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女になった俺と、距離感がおかしくなった奴ら  作者: わかめ
女になった俺

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1/24

朝起きたら、俺がいなかった


金曜の夜だった。


週末だからといって何か特別な予定があるわけでもなく、俺――香坂悠真は、駅前の居酒屋で高校時代からの親友と酒を飲んでいた。


「で?」


向かいに座る相沢蓮が、焼き鳥の串を皿に置きながら言った。


「で、って何が」


「美琴」


「なんでそこで美琴が出てくるんだよ」


「この前また二人で飯行ったんだろ?」


俺は答える代わりにジョッキを持ち上げ、残っていたビールを一口飲んだ。


水瀬美琴。


共通の友人を介して知り合って、もう何年かになる。


二人で飯に行くこともあるし、向こうから連絡が来ることもある。誘えば普通に来るし、話していて居心地も悪くない。


そして俺が、まあ――多少なりとも好意を持っている相手でもあった。


多少、というのは見栄だ。


結構好きだった。


ただ、美琴の方は俺を嫌ってはいないと思うものの、男として強く意識している様子もない。


脈なしと言い切るほど遠くない。


かといって、あと一歩踏み込めばどうにかなりそうなほど近くもない。


実に困る距離だった。


「飯食っただけだよ」


「それ何回目?」


「知らん」


「何年その状態やってんだよ」


「うるせえな」


俺はジョッキを置き、今度はこちらから話題を投げ返した。


「お前こそどうなんだよ。倉田さん」


蓮の箸がわずかに止まった。


「真帆な」


「名前呼びになってんじゃん」


「向こうがそう呼べって言ったんだよ」


「へえ」


「その顔やめろ」


蓮には最近、何度か二人で会っている女がいる。


倉田真帆。


俺はまだ直接会ったことはない。


ただ、蓮から話を聞く限りでは、かなりいい感じらしかった。


二人で食事に行く。


休日にも会う。


向こうから連絡も来る。


たぶん、あと何回かデートでもすれば普通に付き合う。


そのくらいの距離だ。


「もう告っちゃえよ」


「お前がそれ言う?」


「何が」


「美琴にずっと告ってない奴が」


「ずっとって言うな」


「じゃあ何年?」


「……二年くらい?」


「十分だろ」


「タイミングってもんがあんだよ」


「二年間ずっとタイミング探してんの?」


「殺すぞ」


蓮が笑う。


俺もつられて笑った。


高校一年で知り合ってから、もう十年以上になる。


学生時代は互いの家に泊まり、旅行にも行った。


大学は別だったが、それで疎遠になることもなかった。社会人になってからも、こうして仕事終わりに酒を飲む。


終電を逃して朝まで飲んだこともある。


宿が見つからず、二人でラブホテルに入って、ベッドに転がって寝ただけという色気の欠片もない夜まであった。


今さら互いに格好をつけるような関係ではない。


身長もほとんど同じだった。


俺が百七十六。


蓮が確か百七十七くらい。


並んで歩けば目線もほぼ同じで、肩を組むにも、酔った方を支えるにも、特に何も考える必要がなかった。


それが当たり前だった。


「まあ、お前もいい加減なんとかしろよ」


蓮が言う。


「お前もな」


「俺の方が先に彼女できたりして」


「そしたら祝ってやるよ」


「泣くなよ?」


「なんで俺が泣くんだよ。気持ち悪い」


また笑った。


本当に、何でもない夜だった。


少なくとも、その時の俺はそう思っていた。


     *


家に着いた時には、日付が変わっていた。


酔ってはいたが、記憶が飛ぶほどじゃない。


適当にシャワーを浴びて、髪を乾かし、スマホを充電器に差す。


明日は休みだ。


昼まで寝る。


それだけ決めて、俺は布団に潜り込んだ。


仕事もない。


予定もない。


目覚ましもかけなかった。


だから翌朝――というより、昼近く。


俺が目を覚ましたのは、腹のあたりに妙な違和感を覚えたからだった。


「……ん」


寝返りを打つ。


そこでまず、おかしいと思った。


布団が重い。


いや。


布団そのものが重くなったというより、自分の身体が妙に小さくなったような感覚がある。


寝ぼけたまま手を伸ばし、枕元のスマホを探す。


届かない。


「……あれ」


いつも置いている場所だ。


もう少し腕を伸ばす。


やっぱり届かない。


「なんだよ……」


口から出た声に、俺は動きを止めた。


高い。


聞き慣れない声だった。


風邪を引いたとか、酒で喉をやられたとか、そういう違いじゃない。


根本的に違う。


「…………は?」


もう一度、声を出す。


「は?」


やっぱり高い。


俺は勢いよく上半身を起こした。


その瞬間、黒いものが肩から胸元へばさりと落ちてきた。


「……は?」


髪だった。


長い。


昨日まで耳にかかる程度だった自分の髪が、今は背中のかなり下まで伸びている。


