話すって言ったのに、何を話せばいい
金曜の朝。
仕事を始める前にスマホを確認すると、美琴からメッセージが来ていた。
『昨日の話、いつにする?』
見なかったことにしたくなった。
もちろん、できるわけがない。
昨夜『今度話す』と送ったのは俺だし、美琴からすれば当然の質問だ。
俺はベッドの端に座ったまま、しばらく入力欄を開いたり閉じたりした。
『そんな大した話じゃない』
違う。
自分で消す。
『日曜空いてる?』
今度は送信せずに手が止まった。
何を話すのか決まっていないのに、先に会う約束だけしてどうする。
とはいえ、このまま文章で済ませるのも違う気がした。
俺が美琴に言いたいのは、たぶん一言では済まない。
男だった頃から好きだったこと。
今も多分好きなこと。
それなのに、今の距離を素直に喜べなくなっていること。
美琴が悪いわけではないこと。
むしろ近づいてくれたこと自体は嬉しいこと。
全部同時にある。
「……めんどくさ」
口にして、自分で嫌になる。
美琴が面倒なのではない。
完全に俺の問題だ。
結局、
『日曜なら空いてる』
と送った。
少しして、
『じゃあ日曜。お昼くらい?』
と返ってくる。
『それで』
『了解』
それだけだった。
美琴は何を話されると思っているのだろう。
分からない。
俺自身すら分かっていないのだから、向こうに分かるはずもなかった。
スマホを置き、仕事用のパソコンを立ち上げる。
今日は金曜。
明日は支援団体の相談。
その夜か昼には、蓮が真帆に告白するらしい。
そして日曜は、美琴と話す。
予定だけ見ると、妙に濃い週末になった。
「仕事しよ……」
考えるのをやめて会社のチャットを開いた。
*
午前中は、思ったより仕事に集中できた。
こういう時、考え事を強制的に止めてくれる仕事はありがたい。
十時からの定例で黒田さんに資料の修正を指摘され、佐々木とは実装側との調整について二十分ほど揉めた。最後には俺の案ではなく佐々木の案で進めることになり、少し悔しい。
十一時半を過ぎた頃、佐々木から個別チャットが来た。
『香坂さん今日機嫌悪い?』
『普通』
『今日ちょっと圧強いです』
『お前の仕様が雑だから』
『やっぱ機嫌悪いじゃん』
「うるせえな」
画面へ向かって呟く。
ただ、指摘されてみると、確かに少し余裕がないのかもしれない。
美琴との話を考えないようにしている分、仕事へ全部寄せている感じがする。
少しして、黒田さんからも、
『昼休め』
と来た。
『まだ12時前です』
『知ってる』
『監視してます?』
『お前は考え込むと飯忘れるから』
どうしてこの人は妙なところだけ正確なのか。
俺は諦めて、十二時になったところでパソコンから離れた。
昼飯を作る気力がなく、冷凍していたご飯と適当なおかずで済ませる。
食べながらスマホを見る。
美琴とのトーク画面が上の方にある。
その下に蓮。
さらに千尋。
何となく千尋を開いた。
別に相談したいわけではない。
少なくとも、最初はそう思っていた。
『暇?』
送る。
十分ほどして、
『仕事中』
と返ってきた。
『俺も』
『じゃあ仕事しろ』
『昼休み』
『私も』
そこで少し考えて、
『日曜、美琴と話すことになった』
と送った。
既読がつく。
しばらく返事はない。
珍しい。
やがて、
『何の話?』
と来た。
『わからん』
『は?』
それはそうだ。
俺は少しずつ説明した。
女になってから美琴との距離が近くなったこと。
昨日、男だった頃はあえて距離を取っていたと本人から聞いたこと。
今は女同士だから気にしなくていいと思っているらしいこと。
それが思ったより引っかかっていること。
全部文章にすると長くなった。
千尋からの返事も、今度は少し遅かった。
『兄ちゃん、美琴さんのこと好きなんだっけ』
そこは妹にも以前話したことがある。
『多分まだ好き』
『多分?』
『そこもよくわからん』
『めんどくさ』
「お前に言われたくねえ」
思わず声に出す。
すぐに続きが来た。
『でもさ、美琴さんのこと好きなのに、美琴さんが兄ちゃんに近づく理由は「女になったから」なんでしょ?』
俺は画面を見た。
短い文章なのに、ほとんど全部そこに入っている。
『そう』
『じゃあ嫌なんじゃなくて、嬉しいけど嬉しくないって感じ?』
「……そうなんだよ」
今度は声に出た。
『それ本人に言えば?』
『簡単に言うな』
『だってそれ以外なくない?』
千尋はこういうところで容赦がない。
『美琴さんがどう思うかは美琴さんしか分かんないし、兄ちゃんが何も言わなかったらずっと今のままでしょ』
