朝起きたら、俺がいなかった
金曜の夜だった。
週末だからといって何か特別な予定があるわけでもなく、俺――香坂悠真は、駅前の居酒屋で高校時代からの親友と酒を飲んでいた。
「で?」
向かいに座る相沢蓮が、焼き鳥の串を皿に置きながら言った。
「で、って何が」
「美琴」
「なんでそこで美琴が出てくるんだよ」
「この前また二人で飯行ったんだろ?」
俺は答える代わりにジョッキを持ち上げ、残っていたビールを一口飲んだ。
水瀬美琴。
共通の友人を介して知り合って、もう何年かになる。
二人で飯に行くこともあるし、向こうから連絡が来ることもある。誘えば普通に来るし、話していて居心地も悪くない。
そして俺が、まあ――多少なりとも好意を持っている相手でもあった。
多少、というのは見栄だ。
結構好きだった。
ただ、美琴の方は俺を嫌ってはいないと思うものの、男として強く意識している様子もない。
脈なしと言い切るほど遠くない。
かといって、あと一歩踏み込めばどうにかなりそうなほど近くもない。
実に困る距離だった。
「飯食っただけだよ」
「それ何回目?」
「知らん」
「何年その状態やってんだよ」
「うるせえな」
俺はジョッキを置き、今度はこちらから話題を投げ返した。
「お前こそどうなんだよ。倉田さん」
蓮の箸がわずかに止まった。
「真帆な」
「名前呼びになってんじゃん」
「向こうがそう呼べって言ったんだよ」
「へえ」
「その顔やめろ」
蓮には最近、何度か二人で会っている女がいる。
倉田真帆。
俺はまだ直接会ったことはない。
ただ、蓮から話を聞く限りでは、かなりいい感じらしかった。
二人で食事に行く。
休日にも会う。
向こうから連絡も来る。
たぶん、あと何回かデートでもすれば普通に付き合う。
そのくらいの距離だ。
「もう告っちゃえよ」
「お前がそれ言う?」
「何が」
「美琴にずっと告ってない奴が」
「ずっとって言うな」
「じゃあ何年?」
「……二年くらい?」
「十分だろ」
「タイミングってもんがあんだよ」
「二年間ずっとタイミング探してんの?」
「殺すぞ」
蓮が笑う。
俺もつられて笑った。
高校一年で知り合ってから、もう十年以上になる。
学生時代は互いの家に泊まり、旅行にも行った。
大学は別だったが、それで疎遠になることもなかった。社会人になってからも、こうして仕事終わりに酒を飲む。
終電を逃して朝まで飲んだこともある。
宿が見つからず、二人でラブホテルに入って、ベッドに転がって寝ただけという色気の欠片もない夜まであった。
今さら互いに格好をつけるような関係ではない。
身長もほとんど同じだった。
俺が百七十六。
蓮が確か百七十七くらい。
並んで歩けば目線もほぼ同じで、肩を組むにも、酔った方を支えるにも、特に何も考える必要がなかった。
それが当たり前だった。
「まあ、お前もいい加減なんとかしろよ」
蓮が言う。
「お前もな」
「俺の方が先に彼女できたりして」
「そしたら祝ってやるよ」
「泣くなよ?」
「なんで俺が泣くんだよ。気持ち悪い」
また笑った。
本当に、何でもない夜だった。
少なくとも、その時の俺はそう思っていた。
*
家に着いた時には、日付が変わっていた。
酔ってはいたが、記憶が飛ぶほどじゃない。
適当にシャワーを浴びて、髪を乾かし、スマホを充電器に差す。
明日は休みだ。
昼まで寝る。
それだけ決めて、俺は布団に潜り込んだ。
仕事もない。
予定もない。
目覚ましもかけなかった。
だから翌朝――というより、昼近く。
俺が目を覚ましたのは、腹のあたりに妙な違和感を覚えたからだった。
「……ん」
寝返りを打つ。
そこでまず、おかしいと思った。
布団が重い。
いや。
布団そのものが重くなったというより、自分の身体が妙に小さくなったような感覚がある。
寝ぼけたまま手を伸ばし、枕元のスマホを探す。
届かない。
「……あれ」
いつも置いている場所だ。
もう少し腕を伸ばす。
やっぱり届かない。
「なんだよ……」
口から出た声に、俺は動きを止めた。
高い。
聞き慣れない声だった。
風邪を引いたとか、酒で喉をやられたとか、そういう違いじゃない。
根本的に違う。
「…………は?」
もう一度、声を出す。
「は?」
やっぱり高い。
俺は勢いよく上半身を起こした。
その瞬間、黒いものが肩から胸元へばさりと落ちてきた。
「……は?」
髪だった。
長い。
昨日まで耳にかかる程度だった自分の髪が、今は背中のかなり下まで伸びている。
寝返りを打ったせいか、何本かは腕に絡み、残りは布団の上へ広がっていた。
掴んでみる。
間違いなく頭から生えている。
「いや、なんで髪まで……」
そう呟いてから、自分の手が目に入った。
「…………」
小さい。
指が細い。
手首も細い。
腕も、昨日までの俺のものとはまるで違う。
そして。
その腕の間。
いつものTシャツの下に、昨日までは存在しなかった輪郭があった。
俺は数秒間、それを見た。
