とりあえず、着るものがない
家に戻った頃には、もう夕方だった。
玄関を開ける。
朝と同じ部屋。
朝と同じ靴箱。
朝と同じ家具。
何も変わっていない。
ただし、そこに住んでいる俺だけが百七十六センチの男から百四十八センチの女になっている。
「……ただいま」
何となく口にしてから、自分の声にまだ少し違和感を覚えた。
「お邪魔します」
後ろから蓮が入ってくる。
俺は買ったばかりのサンダルを脱ぎ、いつものスリッパへ足を入れた。
ぶかぶかだった。
「…………」
一歩。
ぱか。
もう一歩。
ぱか。
「何それ」
「笑うな」
「いや、だって」
「昨日まで普通に履けてたんだよ」
「買い替えだな」
「スリッパまで?」
朝から何度目か分からない絶望を感じた。
靴。
服。
下着。
スリッパ。
何なら椅子や棚の高さまで合っていない。
身体が変わるというのは、どうやら想像していたよりずっと細かいところまで生活を壊すらしい。
俺はリビングへ入り、そのままソファへ腰を下ろした。
「疲れた……」
背もたれへ身体を預ける。
長い髪が背中との間に挟まった。
「痛っ」
身体を起こして髪を引き抜く。
「これ本当に切りてえ」
「今日行く?」
「美容院?」
「うん」
俺は自分の格好を見る。
ぶかぶかのTシャツ。
どうにか腰に引っかかっているスウェット。
サンダル。
長い髪。
「……この格好で?」
蓮も俺を見た。
「先に服だな」
「だろ?」
そこで俺たちは、ほぼ同時に黙った。
服。
言葉にすれば簡単だった。
買えばいい。
金はある。
店もある。
だが。
「……何買えばいいんだ?」
俺が言う。
蓮が腕を組む。
「服」
「それは知ってる」
「Tシャツとか」
「サイズは?」
「……S?」
「俺が聞いてんだよ」
「俺だって知らねえよ!」
蓮に女性服のサイズを聞いた俺が悪かった。
二十六年間男として生きてきた俺と、同じく二十六年間男として生きてきた蓮。
二人集まったところで女性服についての知識が増えるわけではない。
「ネットで調べれば?」
「そうするか」
俺はスマホを取り出した。
女性服。
サイズ。
身長百四十八センチ。
検索する。
色々出てくる。
XS。
S。
5号。
7号。
低身長向け。
小柄女性向け。
プチサイズ。
「……暗号?」
「俺に見せんな」
蓮も知らないらしい。
さらに問題がある。
俺は自分の胸元を見る。
否。
見ようとして、途中で視界を塞ぐものを見る。
朝から散々存在感を主張し続けている。
病院でも検査されてしまったので、もう現実逃避にも限界があった。
「これもサイズ関係あるよな」
「……あるだろうな」
蓮の視線が一瞬こちらへ向く。
俺は即座に睨んだ。
「見るな」
「見てねえよ」
「今見た」
「話題に出したのお前だろ!」
「だからって見る必要ねえだろ!」
蓮が天井を見た。
「めんどくせえな今のお前!」
「俺だって好きでめんどくさくなってねえよ!」
まったくである。
そもそも今の俺は、朝から男物のTシャツ一枚で全部どうにかしている。
病院へ行くだけで疲れた理由の一部については、もう薄々分かっていた。
歩くたびに気になる。
階段でも気になる。
車に乗っても気になる。
シートベルトまで邪魔。
それが当たり前の身体らしいと言われても、俺にとっては今日突然追加された重量物でしかない。
「……これ、なんか着けるんだよな」
俺が言う。
「何を」
「分かってて聞いてるだろ」
「いや」
「ブラだよ!」
言ってから、俺は顔を覆った。
自分の口からその単語が出た。
今日一日で精神的に何歳くらい老けただろう。
「……必要だろうな」
蓮が慎重に答える。
「だよな」
「うん」
「…………」
「…………」
二人で黙った。
「買いに行くか?」
蓮が言う。
「お前と?」
「俺だって嫌だよ!」
「じゃあ言うなよ!」
「必要なんだろ!」
「必要だけど!」
俺は頭を抱えた。
長い髪が腕から零れ落ちる。
服を買うだけ。
朝までなら何の問題もなかった。
店へ行って、自分のサイズを見て、適当に気に入ったものを選ぶ。
それだけだった。
今は違う。
サイズが分からない。
形も分からない。
何が必要なのかすら分からない。
そもそも。
「……どうやってサイズ調べんの?」
「検索すれば」
「お前検索して」
