親友の恋愛相談をしている場合じゃない
木曜の朝。
目を覚まして最初に考えたのは、昨日の美琴との会話だった。
別に喧嘩をしたわけではない。嫌なことを言われたわけでもないし、飯も普通に楽しかった。帰ったあとには『また行こう』と送り合っている。
それなのに、妙に引っかかっている。
『男友達に変に期待させるのも嫌だったし』
『今は、そういうのあんまり気にしなくていいから楽かも』
美琴にとっては、たぶん何でもない説明だった。
俺との距離が近くなった理由を、聞かれたから答えただけだ。
実際、そのおかげで俺たちは以前より気軽に会えるようになっている。家にも来るし、一緒に服を見たり、昨日みたいに腕を取られたりもする。
俺が欲しかったことばかりだ。
問題は、その全部が「男として見られなくなった結果」だということだった。
「……朝からめんどくせえ」
布団を出る。
洗面所の鏡を見ると、いつもと同じ顔があった。
短い髪。
眠そうな切れ長の目。
もう見慣れてきた小さな身体。
女になった直後は、鏡を見るたびに別人だと思っていた。今では自分の顔として普通に髪を直している。
その適応の速さが、今日は少しだけ気に入らなかった。
別に慣れることが悪いわけではない。
昨日だってそう思っていたはずなのに、気分というのは勝手なものだった。
*
午前中は仕事でほとんど余計なことを考えずに済んだ。
十一時頃、黒田さんから来週の出社予定について連絡があり、火曜と木曜の二日に決まった。身体の状態が安定しているなら、徐々に以前の勤務ペースへ戻していくという。
とはいえ、当面はリモート多めでいいらしい。
『何かあったらその日の朝でも変更していい』
と書かれている。
『何かって何です?』
送ると、
『体調』
『普通です』
『その返答は信用してない』
「ひでえな」
笑いながら返す。
今のところ身体に大きな問題はない。疲れやすさや酒の弱さ、食事量の変化はあるが、仕事を休むほどではない。
病院からは月経が始まった後など、体調に変化があれば記録しておくように言われていた。
まだその気配はない。
自分の身体なのに、これから何が起きるのか待っている状態なのは妙なものだった。
昼前になるとスマホが震えた。
蓮。
『昼休み?』
『もうすぐ』
『電話していい?』
珍しい。
普段なら用事があればそのままメッセージで送ってくる。
『12時からなら』
返しておいた。
十二時になり、会社のチャットを一度閉じる。ちょうどスマホが鳴った。
「何」
『第一声それ?』
「お前相手ならこんなもんだろ」
『まあいいけど』
冷蔵庫から昨日の残りを出しながら、スマホをテーブルへ置く。
「で、何」
『ちょっと聞きたいことあって』
「金貸してなら切るぞ」
『貸してくれんの?』
「切るって言ってんだろ」
蓮が笑う。
そのあと、少しだけ言葉を探すような間があった。
『真帆のことなんだけど』
手が止まった。
別に驚く話ではない。
むしろ、この前からそのうち来ると思っていた。
「おう」
『今度、土曜また会うことになった』
「いいじゃん」
『でさ』
「うん」
『……告った方がいいと思う?』
思わず笑った。
「お前、その相談俺にすんの?」
『駄目かよ』
「いや。俺が美琴に告れなくてグダグダしてた時、お前何て言ってたっけ」
『告れ』
「だよな」
『人のは簡単なんだよ』
「前も同じこと言ってたぞ」
蓮が電話の向こうでため息をつく。
十年以上の付き合いだが、こういう時だけ妙に慎重になる。
普段の雑さはどこへ行ったのかと思う。
「真帆はどうなんだよ」
『どうって?』
「向こうも脈ありそうなの?」
『たぶん』
「何回会った?」
『四回くらい』
「二人で?」
『全部二人』
「じゃあ普通にいけよ」
『お前まで簡単に言うな』
「いや、それ俺がずっとお前に言われてた台詞だからな」
笑いながら返す。
それでも、真面目に考えてみる。
俺は真帆と会ったことがない。
話に聞くだけだ。
だから本当のところは分からない。
ただ、何度も二人で会っていて、次の約束も向こうから嫌がられていないのなら、少なくとも悪い状況ではないだろう。
「お前が付き合いたいなら言えばいいんじゃね?」
少しして、蓮が答える。
『まあ、そうなんだけど』
「何が引っかかってんだよ」
『別に何も』
「じゃあ告れ」
『雑』
「相談相手間違えたな」
「ほんとにな」
二人で笑う。
電話越しの蓮は、いつもの蓮だった。
だから俺も、いつものように友達の恋愛相談をしている。
