った店を出てしばらく歩いたところで、今度は俺の方が足を止めた。
少し先を歩いていた千尋が振り返り、俺の視線の先を追う。そこに何があるのか分かったらしく、「ああ」とひどくあっさりした声を出した。
「ああ、じゃねえよ」
目の前にあるのは、女性用の下着を扱う店だった。
昨日までの俺なら、そもそも客として入ることを考えたことすらない。前を通ることくらいはあったし、付き合っていた相手の買い物に付き合った経験だってないわけではない。
それでも、自分自身がここで何かを選び、買って帰るという発想だけは、二十六年間一度も必要にならなかった。
それが今は違う。
「行くよ」
千尋は何でもないことのように言った。
「待てって」
「必要なんでしょ?」
「必要だけど」
必要なのは分かっている。
むしろ、朝からずっと分からされていたと言った方が正しい。歩いていても落ち着かないし、階段を下りる時も今までとは感覚が違う。昨日から自分の身体なのに扱い方が分からず、その理由の一つがここにあることくらい、俺にも理解できていた。
理解できていることと、抵抗なく店へ入れることは別問題だった。
「……俺、ここ入るの?」
千尋が俺を見る。それから店を見て、もう一度俺を見る。
「今の兄ちゃんが入らなくて誰が入るの?」
「そうなんだけどさ……」
理屈は完全に正しい。
店の前では女性客が当たり前のように出入りしている。その誰も俺を気に留めないし、今の俺だって周囲から見れば、その中の一人にしか見えないのだろう。
昨日まで男だったことも、今朝までこんな店に自分から入ったことがなかったことも、外から見れば何一つ分からない。
足を止めているのは、今の身体ではなく、昨日までの俺だった。
「ほら」
千尋が先に店へ入る。
「置いてくよ」
「……分かったよ」
諦めて、その後を追った。
*
店員に声をかけたのは千尋だった。
「すみません。この子、ちゃんとしたサイズが分からなくて」
「この子って言うな」
横から小声で訂正すると、店員は俺たちのやり取りに少しだけ笑い、それ以上何かを聞くこともなく穏やかに頷いた。
「かしこまりました。初めてでしたら、サイズの確認からご案内できますよ」
「お願いします」
千尋が自然に答える横で、俺も小さく頭を下げる。
今の俺が事情を一から説明する必要はない。
店員からすれば、下着のことをよく分かっていない女性客が一人来ただけなのだろう。その扱われ方はありがたい反面、また一つ、自分だけが昨日までの事情を抱えて取り残されているような感覚もあった。
「あの、ご希望のタイプなどはありますか?」
「タイプ?」
「はい。普段使いでしたら、着け心地が楽なものや、しっかり支えるものなどがありますが」
言葉自体は知っている。
意味だって分からないわけではない。
ただ、それを自分に当てはめて選べと言われた途端、何も分からなくなった。
俺は少し考えてから、結局一番率直な希望だけを口にした。
「……楽なのがいいです」
「最初はそれでいいと思いますよ」
店員が笑う。
妙に安心した。
横を見ると、千尋が少しだけ面白そうな顔をしている。
「何」
「いや」
「言いたいことあるなら言えよ」
「ちゃんと買い物できて偉いなと思って」
「子供扱いすんな」
*
一通り確認を終えたあと、店員が手元のメモを見ながらサイズを教えてくれた。
数字と、その後に続くアルファベット。
聞こえてはいた。
意味も分かった。
ただ、一度では自分のこととして処理できなかった。
「……すみません」
「はい?」
「今、何って言いました?」
店員がもう一度、同じサイズを口にする。
「…………G?」
「はい」
俺はしばらく黙った。
横を見ると、千尋まで妙に神妙な顔でこちらを見ている。
「Gって……あのG?」