「なんで」
「俺ちょっともう嫌」
「諦め早くない?」
「朝から俺が処理した情報量考えろ」
「それはまあ」
蓮がスマホを操作する。
しばらくして、動きが止まった。
「悠真」
「何」
「これ」
差し出された画面を見る。
測り方。
アンダー。
トップ。
カップ。
メジャーを使って――
そこまで読んで俺は画面を伏せた。
「無理」
「早いって」
「一人でやるの?」
「まあ」
「合ってるかどうかも分かんねえのに?」
「店で測ってもらうとか」
「もっと無理」
即答した。
知らない店員相手に、
昨日まで男でした。
今日から女になりました。
サイズ分からないのでお願いします。
などと説明できる精神力は、今の俺には残っていない。
「じゃあどうすんだよ」
「…………」
分からない。
俺はソファに沈んだ。
蓮も向かいの椅子へ座る。
二人で考える。
そして蓮が言った。
「女性に聞くしかなくない?」
「女性」
「うん」
思い浮かぶ顔はいくつかある。
まず美琴。
却下。
好きな女に、
朝起きたら女になったから下着選ぶの手伝って。
なんて言えるわけがない。
そのくらいなら一生このTシャツで過ごす。
「美琴ちゃんは?」
「殺すぞ」
「ですよね」
次。
会社の女性社員。
論外。
こんな話を会社より先に個人的に相談したら、明日の朝には社内の半分へ広まっている気がする。
親。
母親。
「…………」
「お母さん?」
「やだ」
「子どもか」
「二十六歳の息子から突然『ブラ分からないから教えて』って言われる母親の気持ち考えろ」
「息子ではあるけど今は」
「言うな」
残る。
一人。
「……いるじゃん」
蓮が言った。
俺も同じ人物を思い浮かべていた。
「いるな」
「千尋ちゃん」
「…………」
香坂千尋。
俺の妹。
四つ下の二十二歳。
社会人一年目。
別に仲が悪いわけじゃない。
喧嘩しているわけでもない。
ただ、ここ数年はそれほど頻繁に連絡を取っていなかった。
実家へ帰れば普通に喋る。
LINEも知っている。
誕生日には一応メッセージくらい送る。
ただ、それだけ。
兄妹としてはたぶん普通だ。
少なくとも、
突然女になった兄が女性用品について相談できるほど仲が良かった記憶はない。
「……嫌だな」
「さっきから全部嫌じゃん」
「全部嫌なんだから仕方ないだろ」
「でも一番マシだろ」
それは認める。
知らない店員よりは。
美琴よりは。
母親よりは。
圧倒的にマシだ。
「…………」
スマホを持つ。
千尋とのトーク画面を開く。
最後のやり取り。
三か月前。
俺が実家へ帰る日程について聞いている。
その前。
正月。
その前。
半年以上前。
「距離あるなー」
横から蓮が言った。
「見るなよ」
「兄妹ってそんなもんだろ」
たぶんそうだ。
文章を打つ。
『今暇?』
消す。
何だそのナンパみたいな入り。
もう一度。
『ちょっと相談ある』
違う。
絶対に「金?」って返ってくる。
『信じられないと思うんだけど』
怪しい宗教みたいだ。
「……電話しろよ」
「うるせえ」
「文章じゃ無理だろこれ」
正論だった。
俺は大きく息を吸った。
電話ボタンを押す。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
切りたい。
四回目で繋がった。
『もしもし?』
久しぶりに聞く妹の声。
「……千尋?」
『はい?』
「あー……俺」
沈黙。
『誰ですか?』
「…………」
今日二回目だった。
「悠真」
『は?』
「兄ちゃん」
また沈黙。
『…………は?』
「俺もそう思う」
『え、待って。誰?』
「だから兄ちゃん」
『何? 兄ちゃんのスマホ盗んだ?』
「盗んでねえよ!」
『じゃあ何で女の人が出るの!?』
当然の反応である。
蓮が向かいで笑いを堪えている。
俺は睨んだ。
「ちょっと事情があって」
『どういう事情で兄ちゃんが女になるの』
「その説明するために電話してんだよ!」
『意味分かんないんだけど!』
「俺も分かってねえよ!」
兄妹揃って声を荒らげた。
妙に懐かしい。
昔はこんな感じでよく喧嘩した気がする。
『……本当に兄ちゃん?』
少しだけ千尋の声が真面目になる。
「本当」
『じゃあ私が小学生の時、お母さんに黙って兄ちゃんのゲーム壊したの何?』
