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女になった俺と、距離感がおかしくなった奴ら  作者: わかめ
女になった俺

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20/25

気づいたら、女子の輪の中にいた


月曜は、驚くほど何も起きなかった。


朝起きて、仕事をして、昼飯を食って、また仕事をして、夕方には黒田さんから「今日は終われ」と追い出されるようにログアウトした。


身体が女になってから、何も起きない一日がこんなにありがたいとは思わなかった。


そして火曜。


俺は二度目の出社をしていた。


前回と違って、今日は普通に仕事をするためだ。


駅から会社までの道にも、もう前ほど緊張しない。知らない男に声を掛けられた場所を通った時だけ少し周囲を見たが、それも意識してやったというより身体が勝手に確認した感じだった。


会社のビルへ入り、社員用ゲートの前で新しい社員証を取り出す。


昨日、人事から受け取れると連絡が来ていたので、朝一番で交換してもらったものだ。


カードに印刷されている写真を見る。


ショートボブの女。


名前は香坂悠真。


社員番号も所属も以前と同じ。


俺はカードをゲートへかざした。


電子音。


扉が開く。


今日は警備員に止められない。


「……よし」


たかが社員証で、妙な達成感があった。


     *


自分の席へ着いて、もう一つ変化に気づいた。


「何これ」


足元に、小さな台が置かれていた。


きちんとしたフットレストだ。


高さも調節できる。


近くにいた佐々木が振り返った。


「昨日、総務の人持ってきてましたよ」


「マジで?」


「Amazonの箱卒業ですね」


「会社で使う気は最初からなかったわ」


椅子へ座って足を乗せてみる。


ちょうどいい。


机に合わせて椅子を高くしても、足が浮かない。


「快適……」


「香坂さん、今までそこまで小さい人の気持ち知らなかったでしょ」


「知らなかった」


即答した。


「会社の机って、こんなにでかかったんだな」


「俺には普通ですけど」


「俺にも一週間前まで普通だったよ」


佐々木が笑う。


こういう会話はもう普通にできるようになっていた。


転性について触れてはいけない雰囲気もないし、俺自身も全部を深刻に受け取らなくなってきている。


身体が小さくなって困った。


だからフットレストを用意してもらった。


それだけの話だ。


こういうところから生活は普通になっていくらしい。


午前中は会議が二本入っていた。


一つ目はいつものチーム内だったので問題なかったが、二つ目には別部署の人間が何人か参加していた。


会議室へ入り、黒田さんの隣の席に座る。


資料を開いていると、向かい側に座った四十代くらいの男性が俺を見た。


一度。


もう一度。


俺は知らない人ではない。


向こうとも何度か仕事をしている。


ただ、直接会うのは数か月ぶりだった。


「あの……」


来た。


「はい」


「すみません、新しく入られた方ですか?」


黒田さんが横で咳払いをした。


笑いを堪えている。


俺は少しだけ考えてから答えた。


「香坂です」


「……え?」


もう一度俺を見る。


「開発側の香坂悠真です」


相手の顔が止まった。


「あ」


そして、ものすごい勢いで黒田さんを見る。


黒田さんは何も助けなかった。


「聞いてませんでした?」


俺が聞くと、相手は明らかに慌てた。


「いや、すみません。話は聞いてたんですけど、まさか……」


「俺も一週間前まで同じ感想だったので大丈夫です」


そこでようやく会議室に笑いが起きた。


相手は何度か謝ったが、別に腹は立たない。


むしろ、自分でも分かっていたことを改めて確認した感じだった。


俺を以前から知っている人間は、今の姿から昔の俺を探す。


知らない人間や、今の俺しか見ていない人間には、それがない。


この人はまだ「香坂悠真」という情報を持っていたから混乱した。


もっと時間が経って、最初から今の俺しか知らない社員が増えれば、こんな反応すらなくなるのだろう。


会議が始まれば、その人もすぐ仕事の話へ戻った。


俺が仕様について説明し始めると、


「ああ、香坂さんだ」


と小さく言われた。


「何でそこは納得するんですか」