思っていたより、大きい。
いや、何を基準に思っていたのかも分からない。
そもそも自分にそんなものがある前提で考えたことなんてない。
「…………」
視線をさらに下へ落とそうとする。
足元が、すぐには見えなかった。
視界の下側を、見慣れない丸みがずっと塞いでいる。
身体を少し横へ傾ける。
そこでようやく、布団の上にある自分の脚が見えた。
「……邪魔だな」
思わず口から出た。
その直後、身体を動かした分だけ胸元に重みが遅れてついてきて、俺はまた固まった。
「いや、待て」
今度は慎重に身体を左右へ動かしてみる。
ついてくる。
当然だ。
身体の一部なんだから当然なのだが、その当たり前が今の俺にはまるで当たり前じゃない。
「これ毎回こうなんの?」
誰に聞いているのか分からない。
長い髪。
小さい手。
細い腕。
視界の下側を塞ぐ、知らない重み。
朝起きてまだ数分しか経っていないのに、自分の身体のどこを見ても昨日までの俺がいなかった。
「…………いや」
布団を蹴り飛ばす。
立ち上がろうとして、
「うわっ」
思い切りバランスを崩した。
慌てて床に手をつく。
髪が一気に前へ落ちてきて顔にかかる。
「邪魔っ……!」
片手で払いのける。
床が近い。
妙に近い。
「ちょっと待て」
もう一度、今度は慎重に立つ。
視界が低い。
異常なくらい低い。
いつもなら普通に腰より下にあるテーブルの天板が、ずいぶん高く見える。
部屋そのものが巨大になったみたいだった。
「……何これ」
また知らない声が出た。
さっきより少し震えていた。
俺は寝室を出て、洗面所へ向かった。
歩きにくい。
歩幅が違う。
重心が違う。
身体が軽いのに、思ったように動かない。
昨日までの感覚で足を出すと、微妙にタイミングがずれる。
しかも髪が背中や腕にまとわりつく。
胸元の重みも、歩くたびに存在を主張してくる。
視線を下へ落としても、今までみたいにそのまま足元が見えない。
いちいち身体を少し傾ける必要がある。
「……すげえ不便」
口に出してから、そんなことを評価している場合じゃないと気づいた。
全部が、自分の身体なのに自分のものじゃない。
洗面所に着く。
電気をつける。
鏡を見た。
「…………」
知らない女がいた。
小さい。
まず、それが分かった。
それから髪。
長い。
黒に近い髪が、腰に近いところまで伸びている。
寝起きでかなり乱れているせいもあって、華奢な身体に対して妙に量が多く見えた。
顔立ちは整っている。
可愛いというより、美人という言葉の方が近い。
目は切れ長で、少し吊り気味。
黙っていれば少し近寄りがたい印象になる顔。
寝起きで表情は最悪なのに、それでも妙に顔だけはまとまっていた。
年齢は――二十二、三くらいに見える。
俺は二十六だ。
そして身体。
鏡で見ると、余計に分かる。
小柄だ。
かなり小柄。
それなのに胸元だけは、身体に対して明らかに存在感が強い。
大きめのTシャツを着ているはずなのに、そこだけ布地が持ち上がっている。
「…………誰だよ」
鏡の女も同じ口の動きをした。
当然だ。
俺が喋っている。
一歩近づく。
向こうも近づく。
目元。
眉。
鼻。
口元。
一つずつ見ていく。
知らない顔。
なのに。
「……いや」
見覚えがある。
目の形。
鼻筋。
少しだけ片方が上がりやすい口角。
そのままじゃない。
でも。
明らかに俺の顔の部品が残っている。
俺を女にして。
小さくして。
少し若くして。
それから、何か腹立たしいくらい綺麗に整えたような顔。
「…………俺じゃん」
鏡の中の女が、同じように呟いた。
そこで初めて、背筋がぞわっとした。
自分の頬をつねる。
痛い。
もう一度。
やっぱり痛い。
「いやいやいやいや……」
Tシャツの襟元に手をかける。
少し引っ張る。
そこで俺は止まった。
そして、そっと手を離した。
「…………」
今はやめよう。
確認する勇気がない。
というより、確認しなくてもだいたい分かる。
鏡に映っている身体は、どう見ても女だった。
それも中途半端じゃない。
肩幅。
腰。
脚。
胸元。
全部。
「待て待て」
俺は洗面台に両手をついた。
長い髪が肩から前へ落ちる。
「落ち着け」
何をどう落ち着けというのか。
昨日まで俺は二十六歳の男だった。
身長百七十六。
大学を出て、普通に働いて、普通に恋愛して、普通に酒を飲んで。
昨日だって蓮とくだらない話をして別れた。
それが今。
鏡の中には、百五十センチすらなさそうな女がいる。
「…………」
試しに、洗面台横の収納棚へ手を伸ばした。
昨日までなら普通に届いていた上段。
届かない。
爪先立ち。
まだ届かない。
「……低っ」
思わず声が出た。
「いやそこじゃねえだろ!」
一人で突っ込んだ。
鏡の中の女が、ものすごく嫌そうな顔でこちらを見ている。
俺だった。
認めたくないが、俺だった。
少しだけ頭が回り始める。
病院。
警察。
救急車。
いや、救急車でいいのか?