「お前今まで猫が落としたって言ってなかった!?」
『…………』
「おい」
『あ』
「お前だったの!?」
『今そこどうでもいいでしょ!』
「よくねえよ! 十年以上越しに真相判明したんだけど!」
『やっぱ兄ちゃんだ』
「こんな証明のされ方納得いかねえ!」
向かいで蓮が完全に笑っていた。
あとで殴る。
今の脚でどのくらい効くか知らないけど殴る。
『……で、本当に何があったの』
「朝起きたら」
言葉を選ぶ。
選びようがなかった。
「女になってた」
『…………』
「病院行ってきた」
『…………』
「そういう現象、実際にあるんだって」
『…………』
「おい?」
『ちょっと待って』
千尋が言った。
『ビデオ通話して』
「は?」
『見ないと信じられない』
「いや」
『早く』
「ちょっと待てって」
画面が切り替わった。
千尋からビデオ通話の要求。
俺は固まった。
自分の姿を見る。
男物のTシャツ。
長い髪。
蓮が適当に結んだ跡。
化粧なんて当然していない。
「……これ映すの?」
「妹だろ」
蓮が言う。
「お前簡単に言うなよ」
『聞こえてるからね』
スマホから千尋の声。
「あ」
『今男の人いる?』
「蓮」
『相沢さん?』
「そう」
『じゃあ本当なの……?』
蓮の存在で信用度が増したらしい。
俺は覚悟を決めて、ビデオ通話を許可した。
画面に千尋が映る。
仕事帰りなのか、髪を後ろでまとめている。
向こうもこちらを見る。
「…………」
『…………』
長い。
非常に長い沈黙だった。
千尋の目が少しずつ大きくなる。
『……誰?』
「兄ちゃん」
『いや』
「俺」
『…………』
画面の向こうで千尋がスマホへ顔を近づけた。
俺も何となく近づく。
『ちょっと横向いて』
「何で」
『いいから』
横を向く。
『戻って』
戻る。
『笑ってみて』
「嫌だよ」
『兄ちゃん、笑った時右側だけちょっと上がるから』
「……」
仕方なく笑ってみる。
自分でもものすごく引きつった笑顔だと思う。
千尋が固まった。
『…………兄ちゃんだ』
「だから言ってんだろ」
『え』
千尋がまた俺を見る。
今度は画面の上から下まで確認するような視線。
『えっ』
「何」
『ちょっと待って』
「何だよ」
『めっちゃ女じゃん』
「病院でも言われたよ!」
『そういう意味じゃなくて』
「じゃあどういう意味だよ!」
『いや……』
千尋が何か言いかける。
止まる。
また見る。
『…………ちっちゃ』
「お前もか!」
蓮が吹き出した。
「笑うな!」
『何センチ?』
「百四十八」
『私より全然ちっちゃいじゃん!』
「うるせえ!」
『え、待って待って』
今度は千尋が妙に楽しそうになってきた。
『髪どうしたの、それ』
「勝手に伸びた」
『長っ』
「邪魔だから切りたい」
『待って』
「何」
『勝手に切らないで』
「は?」
『あと服は?』
俺は自分のTシャツを見る。
「ない」
『下着』
「…………」
千尋の顔を見る。
俺は少しだけ視線を逸らした。
「……ない」
向こうが黙った。
「だから」
俺は咳払いする。
「その辺、ちょっと教えてほしくて」
また沈黙。
そして。
千尋の口元が、ゆっくり上がった。
嫌な予感がした。
『分かった』
「何その顔」
『今から行く』
「いや待て」
『服も持ってく』
「助かるけど」
『あとメイク道具』
「いらない」
『ヘアアイロン』
「いらない」
『家にあった服も適当に持ってくね』
「話聞け」
『相沢さん、まだいる?』
蓮が俺の横から画面へ入った。
「いるよ」
『兄ちゃん逃がさないでください』
「了解」
「おい!」
『じゃあ一時間くらい』
「千尋」
『何?』
「お前」
嫌な予感しかしない。
「楽しんでない?」
千尋は一瞬だけ黙った。
そして。
満面の笑みを浮かべた。
『まさか』
絶対に楽しんでいる。
通話が切れた。
俺はしばらく黒くなった画面を見つめた。
「…………」
蓮が俺の肩へ手を置いた。
「よかったな」
「何が」
「頼れる妹がいて」
「……そうだな」
それ自体は本当にそう思う。
思うのだが。
俺は自分の長い髪を見る。
ぶかぶかの服を見る。
それから、さっきの千尋の笑顔を思い出した。
「なんか」
「うん」
「病院行った時より怖くなってきた」
その一時間後。
インターホンが鳴った。