「説明の仕方が完全に香坂さんなので」


「褒められてる?」


「たぶん」


黒田さんが横から言った。


「褒め言葉として受け取っとけ」


「じゃあそうします」


見た目より、仕事の癖の方が本人確認に強いらしい。


     *


十二時を少し過ぎたところで、デザイナーの高瀬さんが俺の席へ来た。


先週、今度出社したら昼を一緒にと言っていた人だ。


「香坂さん、お昼どうします?」


「まだ何も決めてないです」


「じゃあ行きません?」


高瀬さんの後ろには、営業の森さんと、俺も顔は知っている総務の女性がいた。


三人とも女性だ。


先週の言葉を思い出す。


『女子何人かでよく行ってる店あるんですよ』


本当に来た。


「いいですよ」


立ち上がる。


佐々木がこちらを見る。


「何」


「いや、普通に女子ランチ参加するんだなと思って」


「俺も今それ思ってた」


高瀬さんが笑う。


「佐々木さんも来ます?」


「いや、それ俺が行ったら女子ランチじゃなくなるじゃないですか」


「俺はいいのかよ」


反射的に言う。


一瞬だけ全員が止まった。


俺も、自分で言ってから気づいた。


高瀬さんが少し困ったように笑う。


「香坂さんは……今は、まあ」


「まあって何ですか」


「誘っていいかなと思って」


悪意なんてない。


むしろ俺が困らないように言葉を選んでいるのが分かる。


だから、


「いや、いいです。俺もどういう扱いが正解か分かんないんで」


と笑って流した。


結局、四人で会社を出た。


向かったのはオフィスから五分ほどの小さな洋食屋だった。


俺も存在は知っていたが、入ったことはない。


「ここ来たことなかったんですね」


高瀬さんが意外そうに言う。


「男連中で昼行く時、大体ラーメンか定食だったんで」


「それはそれで分かりやすい」


「あと量」


「今はこっちの方が合いそうですね」


「それも昨日から言われ続けてる」


席へ着き、メニューを見る。


ハンバーグ。


オムライス。


パスタ。


量は確かに控えめだった。


昔なら物足りないと思っただろうが、今は普通に十分そうに見える。


「身体小さくなると、本当に食べる量変わるんですね」


森さんが言った。


「めちゃくちゃ変わりました。最初、前と同じ感覚で頼んで残しかけました」


「もったいない」


「最近は学習してます」


「お酒も?」


高瀬さんが笑いながら聞く。


「それ聞かないでください。一杯で次の日だるかったんで」


三人とも笑った。


この話をすると、だいたい笑われる。


俺ももう笑える。


注文を済ませると、話題は自然に仕事のことから雑談へ移っていった。


高瀬さんが俺の髪を見る。


「その髪、自分でセットしてるんですか?」


「セットってほどじゃないですけど。一応」


「最初から上手くないです?」


「妹に最低限教わりました」


「妹さん強い」


「最近めちゃくちゃ先輩風吹かせてきますよ」


そこから服の話になった。


昨日ではなく一昨日、美琴と買った黒いシャツの話をすると、高瀬さんがすぐ食いついた。


「オーバーサイズ似合いそう」


「美琴にも言われました」


「美琴さんって?」


「ああ、友達です」


言ってから、ほんの少しだけ言葉に詰まった。


友達。


間違ってはいない。


でも、俺にとってはそれだけではない。


そこまで会社の人に説明する気はないので、そのまま流す。


「前はどういう服着てたんです?」


「今とそんなに変わらないです。黒とか紺で、ちょっとゆるめ」


「じゃあそのまま今の身体に合わせればいいじゃないですか」


「最近それが分かってきました」


「スカートは?」


森さんが聞く。


「まだ履いてないです」


「まだ?」


またそこを拾われる。


最近これも多い。


「絶対嫌ってほどじゃないけど、今は別に」


「そのうち履きそう」


「何でみんな俺にスカート履かせたがるんですか」


「小さいから似合いそう」


「理由が雑」


また笑われた。


こういう話をしながら飯を食うこと自体、男だった頃にはほとんどなかった。


服の話をすることはあった。


でも、それはブランドや靴や時計の話で、身体の形や髪やスカートまで含めて「自分がどう見えるか」を女同士の雑談として話すのは初めてだ。


不思議なのは、思っていたほど居心地が悪くないことだった。


知らないことは多い。