それでいいはずだった。
「真帆ってどんな奴なんだっけ」
俺が聞く。
『前も話しただろ』
「ふわっとしか覚えてねえ」
『ひど』
「お前の女の話全部覚えてる方が気持ち悪いだろ」
『まあ、それはそう』
蓮は少し考えてから話し始めた。
職場は違うが共通の知人経由で知り合ったこと。
歳は一つ下。
派手なタイプではなく、話しやすい。
飯の趣味が合う。
休日は割と家にいる。
「普通にいいじゃん」
『だろ』
「何だよ、そのちょっと嬉しそうなの」
『うるせえ』
そういう声を聞くと、本当に気に入っているのだろうと思う。
それならうまくいってほしい。
これは本心だった。
十年以上の友達が、ちゃんと好きな相手と付き合えるなら、それは普通に喜ばしい。
なのに、一昨日から続いている妙な引っかかりが、完全には消えない。
俺はそれを無視して言った。
「付き合ったら紹介しろよ」
『何でだよ』
「見てみたい」
『お前、俺の彼女査定すんの?』
「親友として」
『一番嫌なやつじゃん』
「安心しろ。駄目だったらちゃんと言うから」
『何をだよ』
また笑う。
昔からこうだった。
蓮に彼女がいた時も、俺に彼女がいた時も、恋愛の話は普通にしていた。
誰かと付き合ったからといって、俺たちの関係が変わるわけではなかった。
少なくとも今までは。
*
「そういや、お前は?」
一通り真帆の話をしたあと、蓮が聞いた。
「俺?」
『美琴』
「……ああ」
昨日の会話が頭に戻ってくる。
「飯は行った」
『どうだった?』
「楽しかったよ」
『ならいいじゃん』
「そこまではな」
蓮は少し黙った。
たぶん、俺の声で何か察したのだろう。
『何かあった?』
「何かってほどじゃない」
言わなくてもいい話だった。
でも、蓮なら男だった頃の俺が美琴をどれだけ意識していたか知っている。
むしろ一番知っている。
「美琴さ、俺が男だった頃は結構距離気にしてたらしいんだよ」
『距離?』
「二人で会いすぎないとか、家で遅くまでいないとか、近くに座りすぎないとか。俺が変に期待したら困るからって」
『ああ』
その返事は、妙に納得したようだった。
「お前知ってた?」
『いや。でも普通じゃね?』
「……やっぱそうなの?」
『そりゃ男と女なら、そういうの気にする奴はいるだろ』
俺は箸で飯をつついた。
「で、今は俺が女になったから、そこ気にしなくていいって」
今度は蓮が黙った。
数秒。
「何」
『いや』
「何だよ」
『お前、それ結構きつくね?』
すぐには返事ができなかった。
自分でもそう思っていた。
ただ、誰かに言われると急に形になる。
「……まあ、ちょっとな」
『美琴はお前が好きだったの知らないんだろ?』
「知らない」
『じゃあ悪気はないだろうけど』
「分かってるよ」
分かっている。
美琴は何も悪くない。
むしろ俺と以前より仲良くなれて嬉しいと思ってくれている。
それが一番面倒だった。
「俺さ」
言葉を探す。
「ずっと、美琴ともっと近くなりたかったんだよ」
電話の向こうで蓮は何も言わない。
「飯行く回数増えたり、家来たり、ああいう感じで普通に触られたり。前だったら全部嬉しかったと思う」
『今は嬉しくない?』
「嬉しいよ」
即答した。
「だから困ってんだよ」
自分で言って、少し笑う。
笑える話ではないが、そうでもしないと重くなりすぎる。
「欲しかった距離になってんのに、理由が俺が女になったからなんだよ。何か、ゴールだけ合ってて道が全部違う感じ」
蓮は少し考えてから、
『それ、美琴に言ったら?』
と言った。
「言えるかよ」
『何で』
「ほぼ告白じゃねえか」
『好きだったのは事実だろ』
「だったっていうか、今も多分好きなんだけど」
口にしてから止まった。
蓮も止まった。
自分でも、こんなに簡単に出てくると思っていなかった。
「……何だよ」
『いや』
「今日二回目だぞ」
『お前、今も好きなんだ』
「たぶんって言っただろ」
『それもうほぼ好きじゃん』
「うるせえ」
美琴に触られれば反応する。
二人で会えば嬉しい。
服を褒められれば浮かれる。
それで好きじゃないと言い張る方が無理がある。
問題は、その「好き」をどう扱えばいいのか分からないことだ。
「男だった時なら、付き合いたいって思ってたよ。でも今の俺が美琴と付き合うって、何なんだろうな」
『何って、付き合うんじゃね?』
「簡単に言うな」
『じゃあ何が違うんだよ』
「俺が知りてえよ」
少し声が強くなる。