「他に何のGがあるの」
千尋がとうとう吹き出した。
「知らねえよ!」
思ったより大きな声が出てしまい、慌てて周囲を見る。
店員も笑いを堪えているようだった。
「いや、だって……そんなある?」
「ありますね」
返ってきた答えは至って冷静だった。
俺は視線を下げる。
以前なら何も遮るものなく見えていたはずの足元は、今では少し身体を傾けないと確認しづらい。朝から何度も邪魔だと思ったし、歩けば今までとは違う重さを感じる。階段を使った時も、車でシートベルトを締めた時も、いちいち身体の前側に意識を持っていかれた。
身体が変わった事実そのものは、昨日病院で嫌というほど確認している。
それでも、こうして具体的な数字を告げられると、また別の意味で現実味が増した。
これは一時的に見た目が変わっているだけではない。
服のサイズも、靴のサイズも、日用品も変わった。
そして今、自分が身につけるものまで、昨日までとはまったく別の基準で選ばなければならなくなっている。
「……そりゃ、邪魔なわけだ」
ぽつりと漏らすと、千尋が呆れたようにこちらを見た。
「兄ちゃん、店でその感想言うのやめなよ」
「だって今日突然こうなったんだぞ」
「声」
「……すみません」
店員に謝ると、今度こそ普通に笑われた。
*
そこから先は、千尋と店員に助けてもらいながら、まず日常で困らなさそうなものを選んだ。
派手なものはいらない。装飾も必要ない。今の俺には見た目より、とにかく楽で、生活の邪魔にならないことの方が重要だった。
「これとこれなら使いやすそう」
千尋が二つを見比べる。
「お前、急に頼もしくなるな」
「普通に生活してれば多少は分かるよ」
「異文化……」
「昨日からそれ何回目?」
俺にとっては本当に異文化なのだから仕方ない。
千尋が別の商品へ目を向ける。
「もっと可愛いのもあるけど?」
「いらん」
「即答」
「まず普通に生活させろ」
「はいはい」
会計を済ませ、小さな紙袋を受け取る。
それだけのことだった。
けれど店を出た瞬間、俺は思っていた以上に深く息を吐いていた。
「……疲れた」
「そんなに?」
「服買うより難易度高かった」
千尋は笑ったが、俺としては冗談でも何でもない。
手の中の紙袋を見る。
昨日までなら、自分用として持ち歩くことなど考えもしなかったものだ。それを今日は自分で店に入り、自分に必要だから選び、自分の金で買った。
ただの日用品だ。
必要だから買っただけ。
なのに、こういう小さなことを一つずつ済ませるたびに、昨日までの生活から少しずつ離れていくような感覚がある。
「……慣れるのかな」
自然と声が出た。
「何に?」
「こういうの全部」
千尋はすぐには答えず、少しだけ考えた。
「慣れるんじゃない?」
それから、いつもの調子で続ける。
「私だって最初から全部知ってたわけじゃないし。兄ちゃんの場合、覚える時間がなさすぎるだけで」
「ああ……」
言われてみれば、そうなのかもしれない。
女になったからといって、最初から女としての生活を知っているわけではない。
俺は二十六年分を、昨日突然ゼロからやり直すことになっただけだ。
「昨日だからな」
「まだ二日目だね」
「そのカード、まだ強いよな?」
「今日は認める」
「明日は?」
「考えとく」
「厳しくない?」
笑いながら、紙袋を持ち直す。
昨日まで知らなかったものが、少しずつ俺の日常へ入り込んでくる。
嫌だと思うこともある。
恥ずかしいこともある。
このまま慣れてしまっていいのか、と妙な不安を覚える瞬間もある。
それでも、少なくとも朝から感じていた身体の不便さの一つは、これで多少マシになるらしい。
今はそれでいい。
*
買い物を一通り終えた頃には、両手の荷物もそれなりの量になっていた。
