戻った人はいないらしい
病院へ行くまでの間に、俺はひとつ大きな問題に気づいた。
「……外出られなくない?」
玄関に立ったまま、俺は自分の格好を見下ろした。
正確には、見下ろそうとして胸元に視界を邪魔され、少し身体を横へずらして確認した。
ぶかぶかのTシャツ。
紐を限界まで絞ったスウェット。
腰まであった髪は蓮にまとめてもらったものの、どう見ても寝起きの女が男物の服を無理矢理着ている。
「まあ……」
蓮が少し考える。
「変ではある」
「だよな」
「でも病院行くだけなら」
「お前はこの格好で電車乗れんの?」
「俺なら無理」
「だろ」
即答するな。
俺は玄関脇の鏡を見る。
何度見ても慣れない。
身長百五十センチ程度と思われる、小柄な女。
長い黒髪。
妙に整った顔。
そのくせ服だけは完全に男物。
一言で言えば、事情がありそうだった。
「……車出すか」
蓮が言った。
「お前、昨日飲んでただろ」
「もう昼だぞ」
「大丈夫か?」
「飲んだ量、お前とそんな変わんねえよ」
少し考えて、俺は頷いた。
電車よりは遥かにマシだ。
「じゃあ頼む」
「その前に」
蓮が俺の足元を見る。
「靴どうすんの」
「…………」
俺も見る。
昨日まで履いていたスニーカー。
当然、今の足にはでかすぎた。
「詰んだな」
「詰んでねえよ」
結局、蓮が近くの店までサンダルを買いに行った。
俺はその間、家から一歩も出なかった。
ほんの数時間前まで普通に暮らしていた自分の家が、急に避難所みたいに思えてきた。
*
連れてこられたのは、近所でも比較的大きな総合病院だった。
事前に電話した時点で事情を説明している。
正確には、蓮が説明した。
俺は横で聞いていただけだ。
『昨日まで男性だった友人が、朝起きたら女性になっていまして』
という文章を、こいつはよく真顔で言えたと思う。
電話口の向こうも最初は当然困っていたが、途中で担当が変わった。
そこから妙に話が早くなった。
その理由は、病院へ着いてすぐ分かった。
受付で名前を告げると、通常の待合ではなく別室へ案内された。
「香坂悠真さんですね」
白衣を着た男性医師が入ってくる。
五十歳前後。
眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の人だった。
俺は頷く。
「はい」
自分の名前を、この声で答えることにもまだ慣れない。
医師は俺と蓮を一度見比べ、それから椅子へ座った。
「まず、かなり驚かれていると思います」
「まあ……はい」
「ですが、先にひとつお伝えしておきます」
医師が資料を机に置いた。
「香坂さんのような事例は、過去にも確認されています」
「…………は?」
俺と蓮の声が重なった。
医師は慣れているのか、特に反応しなかった。
「非常に稀ですが、同様の現象は国内外で複数報告されています。医学的な正式名称についてはいまだ統一されていませんが、国内では便宜上、『転性現象』と呼ばれることが多いです」
「転性……」
聞いたことがあるような。
ないような。
いや。
「もしかして、ニュースで昔やってたやつ?」
蓮が言った。
医師が頷く。
「おそらくそれです」
俺も記憶を探る。
確かに昔、そんなニュースを見た気がする。
男だった人が突然女性になったとか。
逆もあるとか。
当時は都市伝説みたいな感覚で流し見していた。
まさか。
「本当にあったんですか、あれ」
「あります」
即答だった。
「ただし発生件数が極端に少ないため、多くの方にとっては現実味の薄い話でしょうね」
そりゃそうだ。
俺だって昨日までそうだった。
「……じゃあ」
少しだけ、期待した。
前例があるなら。
「戻す方法もあるんですか?」
医師が黙った。
ほんの一秒。
それだけだった。
でも、その間で何となく答えが分かった。
「現時点で」
医師はゆっくり言った。
「元の身体へ戻ったと医学的に確認された例は、ありません」
「…………」