寝返りを打ったせいか、何本かは腕に絡み、残りは布団の上へ広がっていた。


掴んでみる。


間違いなく頭から生えている。


「いや、なんで髪まで……」


そう呟いてから、自分の手が目に入った。


「…………」


小さい。


指が細い。


手首も細い。


腕も、昨日までの俺のものとはまるで違う。


そして。


その腕の間。


いつものTシャツの下に、昨日までは存在しなかった輪郭があった。


俺は数秒間、それを見た。


思っていたより、大きい。


いや、何を基準に思っていたのかも分からない。


そもそも自分にそんなものがある前提で考えたことなんてない。


「…………」


視線をさらに下へ落とそうとする。


足元が、すぐには見えなかった。


視界の下側を、見慣れない丸みがずっと塞いでいる。


身体を少し横へ傾ける。


そこでようやく、布団の上にある自分の脚が見えた。


「……邪魔だな」


思わず口から出た。


その直後、身体を動かした分だけ胸元に重みが遅れてついてきて、俺はまた固まった。


「いや、待て」


今度は慎重に身体を左右へ動かしてみる。


ついてくる。


当然だ。


身体の一部なんだから当然なのだが、その当たり前が今の俺にはまるで当たり前じゃない。


「これ毎回こうなんの?」


誰に聞いているのか分からない。


長い髪。


小さい手。


細い腕。


視界の下側を塞ぐ、知らない重み。


朝起きてまだ数分しか経っていないのに、自分の身体のどこを見ても昨日までの俺がいなかった。


「…………いや」


布団を蹴り飛ばす。


立ち上がろうとして、


「うわっ」


思い切りバランスを崩した。


慌てて床に手をつく。


髪が一気に前へ落ちてきて顔にかかる。


「邪魔っ……!」


片手で払いのける。


床が近い。


妙に近い。


「ちょっと待て」


もう一度、今度は慎重に立つ。


視界が低い。


異常なくらい低い。


いつもなら普通に腰より下にあるテーブルの天板が、ずいぶん高く見える。


部屋そのものが巨大になったみたいだった。


「……何これ」


また知らない声が出た。


さっきより少し震えていた。


俺は寝室を出て、洗面所へ向かった。


歩きにくい。


歩幅が違う。


重心が違う。


身体が軽いのに、思ったように動かない。


昨日までの感覚で足を出すと、微妙にタイミングがずれる。


しかも髪が背中や腕にまとわりつく。


胸元の重みも、歩くたびに存在を主張してくる。


視線を下へ落としても、今までみたいにそのまま足元が見えない。


いちいち身体を少し傾ける必要がある。


「……すげえ不便」


口に出してから、そんなことを評価している場合じゃないと気づいた。


全部が、自分の身体なのに自分のものじゃない。


洗面所に着く。


電気をつける。


鏡を見た。


「…………」


知らない女がいた。


小さい。


まず、それが分かった。


それから髪。


長い。


黒に近い髪が、腰に近いところまで伸びている。


寝起きでかなり乱れているせいもあって、華奢な身体に対して妙に量が多く見えた。


顔立ちは整っている。


可愛いというより、美人という言葉の方が近い。


目は切れ長で、少し吊り気味。


黙っていれば少し近寄りがたい印象になる顔。


寝起きで表情は最悪なのに、それでも妙に顔だけはまとまっていた。


年齢は――二十二、三くらいに見える。


俺は二十六だ。


そして身体。


鏡で見ると、余計に分かる。


小柄だ。


かなり小柄。


それなのに胸元だけは、身体に対して明らかに存在感が強い。


大きめのTシャツを着ているはずなのに、そこだけ布地が持ち上がっている。


「…………誰だよ」


鏡の女も同じ口の動きをした。


当然だ。


俺が喋っている。


一歩近づく。


向こうも近づく。


目元。


眉。


鼻。


口元。


一つずつ見ていく。


知らない顔。


なのに。


「……いや」


見覚えがある。


目の形。


鼻筋。


少しだけ片方が上がりやすい口角。


そのままじゃない。


でも。


明らかに俺の顔の部品が残っている。


俺を女にして。


小さくして。


少し若くして。


それから、何か腹立たしいくらい綺麗に整えたような顔。


「…………俺じゃん」


鏡の中の女が、同じように呟いた。


そこで初めて、背筋がぞわっとした。


自分の頬をつねる。


痛い。


もう一度。


やっぱり痛い。


「いやいやいやいや……」


Tシャツの襟元に手をかける。


少し引っ張る。


そこで俺は止まった。


そして、そっと手を離した。


「…………」


今はやめよう。


確認する勇気がない。


というより、確認しなくてもだいたい分かる。


鏡に映っている身体は、どう見ても女だった。


それも中途半端じゃない。


肩幅。


腰。


脚。


胸元。


全部。


「待て待て」


俺は洗面台に両手をついた。


長い髪が肩から前へ落ちる。


