親友が俺を見下ろしている
インターホンが鳴った。
電話を切ってから、たぶん二十分も経っていない。
俺は玄関へ向かいながら、途中で一度立ち止まった。
長い髪が邪魔だった。
さっきから腕や背中にまとわりついて鬱陶しいので、家にあった輪ゴムで適当にまとめてみたのだが、どうにも収まりが悪い。
鏡を見る。
ぶかぶかのTシャツ。
下は昨日履いていたスウェットをどうにか紐で絞っている。
髪は適当に後ろで束ねたせいで、ところどころ飛び出している。
そして何より。
小さい。
自分で見ても、小さい。
「……どう説明すんだよ、これ」
もう一度インターホンが鳴った。
『おーい、悠真』
聞き慣れた蓮の声。
俺は数秒迷ってから、鍵を開けた。
ドアを少しだけ開く。
蓮が立っていた。
昨日と同じ顔だった。
少し寝癖が残っていて、ラフなパーカー姿。
当たり前だ。
変わったのは俺だけなのだから。
蓮は開いたドアの隙間から俺を見た。
「……」
俺も蓮を見る。
「……」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
蓮の視線が、俺の顔から一度下へ落ちる。
それからまた顔へ戻ってくる。
「……誰?」
「だから俺だよ」
昨日までとはまるで違う高い声が玄関に響いた。
蓮が眉を寄せる。
「悠真は?」
「だから俺」
「いや」
「何だよ」
「いやいやいやいや」
蓮が一歩下がった。
「誰?」
「さっき電話で説明しただろ!」
「説明されてねえよ! 『来い』しか言われてねえ!」
「そうだった」
「そうだったじゃねえよ!」
こいつの反応があまりにも普通で、逆に少し安心した。
俺だって同じ立場ならそうなる。
昨日まで百七十六センチあった男友達の家へ来たら、玄関から知らない女が出てきた。
しかも。
俺は蓮を見上げた。
「……でけえな、お前」
「俺は変わってねえよ」
「分かってる」
分かっているのに、変な感じだった。
昨日まではほとんど同じ高さだった。
話す時に首を上げる必要なんてなかったし、目線を合わせることも意識したことがない。
今は違う。
蓮の顔が、明らかに上にある。
思っていた以上に上だ。
「……ちょっと待って」
蓮が言った。
「何」
「ほんとに悠真?」
「だからそう言ってるだろ」
「証拠」
「証拠?」
「俺しか知らないこと」
「めんどくせえな」
「いいから」
俺は少し考えた。
「高校二年の夏、お前が文化祭の準備中に――」
「待て」
「まだ何も言ってねえだろ」
「それはやめろ」
「じゃあ大学一年の時、お前が初めて付き合った彼女と――」
「分かった。お前だ」
「早えな」
蓮が両手で顔を覆った。
「マジかよ……」
「俺もそう思ってる」
「いや、でも」
また俺を見る。
今度はさっきよりじっくり。
顔。
髪。
肩。
胸元。
そこで俺は反射的に腕を組んだ。
「見るな」
「いや見るだろ!」
「何でだよ」
「状況確認だよ!」
「胸見て状況確認すんな!」
「そこだけ見てねえ!」
「今見ただろ!」
「目に入るんだよ!」
言われて、俺は黙った。
それについては少し分かる。
俺自身、さっきから視線を下げるたびに嫌でも目に入る。
小さい身体に対して、どうにも存在感が強い。
「……まあ」
「何だよ」
「確かに目に入る」
「自分で納得すんな」
蓮が深く息を吐いた。
「とりあえず中入れて」
「ああ」
俺は横へずれた。
その時。
蓮が玄関を通ろうとして、また止まった。
「……悠真」
「何」
「お前、ほんと小さいな」
「殺すぞ」
「いや、悪い」
笑いそうになっている。
「今笑っただろ」
「笑ってない」
「口元」
「笑ってないって」
俺は蓮の脛を軽く蹴った。
つもりだった。
「痛っ」
「……あれ」
思ったより効いていない。
昔ならもう少し重い蹴りになったはずだ。
俺は自分の脚を見る。
細い。
筋肉のつき方も違う。
「力も落ちてんのかな」
「そりゃその身体ならな」
「言い方」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
分からない。
俺にも分からなかった。
リビングへ移動する。
蓮はいつもの場所に座った。
俺もいつものように向かいへ座ろうとして、途中でまた違和感を覚えた。
ソファが高い。
座る時に少し身体を持ち上げる感覚がある。
足が床につかない。
「……」
「何してんの」
「いや」
俺は足先をぶらぶらさせた。
「届かねえ」
蓮が吹き出した。
「笑うな!」
「いや無理だろ!」
「昨日まで普通に届いてたんだぞ!」
「知ってるから面白いんだよ!」
「お前なあ……」
俺はクッションを一つ蓮へ投げた。
軽い。
それも腹が立つ。
蓮は笑いながら受け取った。
その笑い声を聞いているうちに、少しだけ肩の力が抜けた。
昨日までと同じだった。
こいつの笑い方も。
俺に対する遠慮のなさも。