正論だった。
正論だから腹が立つ。
『わかってる』
『じゃあ話せばいいじゃん』
『何て』
少し間があって、
『それは自分で考えて』
と返ってきた。
「役に立たねえ」
『妹に恋愛相談の答えまで求めないで』
そこも正しい。
俺はスマホを置いた。
結局、誰に話しても同じところへ戻ってくる。
自分で言うしかない。
*
午後の仕事を終えたのは十八時少し前だった。
黒田さんから、
『来週は火木出社で予定通り』
と確認が来て、それに返事をしてログアウトする。
椅子から立つと、朝より身体が重い気がした。
疲れているというより、考えることが多すぎる。
夕飯を作りながら、明日の予定を確認する。
支援団体との面談は十四時からオンライン。
担当は東雲遥。
転性から九年経った当事者だ。
一週間以上経った今でも、自分以外に本当に同じ経験をした人間がいるという事実には少し現実感がない。
病院の資料やサイトでは読んだ。
それでも、実際に話すとなれば別だ。
何を聞こう。
戻りたいと思っているのか。
九年経って、身体には慣れたのか。
自分を男だと思う気持ちはどうなったのか。
人との関係はどう変わったのか。
聞きたいことはいくらでもある。
ただ、そのどれも、答えを聞くのが少し怖かった。
もし東雲が今では完全に女として生きていると言ったら。
それが自分の未来のように感じるかもしれない。
逆に九年経ってもずっと戻りたいと言われたら、それも怖い。
「……どっちでも怖いじゃねえか」
俺は包丁を置き、ため息をついた。
最近、自分の未来を考えるたびにこうなる。
何が正解なのか分からない。
そもそも正解があるのかも分からない。
夕飯を食べ終わり、洗い物をしているとスマホが震えた。
蓮だった。
『明日覚えてる?』
何のことか一瞬分からなかった。
すぐに真帆のことだと気づく。
『告るやつ?』
『そう』
『俺が覚えてどうすんだよ』
『お前が告れって言ったんだろ』
『責任取らねえぞ』
『クズ』
『頑張れ』
少しして、
『おう』
と返ってきた。
短い。
たぶん緊張している。
珍しいものを見た気分だった。
『何時?』
『夜』
『じゃあ成功したら報告しろ』
『失敗したら?』
少し考える。
『酒は一杯までなら付き合ってやる』
『お前が一杯なんだろ』
『うるせえ』
蓮から笑っているスタンプが来た。
俺も少し笑った。
そのままスマホを置こうとして、ふと思う。
蓮が真帆と付き合う。
もし明日うまくいけば、本当にそうなる。
今まで何度も友達に彼女ができたことはあるし、蓮にも昔付き合っていた相手がいた。
何も特別なことではない。
なのに今回は、なぜか少しだけ意識してしまう。
たぶん俺自身がこんな状態だからだ。
美琴との関係をどうすればいいのか分からない。
そんな時に、親友の恋愛だけが先へ進んでいく。
「……関係ねえだろ」
自分に言い聞かせる。
蓮は蓮。
俺は俺だ。
それぞれ別の話だ。
*
夜十一時。
寝る前にスマホを見ると、美琴から一件メッセージが来ていた。
『日曜、いつものカフェでいい?』
『いいよ』
返す。
続けて、
『話って悪い話?』
指が止まった。
不安にさせていたらしい。
それはそうだ。
『今度話す』
なんて突然送られたら、俺でも気になる。
俺は少し考えてから、
『別に怒ってるとかじゃない』
と送った。
『じゃあよかった』
そのあとに、
『ちょっと怖かった』
と来た。
胸の奥が少し痛んだ。
俺が一人で勝手に悩んでいる間、美琴にも何か考えさせていた。
『ごめん』
『謝るほどじゃないよ』
少しして、
『でもちゃんと聞くから』
と続いた。
俺はその文章をしばらく見ていた。
ちゃんと聞く。
美琴はそういう奴だ。
だから好きになった。
たぶん。
今も。
『ありがと』
送る。
そこで会話は終わった。
スマホを伏せ、ベッドへ横になる。
日曜に何を話すか。
まだ完全には決まっていない。
ただ、一つだけ言わなければならないことは分かっている。
俺は美琴と近くなりたかった。
男だった頃から。
そして今、本当に近くなった。
それが嬉しい。
でも、その近さが「女同士だから」だと知ってしまった。
そこだけは、もう知らなかった頃には戻れない。
俺は天井を見る。
言葉にしたら、今の関係が変わるかもしれない。
言わなくても、俺の中ではもう変わっている。
だったら。
たぶん、話すしかない。
日曜まであと二日。
それでも今夜の俺には、まだ最初の一言すら決められなかった。




