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女になった俺と、距離感がおかしくなった奴ら  作者: わかめ
女になった俺

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24/25

九年先の人も、答えを持っているわけじゃない


土曜の十三時五十分。


俺はノートパソコンの前に座りながら、さっきから同じ画面を何度も確認していた。


支援団体から送られてきたオンライン面談用のURL。開始は十四時。カメラとマイクのテストも済んでいるし、通信にも問題はない。


それでも落ち着かない。


仕事のオンライン会議なら何百回もやっている。黒田さんや人事へ転性のことを説明した時だって、ここまで緊張していなかった気がする。


今日話す相手は、俺の事情を説明しなくても知っている。


それが逆に怖かった。


転性から九年。


東雲遥。


サイトに載っていた情報によれば三十四歳。俺より八つ上で、転性したのは二十五歳頃ということになる。


つまり、ほとんど俺と同じくらいの年齢で身体が変わり、そのまま九年間を生きている。


聞きたいことは昨日の夜にいくつも考えた。


戻りたいと思わなくなったのか。


女の身体には慣れるのか。


自分を男だと思う気持ちはどうなるのか。


仕事は。


恋愛は。


家族は。


人との距離は。


考えれば考えるほど、質問というより自分の未来を確認しようとしている気がしてきて、途中でメモを作るのをやめた。


十三時五十九分。


俺はURLを開いた。


数秒後、画面が切り替わる。


『こんにちは』


女性の声がした。


画面に映っていたのは、肩につくくらいの髪を後ろで軽くまとめた女性だった。派手な感じではない。薄い色のニットを着て、眼鏡を掛けている。


もっとこう、相談員らしい柔らかい雰囲気の人を勝手に想像していたが、第一印象は普通だった。


どこにでもいそうな三十代の女性。


その「普通」が、一番不思議だった。


「こんにちは。香坂です」


『東雲です。今日はよろしくお願いします』


「よろしくお願いします」


東雲さんは軽く頭を下げてから、少しだけ笑った。


『緊張してます?』


「……分かります?」


『だいたい皆さんそうなので』


「皆さんって言っても、そんな人数いないですよね」


『よく気づきましたね』


思わず笑った。


東雲さんも笑う。


『実際、そんなにいません。だから私も相談員なんて名乗ってますけど、専門職というより先に経験した当事者です。変なこと言ってたら普通に疑ってください』


「いきなり信用下げるんですね」


『絶対的な正解みたいに聞かれる方が困るので』


その言い方で、少し肩の力が抜けた。


医者でもカウンセラーでもない。


九年早く同じ目に遭った人。


そう思えば、少し話しやすい気がした。


     *


最初の十分ほどは、確認事項だった。


転性した日。


病院での検査結果。


現在の体調。


家族や職場へ説明できているか。


生活面で大きな問題が起きていないか。


事前アンケートに書いた内容を、東雲さんが一つずつ確かめていく。


『仕事、もう復帰されてるんですね』


「火曜からリモートで。今週は一回普通に出社もしました」


『早いですね』


「会社がかなり融通利かせてくれてるんで」


『それは大きいです』


「東雲さんは?」


俺が聞くと、彼女は少し考えた。


『私は一か月くらい休みました』


「そんなに?」


『今みたいに制度もなかったですし、私自身が外に出られなかったので』


「ああ……」


九年前。


今よりさらに事例が少なかった頃だ。


『香坂さん、かなり順応早い方だと思いますよ』


「そうなんですかね」


『服も自分で買って、仕事もして、友人とも会ってる。少なくとも生活はかなり戻せてる』


「戻せてるっていうか、戻さないとしょうがないからやってるだけですけど」


『それで十分です』


東雲さんは即答した。


『最初の頃って、生活できてるだけでも結構すごいので』


「でも、サイトの記事にもありましたけど、今の身体に合わせて生活作ってると、戻るの諦めてるみたいな感じしません?」


聞くつもりだった質問とは少し違った。


ただ、口から出た。


東雲さんはすぐには答えなかった。


少し考えてから、


『しましたね』


と言った。


「やっぱり?」


『しました。女性用の服を買うたびに、元の自分を捨ててる気がしたし、身分証を変えた時もかなり泣きました』


思っていたより直接的な答えだった。


俺は画面を見る。


今の東雲さんからは、そんな時期があったようには見えない。


『でも、服を買わないと外に出られないし、身分証を変えないと困るんですよね。だから途中で切り分けました。今生活するために必要なことと、この身体を受け入れるかどうかは別だって』