何も変わっていない。
少なくとも、今のところは。
「で」
蓮がようやく真面目な顔になった。
「何があった」
「知らん」
「知らん?」
「起きたらこうなってた」
「昨日帰ってから何か変なもん食ったとか」
「コンビニで水買っただけ」
「薬」
「飲んでない」
「変なサイト」
「何でサイト見たら女になるんだよ」
「知らねえよ。俺だって混乱してんだよ」
「俺もだよ」
二人で黙る。
さっきまで笑っていたのに、急に部屋が静かになった。
蓮が俺を見る。
「……身体は」
「何」
「痛いとか、具合悪いとか」
「今のところはない」
「本当に?」
「多分」
「多分多いな今日」
「しょうがねえだろ」
俺は髪を払う。
適当にまとめていたゴムが緩んで、長い髪がまた肩から落ちてきた。
「……あーもう」
「すごいな、それ」
「何が」
「髪」
「邪魔」
「昨日そんな長くなかったよな」
「見りゃ分かるだろ」
「いや、そうじゃなくて」
蓮が少し考える。
「身体が小さくなった分だけ、そのまま髪だけ残ったとか?」
俺も一瞬黙った。
「……それありそうだな」
「元々の長さがそのまま比率変わった的な」
「なるほど」
昨日までの百七十六センチの身体。
今の、百五十すらない身体。
もし変化の時に身体だけが一気に縮んで、髪の長さがその影響を受けなかったなら。
理屈として正しいのかどうかは知らない。
でも、今ある現象としては妙に納得できた。
「まあ、それはあとで切ればいいとして」
蓮が言う。
「問題はこっちだろ」
「こっち?」
蓮が俺全体を指した。
「全部」
「雑だな」
「細かく言ったら怒るだろ」
「内容による」
「じゃあ言わない」
「賢明だ」
蓮がスマホを取り出す。
「病院行こう」
俺は少し黙った。
やっぱりそこになる。
「どこ」
「とりあえず総合病院とか?」
「何科だよ」
「……内科?」
「内科でいいのか?」
「じゃあ婦人科?」
二人とも止まった。
「…………」
「…………」
蓮が俺を見る。
俺も蓮を見る。
「いや」
俺は先に首を振った。
「まだちょっと無理」
「何が」
「その単語を俺に向けて言うな」
「でも身体は」
「分かってるけど!」
頭では分かっている。
鏡も見た。
身体も見た。
けれど。
『婦人科へ行く自分』まで、一気に現実として受け入れるのはまだ早かった。
「じゃあ救急相談に電話するか」
「それがいい」
「話せる?」
俺はスマホを見た。
「……お前話して」
「何で俺が」
「俺が『昨日まで男だったんですけど』って言うより、お前が第三者として説明した方がまだ信用されるだろ」
「それ俺も頭おかしい奴だと思われない?」
「親友だろ」
「便利な言葉として使うな」
それでも蓮は電話番号を調べ始めた。
俺はその横顔を見ていた。
いつもの蓮だ。
本当に、何も変わっていない。
俺が女になったからといって、急に態度を変えるでもない。
困った顔をして。
笑って。
俺を馬鹿にして。
それから普通に、どうすればいいか考えている。
そのことが、思っていたよりありがたかった。
「……蓮」
「ん?」
「ありがとな」
蓮の指が止まる。
「何急に」
「いや」
「気持ち悪い」
「お前昨日も同じこと言ってなかった?」
「お前が言ったんだろ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
少しだけ笑う。
その時だった。
髪がまた肩から滑り落ちた。
俺は鬱陶しくなって、まとめ直そうとする。
けれど、長い髪なんて扱ったことがない。
手を後ろに回す。
絡まる。
ゴムを落とす。
「……くそ」
「貸せ」
「は?」
蓮がソファから立ち上がった。
俺の後ろへ回る。
「俺の姉貴、髪長かったから昔よくやらされた」
「何を」
「結ぶの」
「いや、でも」
「じっとしてろ」
「……おう」
言われるままに座る。
蓮の手が髪を集める。
首筋の近くを指が通った。
「っ」
俺の肩が小さく跳ねた。
蓮の手が止まる。
「……何」
「いや」
「痛かった?」
「違う」
「じゃあ何」
「……知らん」
本当に分からなかった。
ただ。
首の後ろを触られただけなのに。
昨日までなら何とも思わなかったはずなのに。
妙にくすぐったくて。
一瞬だけ、息が止まった。
「続けていい?」
「……いい」
蓮がまた髪を集める。
今度は俺も動かなかった。
少しして、後ろで髪が一つにまとまる。
「できた」
「早いな」
「姉貴で鍛えられた」
俺は立ち上がり、洗面所の鏡を見る。
さっきよりはマシだった。
長い髪を後ろで束ねた、小さな女。
やっぱり知らない。
でも。
「……似合うじゃん」
後ろから蓮が言った。
「殺すぞ」
反射的に返した。
蓮が笑う。
俺も少しだけ笑った。
いつものやり取り。
それなのに。
さっき首筋に触れた指の感覚だけが、なぜかまだ残っていた。