「落ち着け」


何をどう落ち着けというのか。


昨日まで俺は二十六歳の男だった。


身長百七十六。


大学を出て、普通に働いて、普通に恋愛して、普通に酒を飲んで。


昨日だって蓮とくだらない話をして別れた。


それが今。


鏡の中には、百五十センチすらなさそうな女がいる。


「…………」


試しに、洗面台横の収納棚へ手を伸ばした。


昨日までなら普通に届いていた上段。


届かない。


爪先立ち。


まだ届かない。


「……低っ」


思わず声が出た。


「いやそこじゃねえだろ!」


一人で突っ込んだ。


鏡の中の女が、ものすごく嫌そうな顔でこちらを見ている。


俺だった。


認めたくないが、俺だった。


少しだけ頭が回り始める。


病院。


警察。


救急車。


いや、救急車でいいのか?


これは急病なのか。


事件なのか。


そもそも、俺が香坂悠真だとどうやって証明する。


財布。


免許証。


社員証。


全部、昨日までの俺の顔だ。


「……会社」


口にした瞬間、頭が痛くなった。


無理だ。


今は考えたくない。


スマホ。


まず誰かに連絡する。


俺は寝室へ戻った。


軽く走っただけなのに、やっぱり身体の感覚が合わない。


長い髪が背中で跳ねる。


胸元の重みも遅れてついてくる。


「……邪魔だな」


思わず口にする。


髪なのか胸なのか、自分でも分からなかった。


たぶん両方だ。


ベッドの上のスマホを掴む。


顔認証。


一瞬だけ間を置いてから、画面を見る。


開かなかった。


「ですよね」


妙に冷静な声が出た。


パスコードを入力する。


開いた。


たったそれだけのことで、少し安心した。


連絡先を開く。


誰に電話する。


親。


無理。


妹。


もっと説明が面倒だ。


会社。


論外。


救急。


『男だったんですけど、朝起きたら女になっていました』


……切られる気しかしない。


指が止まる。


結局、俺は一番迷わず押せる名前を選んだ。


相沢蓮。


数回の呼び出し音。


『……もしもし』


眠そうな男の声。


昨日の酒が残っているらしい。


俺は一瞬、何と言えばいいのか分からなくなった。


『悠真?』


「……蓮」


自分の声が耳に入る。


やっぱり違和感がある。


向こうも黙った。


『…………誰?』


「俺だよ」


『いや、悠真のスマホからかけてんのは分かるけど』


「だから俺」


『女の声なんだけど』


「分かってるよ!」


思ったより大きな声が出た。


俺は額を押さえた。


触れた手が、また小さい。


長い髪が指に絡む。


「……悪い」


『何。どうした』


蓮の声から眠気が消えた。


十年以上の付き合いだ。


声そのものが違っても、俺の様子がおかしいことくらいは分かるらしい。


「今から来てくれ」


『何があった』


「説明できない」


『事件?』


俺は洗面所の方を見る。


少し離れた鏡に、小さな女が映っている。


長い髪。


見慣れない身体。


俺が動くと、向こうも動く。


「…………事件と言えば、たぶん事件」


『警察いる?』


「いらないと思う」


『救急車は』


「分からん」


『お前どこにいんの』


「家」


『一人?』


俺は少し考えた。


一人ではある。


たぶん。


「……一人」


『何だその間』


「いいから来い」


『分かった。二十分くらい』


「早く」


『はいはい』


「あと」


『何』


言おうとして、止まる。


玄関を開けた瞬間、こいつはどんな顔をするんだろう。


昨日までほぼ同じ目線で話していた相手を、今日はどれくらい見上げることになるんだろう。


その想像が、妙に怖かった。


「……いや、何でもない」


『じゃあ切るぞ』


「ああ」


電話が切れた。


部屋が静かになる。


俺はしばらくスマホを握ったまま立っていた。


画面には、昨日までと同じものが並んでいる。


仕事のチャット。


会社のメール。


家族の連絡先。


蓮とのくだらないやり取り。


そして昨夜、美琴から届いていたメッセージ。


『今日はありがとー。またご飯行こうね』


昨日までなら、少し嬉しくなって終わる文章だった。


今は何となく、返事をする気になれない。


世界は何も変わっていない。


会社も。


友達も。


好きな女も。


昨日の続きにいる。


変わったのは。


俺だけだった。


「…………マジかよ」


呟いた声は、まだ知らない女の声に聞こえた。


もう一度、鏡を見る。


切れ長の目をした、小柄な女がこちらを見ている。


腰近くまで伸びた黒髪。


身体に対して存在感のある胸元。


情けない顔。


知らない女だ。


どう見ても知らない女なのに。


よく見れば。


やっぱり俺だった。

第1話お読みいただき本当にありがとうございます

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