昨日の記事と同じだ。


「……あの記事、東雲さんですか?」


『どの記事です?』


「転性から九年ってやつ」


東雲さんが少し笑った。


『それは秘密です』


「絶対そうじゃないですか」


『そういうことにしておきましょう』


否定しない。


たぶん本人なのだろう。


     *


話しているうちに、最初に用意していた質問はほとんど忘れていた。


その代わり、その場で気になったことを聞いた。


「九年経つと、身体って完全に慣れます?」


東雲さんが一瞬考える。


『生活上はほぼ』


「ほぼ?」


『今でもたまにありますよ。高い棚に手を伸ばして届かなくて、昔の身長の感覚で動いてたことに気づくとか』


「あるんだ」


『あります。あと、昔着てた服を見て、サイズ感にびっくりしたり』


「それ、今もうやってます」


『早いですね』


「昨日クローゼット整理したんで」


二人で笑う。


こういう話ができること自体、不思議だった。


蓮や千尋へ話せば「そうなんだ」と聞いてくれる。


でも東雲さんは、「ある」と返す。


それだけでかなり違う。


「じゃあ、何か……自分が女だって感覚にも慣れるんですか」


少し言いづらかった質問を出す。


東雲さんは俺の顔を見た。


『香坂さんは今、自分のこと男だと思ってるんですよね』


「はい」


『アンケートにもそう書いてましたね』


「でも、最近それだけだと説明足りない感じがして」


『それも自然だと思います』


「東雲さんは?」


聞く。


少しだけ怖かった。


『今は、自分のこと女性だと思ってます』


やっぱり。


胸の奥に、小さく何かが落ちた。


東雲さんはそれに気づいたのか、続ける。


『ただ、香坂さんもそうなるって意味じゃないですよ』


「九年経ったからそうなったんですか」


『そんな単純でもなかったです』


彼女は少し視線を外した。


『最初の二、三年くらいはずっと「自分は男なのに」って思ってました。そのあと、「男だった自分」と「今の身体」を無理に一個の言葉にしなくてもいいのかなって思う時期が来て。最終的に今は女性って言うのが一番楽になっただけです』


「……楽?」


『毎回説明するのに疲れたのもあります』


思ったより現実的だった。


『あと、私の場合は今の生活がもう女性として出来上がってるので。仕事も、夫との生活も、友人関係も』


「結婚してるんですか」


『はい』


サイトの簡単なプロフィールには既婚としか書かれていなかった。


「転性したあとに?」


『あとです』


「……そうなんだ」


何となく、それ以上聞けなかった。


東雲さんも無理に話を広げなかった。


その代わり、


『でも私は、香坂さんに「いずれ女として生きるようになりますよ」と言いたいわけじゃないです』


と続けた。


『逆も同じです。ずっと男だと思って生きてもいい。途中で変わってもいい。自分でもよく分からないままでもいい。そこは本当に人によります』


「そんな自由なんですか」


『自由というより、誰も決められないんです』


その言葉は妙に納得できた。


医者にも決められない。


支援団体にも決められない。


身体にさえ決められない部分がある。


自分で考えるしかない。


一番面倒なやつだ。


     *


「人間関係はどうでした?」


俺が聞くと、東雲さんが少し表情を変えた。


『それ、アンケートにも書いてましたね』


「はい」


『今、一番困ってるのそこですか?』


すぐには答えられなかった。


身体のことも困る。


これから生理も来る。


行政手続きもまだ終わっていない。


でも、頭に一番長く残るのは美琴や蓮のことだった。


「……多分」


正直に答える。


東雲さんが頷く。


『変わりましたよ。かなり』


「やっぱり」


『昔の男友達で、そのまま続いた人もいます。でも距離が変わった人もいますし、付き合いがなくなった人もいます。女性の友達は逆に増えました』


昨日までの俺の生活と、もう似ている。


「身体が変わっただけなのに」


口にすると、東雲さんが少し笑った。


『私もそれ何百回も思いました』


「ですよね」


『でも、相手から見たら身体もその人の一部なんですよね。自分の中では「中身は同じ」でも、相手が受け取る情報は変わってしまうので』


それはもう、この一週間で嫌というほど分かっている。


会社の男連中が少し遠くなった。


女性社員は近くなった。


知らない男にナンパされた。


そして美琴は、俺を男友達として警戒しなくなった。


「好きな人がいたんですよ」


気づけば言っていた。


東雲さんは黙って聞いている。


「女になる前から。二年くらい」


『今も好きですか?』


「……多分」


最近、何度この答えをしただろう。


「俺、その子ともっと近くなりたかったんです。二人で会う回数増やしたかったし、家とかも来てほしかったし。でも向こうは俺が男だったから、ちょっと距離取ってたみたいで」