部屋が静かになった。
隣を見る。
蓮も何も言わなかった。
「……一人も?」
「少なくとも公的に確認された事例では」
俺は椅子の背にもたれた。
目の前の机を見る。
今朝から散々おかしなことが続いていた。
身体が小さい。
声が違う。
胸が邪魔。
髪が長い。
靴が履けない。
全部、現実感がなかった。
でも。
『戻った例はない』
その一言だけは、妙に現実的だった。
「じゃあ俺……」
言いかけて、止まる。
このまま。
という言葉を口にしたくなかった。
医師も急かさなかった。
「まずは検査をしましょう」
少し間を置いてから言う。
「現在の身体状態を確認します。それから、香坂さんご本人であることを確認するための手続きについてもご説明します」
「本人確認って」
「こうした事例向けの制度があります」
「あるんですか」
「過去の当事者の方々がかなり苦労されたそうで」
医師が少しだけ苦笑した。
「戸籍、保険証、免許証、銀行口座、勤務先。外見が一夜で変わると、当然すべて問題になりますから」
「……でしょうね」
もう嫌になるほど想像できる。
「現在は、複数の本人確認情報と医療機関での検査結果を合わせて、『転性現象確認書』という書類を発行できます。行政手続きについても特例があります」
「そこまであるんだ……」
蓮が感心したように言う。
俺は感心する余裕がなかった。
制度が整っているということは。
つまり。
それだけ、俺と同じ状態になった人間が過去にいたということだ。
*
検査は長かった。
血液。
画像。
身長。
体重。
その他諸々。
途中から俺は考えるのをやめた。
身長は百四十八センチ。
数字で言われると改めて腹が立った。
昨日から二十八センチ減っている。
「二十八って」
診察室へ戻る途中、俺は呟いた。
「小学生一人分くらい?」
蓮が言う。
「ぶっ飛ばすぞ」
「でも百四十八か」
「何だよ」
「思ったより小さい」
「まだ言うか」
蓮の脛を蹴る。
やっぱり大して効かない。
それも腹が立った。
最終的に再び診察室へ呼ばれたのは、病院へ来てからかなり経ってからだった。
さっきの医師が検査結果を見ている。
俺と蓮が座る。
「結論からお伝えします」
医師が言った。
「現在の香坂さんの身体は、医学的には健康な成人女性の身体です」
「……完全に?」
「はい」
俺は自分の膝を見る。
細い脚。
男物のスウェット。
買ってもらったばかりのサンダル。
「見た目だけじゃなく?」
「内臓、骨格、内分泌系を含め、現時点で確認した範囲では女性として矛盾する部分はありません」
俺は黙った。
そこまで来ると、もう笑えない。
蓮もさすがに何も言わなかった。
「年齢については?」
俺が聞く。
「実年齢は当然二十六歳のままです。ただ、身体的にはやや若く見える状態ですね。個人差がありますが、転性現象では外見年齢に若干の変化が出る例も確認されています」
「じゃあ、二十二とか三とかに見えるのも」
「不自然ではありません」
「得なのか損なのか分かんねえな……」
思わず漏らす。
医師が少し笑った。
「そこは香坂さん次第ですね」
「今のところ損しか感じてないです」
「それも多くの方が最初はおっしゃいます」
その言葉が引っかかった。
「……最初は?」
「はい」
医師は資料を一枚めくった。
「生活に適応される方もいます。結婚された方もいますし、新しい職場で生活されている方もいます」
「結婚……」
何となく聞き流しかけた。
その時。
医師がさらに続けた。
「妊娠、出産された事例もあります」
「…………」
時間が止まった。
「え」
我ながら間の抜けた声だった。
医師はいたって真面目な顔をしている。
「転性後の女性身体に生殖能力が確認された例があります」
「……俺も?」
「検査結果を見る限り、可能性はあると考えられます」
「…………」
俺は蓮を見た。
蓮も俺を見る。
二人とも何も言わない。
俺はもう一度医師を見る。
「つまり」
「はい」