これは急病なのか。
事件なのか。
そもそも、俺が香坂悠真だとどうやって証明する。
財布。
免許証。
社員証。
全部、昨日までの俺の顔だ。
「……会社」
口にした瞬間、頭が痛くなった。
無理だ。
今は考えたくない。
スマホ。
まず誰かに連絡する。
俺は寝室へ戻った。
軽く走っただけなのに、やっぱり身体の感覚が合わない。
長い髪が背中で跳ねる。
胸元の重みも遅れてついてくる。
「……邪魔だな」
思わず口にする。
髪なのか胸なのか、自分でも分からなかった。
たぶん両方だ。
ベッドの上のスマホを掴む。
顔認証。
一瞬だけ間を置いてから、画面を見る。
開かなかった。
「ですよね」
妙に冷静な声が出た。
パスコードを入力する。
開いた。
たったそれだけのことで、少し安心した。
連絡先を開く。
誰に電話する。
親。
無理。
妹。
もっと説明が面倒だ。
会社。
論外。
救急。
『男だったんですけど、朝起きたら女になっていました』
……切られる気しかしない。
指が止まる。
結局、俺は一番迷わず押せる名前を選んだ。
相沢蓮。
数回の呼び出し音。
『……もしもし』
眠そうな男の声。
昨日の酒が残っているらしい。
俺は一瞬、何と言えばいいのか分からなくなった。
『悠真?』
「……蓮」
自分の声が耳に入る。
やっぱり違和感がある。
向こうも黙った。
『…………誰?』
「俺だよ」
『いや、悠真のスマホからかけてんのは分かるけど』
「だから俺」
『女の声なんだけど』
「分かってるよ!」
思ったより大きな声が出た。
俺は額を押さえた。
触れた手が、また小さい。
長い髪が指に絡む。
「……悪い」
『何。どうした』
蓮の声から眠気が消えた。
十年以上の付き合いだ。
声そのものが違っても、俺の様子がおかしいことくらいは分かるらしい。
「今から来てくれ」
『何があった』
「説明できない」
『事件?』
俺は洗面所の方を見る。
少し離れた鏡に、小さな女が映っている。
長い髪。
見慣れない身体。
俺が動くと、向こうも動く。
「…………事件と言えば、たぶん事件」
『警察いる?』
「いらないと思う」
『救急車は』
「分からん」
『お前どこにいんの』
「家」
『一人?』
俺は少し考えた。
一人ではある。
たぶん。
「……一人」
『何だその間』
「いいから来い」
『分かった。二十分くらい』
「早く」
『はいはい』
「あと」
『何』
言おうとして、止まる。
玄関を開けた瞬間、こいつはどんな顔をするんだろう。
昨日までほぼ同じ目線で話していた相手を、今日はどれくらい見上げることになるんだろう。
その想像が、妙に怖かった。
「……いや、何でもない」
『じゃあ切るぞ』
「ああ」
電話が切れた。
部屋が静かになる。
俺はしばらくスマホを握ったまま立っていた。
画面には、昨日までと同じものが並んでいる。
仕事のチャット。
会社のメール。
家族の連絡先。
蓮とのくだらないやり取り。
そして昨夜、美琴から届いていたメッセージ。
『今日はありがとー。またご飯行こうね』
昨日までなら、少し嬉しくなって終わる文章だった。
今は何となく、返事をする気になれない。
世界は何も変わっていない。
会社も。
友達も。
好きな女も。
昨日の続きにいる。
変わったのは。
俺だけだった。
「…………マジかよ」
呟いた声は、まだ知らない女の声に聞こえた。
もう一度、鏡を見る。
切れ長の目をした、小柄な女がこちらを見ている。
腰近くまで伸びた黒髪。
身体に対して存在感のある胸元。
情けない顔。
知らない女だ。
どう見ても知らない女なのに。
よく見れば。
やっぱり俺だった。
第1話お読みいただき本当にありがとうございます
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