東雲さんの表情が少しだけ分かったようなものになる。


「今は俺が女になったから、そこ気にしなくていいって。前より全然近いんですよ」


『嬉しい?』


「嬉しいです」


そこだけは迷わなかった。


「嬉しいんですけど……俺が欲しかったのってこれだったのかって思うと、分かんなくなって」


言葉にしながら、昨日より少しだけ整理されていく。


「男だった俺に近づいてほしかったんですよ。でも今近づいてくれてるのは、女になった俺だからで」


東雲さんはしばらく何も言わなかった。


何か答えを待っていた俺に、


『それ、かなりしんどいですね』


と言った。


それだけだった。


「……何かアドバイスないんですか」


思わず聞く。


『ないです』


「ないんだ」


『だって私、その人知らないですもん』


あまりにも普通の答えで笑ってしまった。


東雲さんも笑う。


『ただ、香坂さんが何も言わなかったら、その人は今の距離で問題ないと思い続けるでしょうね』


「……ですよね」


『香坂さんは、自分の気持ちが分からないから話せないと思ってるかもしれませんけど、分からないこと自体を話してもいいんじゃないですか』


明日、美琴と会う。


昨日の夜、


『今度話す』


と送った。


「明日、話すことになってます」


『じゃあちょうどいいですね』


「全然ちょうどよくないです」


笑われた。


     *


面談は予定していた一時間を少し過ぎたところで終わった。


最後に、東雲さんから今後の身体面について確認された。


『病院から月経について説明は受けてます?』


「はい。最初は遅れることもあるって」


『始まったら、できれば周期と体調を記録しておくといいですよ』


「やっぱそこ重要なんですね」


『今の身体の状態を確認する意味でも。最初は驚くと思いますけど』


「……東雲さんも?」


『めちゃくちゃ驚きました』


少し笑いながら言う。


『知識として分かってても、実際に自分に起こるのは別なので』


その言葉だけは、やけに頭に残った。


知識として分かっていても。


実際に自分に起こるのは別。


この一週間、何度もそうだった。


「覚悟しときます」


『覚悟しても驚くと思います』


「意味ないじゃないですか」


『そういうものです』


最後まであまり相談員らしくない人だった。


だからこそ話しやすかったのかもしれない。


『また何かあれば連絡してください。次は私じゃなくてもいいですし、交流会もありますから』


「ありがとうございます」


『あと、今日話したこと全部を今日中に結論出そうとしないでくださいね』


「そんな癖あります?」


『ありますね』


「会って一時間で?」


『相談員なので』


初めて少しそれっぽいことを言った。


俺は笑って通話を切った。


画面が暗くなる。


一人になった部屋は、さっきまでより少し静かに感じた。


     *


面談が終わったあと、すぐには立ち上がれなかった。


別に衝撃的な話を聞いたわけではない。


九年経っても、東雲さんには昔の身体の感覚が残っている。


最初の数年は自分を男だと思っていた。


今は女性として生活している。


結婚もしている。


そして、人間関係は変わった。


どれも、あり得る未来の一つだった。


俺が同じ道を進むとは限らない。


それでも、九年先までこの身体で生きるという可能性が、今までより少し具体的になった。


「九年か……」


長い。


三十五歳。


今の俺から見れば、まだ想像できる年齢だ。


その時、自分はどうなっているのだろう。


男に戻っているのか。


今の身体のままなのか。


自分を何だと思っているのか。


誰と一緒にいるのか。


考え始めるときりがない。


今日中に結論を出すな。


東雲さんの言葉を思い出す。


「相談員っぽいこと言いやがって」


少し笑い、ようやく席を立った。


その時、テーブルの上でスマホが震えた。


蓮だった。


時計を見る。


十八時四十分。


真帆と会うのは夜だと言っていた。


もう終わったのか。


メッセージを開く。


『付き合うことになった』


画面を見た瞬間、最初に出てきた感情はちゃんと喜びだった。


「おお」


声まで出た。


すぐに、


『マジか。おめでとう』


と送る。


蓮から、


『ありがと』


と返ってくる。


『結局告ったんだな』


『お前が言ったんだろ』


『成功したのはお前の実力』


『急にまともなこと言うな』


俺は笑った。


よかった。


本当にそう思う。


真帆がどんな人なのかはまだ知らないが、蓮が気に入っていた相手だ。うまくいったならそれでいい。


しばらくして、


『今度紹介するわ』


と来る。


『査定してやる』


『帰れ』


『俺んちだわ』


『じゃあ寝ろ』


いつものやり取り。


何も変わっていない。


俺はスマホを置いた。


蓮に彼女ができた。


以前なら、それだけの話だった。


実際、今だってそれだけのはずだ。


なのに今日は、東雲さんと人間関係の変化について話した直後だったからか、少しだけ別のことを考えてしまった。


蓮には真帆がいる。


明日は俺が美琴と話す。


それぞれが、それぞれの関係を作っていく。


当たり前のことだ。


俺はその当たり前を確認するように、もう一度スマホの画面を見た。


『付き合うことになった』


その文字を見ても、やっぱり嬉しい。


ただ、その嬉しさの奥にほんの少しだけ、名前のつけられない何かが残っていた。


今はまだ、それを考えなくてもいい。


明日はまず、美琴だ。


俺はスマホを伏せる。


九年先の答えより。


明日の一言の方が、今はずっと難しかった。

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