「俺……子ども産めるんですか」
「医学的には、その可能性が高いです」
「…………ちょっと待ってください」
「はい」
「情報量が多いです」
医師が頷いた。
「そうですよね」
理解がある。
助かる。
全然助からない。
俺は額を押さえた。
朝起きたら女になっていた。
戻った例はない。
身長百四十八センチ。
身体は完全に女性。
そして子どもまで産める可能性がある。
今日一日で人生何回ひっくり返るんだ。
「ちなみに」
蓮が口を開いた。
「一番最初の人って、今どうしてるんですか」
「国内で最初期に公表された方でしょうか」
「はい」
医師は少し考える。
「私生活について公表されている範囲ですが、現在は結婚されていて、お子さんが三人いらっしゃいます」
「三人」
俺が反射的に言った。
三人。
一人でもなく。
二人でもなく。
三人。
「…………」
頭の中に、全く知らない未来が一瞬だけ浮かびかけた。
誰かと結婚して。
家があって。
子どもが三人いて。
その中心に。
今のこの身体の俺がいる。
「いやいやいや」
思考を振り払った。
早い。
朝起きてまだ半日も経っていない。
将来設計まで女になる必要はない。
「まずは今日のことだけ考えましょう」
医師が言った。
心を読まれたみたいだった。
「今日は無理に結論を出す必要はありません。ご家族や勤務先への説明、今後の生活について相談できる窓口もあります」
「相談窓口?」
「当事者の互助団体もあります。病院から紹介できます」
「あるんですね、そんなの」
「はい。ただ」
医師が少しだけ言葉を選んだ。
「合う、合わないはあると思います」
「……どういう意味です?」
「それは実際に利用されるなら、ご自身で判断してください」
妙な含み方だった。
蓮も少し首を傾げる。
けれど今は、それ以上聞く気力がなかった。
*
病院を出た時には、夕方が近かった。
空気が少し冷えている。
俺は駐車場を歩きながら、風に揺れる長い髪を片手で押さえた。
「……切りたい」
最初に出た言葉がそれだった。
「そこ?」
蓮が言う。
「ずっと邪魔なんだよ」
「まあ、それは分かる」
「あと服」
「それもいるな」
「靴も」
「買っただろ」
「サンダル一足で生きろって?」
「秋冬どうすんだろうな」
「知らねえよ」
そんな話をしながら車へ向かう。
いつもの会話みたいだった。
でも。
助手席へ乗り込み、シートベルトを引いたところで、俺は手を止めた。
胸元でベルトが妙な位置を通る。
今までとは違う。
またひとつ。
どうでもいいようなことで、身体が変わったことを思い知らされる。
「……なあ、蓮」
「ん?」
運転席でシートベルトを締めながら、蓮がこちらを見る。
「俺、戻れないらしいぞ」
蓮の手が止まった。
「……そうだな」
病院でも聞いていた。
それでも口にすると、重さが違った。
「ずっとこれってことだろ」
「今のところは」
「百四十八で?」
「そこ重要?」
「重要だろ」
蓮が少し笑う。
俺も笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
車内が静かになる。
「……怖い?」
蓮が聞いた。
俺は窓の外を見た。
駐車場を歩く人。
家族連れ。
仕事帰りらしい男。
全部、昨日までなら何も考えずに見ていた人たちだった。
「分かんねえ」
正直に答えた。
「まだ何が怖いのかも分かんねえよ」
声。
身長。
身体。
仕事。
家族。
美琴。
蓮。
これから全部、どうなるのか分からない。
「でも」
俺は息を吐いた。
「とりあえず」
「うん」
「髪切りたい」
蓮が吹き出した。
「結局そこかよ」
「いやほんと邪魔なんだって!」
「分かった分かった」
「あと服!」
「はいはい」
「笑うな!」
俺もつられて少し笑った。
たぶん今は、それくらいでよかった。
戻れない未来のことなんて。
まだ考えられるほど、俺は今日の身体にすら慣れていなかった。