トップス。パンツ。パーカー。部屋着。靴。そして、昨日までなら自分のものとして数えることすらなかった日用品。
「……結構使ったな」
「最初だからね」
「これ毎回じゃないよな?」
「毎回こんなに買わないって」
それならまだ安心できる。
モールの中を歩いている途中、ふとショーウィンドウに自分たちの姿が映った。
俺は無意識に足を止める。
ガラスの向こうにいるのは、二十二歳の千尋と、その横を歩く千尋より頭一つ近く小さい、長い黒髪の女だった。
昨日までなら、俺の方がずっと大きかった。
今は完全に逆だ。
「……姉妹に見える?」
思わず聞く。
千尋もガラスを見る。
「たぶん」
「そっか」
「兄妹には見えないと思う」
「そりゃそうだよな」
何でもない答えだった。
それでも少しだけ胸の奥に残る。
昨日まで、千尋は俺の妹だった。
今日ももちろん妹だ。
俺たちの間では何も変わっていない。
ただ、外から見える関係だけはもう違う。
「変だな」
「まだ言う?」
「言うよ。昨日だぞ」
千尋も少しだけガラスの中を眺めた。
「私も変だよ」
「お前も?」
「そりゃそうでしょ」
その言葉を聞いたのは初めてだった。
昨日から千尋はずっと俺を面白がっているように見えたし、買い物だって妙に楽しそうだった。
でも、こいつにとっても兄が一晩で別人みたいな姿になったのだ。
全部を簡単に受け入れられているわけではないのだろう。
「でも」
千尋が先に歩き出す。
「兄ちゃんは兄ちゃんだし」
「……おう」
「ちっちゃいけど」
「余計な一言入れるな!」
千尋が笑う。
俺も追いかける。
以前よりずっと小さくなった歩幅で、少し早足になりながら。
*
「で、次」
千尋が言った。
「まだあるのかよ」
「あるよ」
「今度は何」
千尋の視線が俺の頭から、その後ろへ流れる。
腰近くまで残っている黒髪。
「美容院」
その言葉だけは、今日初めて何の抵抗もなかった。
「行こう」
「即答だね」
「これだけは本当にもう無理」
「そんな嫌?」
「朝、自分の髪に絡まって起きた」
千尋が吹き出す。
「笑うな」
「ごめんって」
「今日絶対切るからな」
「分かった分かった」
千尋がスマホを確認する。
「予約、三十分後」
「もう取ってあんの?」
「昨日のうちに」
「準備良すぎだろ」
「任せてって言ったじゃん」
そうだった。
俺は息を吐き、ショーウィンドウへもう一度目を向ける。
そこには腰近くまで黒髪を伸ばした、小柄な女が立っている。
今の俺になって最初に鏡で見た姿。
たった二日しか付き合っていない。
それでも、この髪を切れば。
少しだけ。
『女になった直後の俺』から先へ進む気がした。
「……ショートボブだっけ」
「そう」
「似合わなかったらお前のせいだからな」
「絶対似合うって」
「自信あるな」
「ある」
千尋が先を歩き出す。
俺もその後を追った。
朝よりは人混みに慣れた。
靴を買った。
女物の服を選んだ。
自分の身体に必要なものも買った。
妹と並んで街を歩いた。
知らない人から見れば、俺は最初からこういう人間だったように見えるのだろう。
昨日までの俺を知っているのは、自分だけではない。
千尋も。
蓮も。
俺がどういう人間だったのか、ちゃんと知っている。
そう考えると、不思議と少しだけ楽になった。
「兄ちゃん、早く」
「お前が早いんだよ!」
「美容院遅れる」
「百四十八の歩幅を考慮しろ!」
「慣れて」
「昨日まで百七十六だったんだぞ!」
「そのカード、さっきより弱くなってない?」
「まだ二日目だ!」
千尋が笑う。
俺も、今度は普通に笑った。
そして長い髪を揺らしながら、自分で選んだ女物の服と、昨日までなら必要になることすら想像していなかったものが入った袋を手に、美容院へ向かった。