蓮は気にした様子もなく、
『好きなら好きでいいんじゃねえの』
と言った。
その言葉は簡単すぎた。
でも、今の俺には少しありがたかった。
「お前、真帆にはそんな簡単にいかねえくせに」
『自分のは難しいんだよ』
「知ってる」
笑う。
結局、俺たちは似たようなことをしている。
相手が違うだけで。
*
昼休みが終わる少し前、蓮が言った。
『じゃあ俺、土曜告ってくるわ』
「お」
思ったよりあっさり決めた。
「頑張れ」
『お前もな』
「何を」
『美琴』
「俺はまだいい」
『逃げんなよ』
「お前にだけは言われたくねえ」
蓮が笑う。
俺も笑った。
電話を切る。
十二時五十分。
午後の仕事へ戻らなければならない。
俺は空になった皿を流しへ持っていきながら、さっきの会話を思い返した。
蓮が真帆へ告白する。
たぶん、うまくいく。
そうなれば蓮には彼女ができる。
それはいいことだ。
何も問題はない。
俺にも美琴がいる。
いる、という言い方は違う。
まだ何の関係でもない。
ただ好きなだけだ。
それなのに。
蓮に彼女ができるかもしれないという話を聞いたあとで、自分の美琴への気持ちを確認したことが、なぜか少しだけ気になった。
まるで、自分にもちゃんと好きな女がいることを確かめたみたいだった。
「……何考えてんだ」
首を振る。
仕事をしよう。
*
午後は思った以上に忙しく、蓮との会話を考える暇はなかった。
夕方、予定していたところまで作業を終えてログアウトする。
今日は買い物へ出る必要もない。
冷蔵庫にも食材がある。
何も予定のない夜だった。
ソファへ座り、スマホを見る。
美琴からメッセージが来ている。
『昨日の店、また行こうね』
送信時刻は十五時頃。
仕事中で気づかなかった。
俺は少し笑った。
『いいよ』
送る。
すぐに返事は来なかった。
当たり前だ。
美琴も仕事中だろう。
スマホを置こうとしたところで、蓮との昼の会話を思い出す。
『それ、美琴に言ったら?』
無理だ。
あんなものを本人にどう言えというのか。
俺はお前が好きだった。
今も多分好きだ。
男だった頃に欲しかった距離が、女になったら手に入った。
でもそれが嬉しいだけじゃない。
そんな話をされて、美琴がどう反応するのか想像もできない。
何より。
言ってしまったら、今の気楽な関係まで変わるかもしれない。
以前は男だったから距離があった。
今は女だから近い。
そこへ俺の恋愛感情を持ち込んだら、美琴はまた距離を取るかもしれない。
それが嫌だった。
「……結局そこか」
自分で気づく。
好きだと伝えて関係が壊れるのが怖い。
男だった頃と同じだ。
ただ、今はもっとややこしい。
前なら振られれば終わりだった。
今は、女友達として手に入った近さまで失うかもしれない。
だから言えない。
俺はスマホを伏せた。
*
夜の九時過ぎ。
風呂を終えて部屋へ戻ると、美琴から返事が来ていた。
『やった。今度もっと近所の店も開拓しよ』
続けて、
『悠真となら遅くなっても安心だし』
俺はその文章を見た。
昨日の美琴の言葉と同じだ。
男だった頃なら、遅くまで二人でいることを美琴は気にしていた。
今は安心。
俺が女だから。
嬉しいはずの誘いなのに、胸の中で何かがじわりと重くなる。
『いいね』
そこまで打って、送る。
いつもなら、それで終わる。
でも今日は指が止まらなかった。
『なあ』
送信。
すぐに既読がつく。
『ん?』
俺は入力欄を開いた。
何を書けばいい。
『俺、お前のこと』
そこまで打って消す。
違う。
今告白したいわけではない。
『昨日の話なんだけど』
また消す。
自分でも何を言いたいのか分からない。
ただ、何も言わずにこのまま近づいていくのも、少し苦しくなってきている。
スマホの上で指が止まる。
しばらくして、美琴から追加で来た。
『どうした?』
「……どうしたんだろうな」
声に出した。
結局、
『いや、何でもない』
と送る。
すぐに、
『何それ。気になる』
と返ってきた。
俺は少し迷ってから、
『今度話す』
とだけ送った。
その言葉を送った瞬間、逃げ道が一つ減った気がした。
美琴からは、
『分かった』
と返ってくる。
珍しく、追及してこなかった。
俺はベッドへ仰向けになり、スマホを胸の横へ置く。
話す。
何を。
まだ決めていない。
ただ。
ずっと欲しかった距離が、欲しかった意味と違う。
それをいつまでも自分の中だけに置いておくのは、そろそろ難しくなってきていた。