話題によっては何を言えばいいか分からない。


それでも、分からなければ普通に聞ける。


今さら変に知ったふりをする必要もない。


「そういえば香坂さん、化粧しないんですね」


総務の女性が言った。


「まだ一回もしてないです」


「興味ない?」


「今のところは」


「別にしなくても全然いいと思いますよ」


「千尋にも同じこと言われました」


「肌きれいだし」


その言葉には少し反応に困った。


「それ、俺が何か努力した結果じゃないんですよね」


「そこは羨ましい」


「理不尽だ」


笑われる。


身体が変わったことで手に入ったものを褒められると、未だにどう受け取ればいいのか分からない。


背が低い。


肌がきれい。


髪が似合う。


顔が整っている。


どれも自分で作ったものではない。


それでも今は俺の身体だ。


褒められれば、少し嬉しい。


そのこと自体にも、以前ほど抵抗しなくなってきていた。


     *


食事が半分ほど進んだところで、森さんが何気なく言った。


「でも香坂さん、女になって一番困ったのって何です?」


「一番?」


少し考える。


服。


トイレ。


仕事。


身長。


筋力。


知らないことはいくらでもある。


ただ、最近一番困ったと言えば。


「ナンパですかね」


三人の表情が一斉に変わった。


「されたんですか?」


「先週。駅前で」


「大丈夫でした?」


「何もされてないです。ちょっとしつこくついてこられたくらい」


それでも三人はかなり真面目な顔をしていた。


俺は千尋と美琴へ話した時を思い出す。


この反応も同じだ。


「人多い方行ったらいなくなったんで」


「それ正解です」


高瀬さんがすぐ言った。


森さんも頷く。


「変に相手しない方がいいですよ。断ったら怒る人もいるし」


「美琴にも言われました」


「あと、帰り道ついてくる感じだったら家まで行かない方がいいです」


「それも」


「コンビニとか入って」


「それも聞いた」


三人とも笑った。


「もう教育済みじゃないですか」


「女側の先輩が二人いるんで」


「二人?」


「妹と友達」


「じゃあ大丈夫ですね」


大丈夫なのかは分からない。


でも、以前なら知らなかった話を、今はこうして自然に女性たちから聞いている。


それが妙だった。


男だった頃、この人たちもこういうことを考えながら生活していたのだろうか。


もちろん全員が同じ経験をしているわけではない。


それでも俺よりは知っている。


俺には、今まで聞く理由がなかった。


今はある。


「何か、女になってから知らないこと多すぎるんですよね」


思わず言う。


高瀬さんが少し笑った。


「最初から全部知ってる女の人もいないですよ」


「え?」


「私だって二十代になってから知ったことありますし。服とか化粧だって人によって全然違うし」


森さんも頷いた。


「生理用品もずっと同じの使ってる人ばっかじゃないですしね」


その単語に、一瞬だけ意識が止まった。


生理。


昨日、支援団体のサイトで読んだばかりだ。


まだ俺には来ていない。


でもそのうち来る可能性が高い。


三人は特に気にする様子もなく話を続けている。


俺も何も言わなかった。


今ここで質問するほどのことではない。


来た時に考えればいい。


昨日そう決めた。


ただ、女性同士の雑談の中では、それが特別な単語でも何でもないことだけは分かった。


俺にとってはまだ、未来の大事件なのに。


その差も、少し不思議だった。


     *


会社へ戻る途中、高瀬さんが俺の隣を歩きながら言った。


「香坂さん、意外と普通ですね」


「何がです?」


「こういう感じになるの嫌がるかと思ってました」


「こういう感じ?」


「女子何人かでご飯とか」


ああ。


俺も最初はそう思っていた。


「別に嫌ではないです」


「よかった」


「ただ、俺が入って女子ランチって言っていいのかは今も分かんないですけど」


高瀬さんは少し考えた。


「香坂さん自身は、今も男って感じなんですか?」


質問は慎重だった。


たぶん聞いていいか迷ったのだろう。


俺も少し考える。


「俺は俺なんで。自分では男のつもりです」


言ってから、続けた。


「ただ、身体は完全に女だし、外から見たら女なのも分かってるんで。その辺どう整理したらいいのかは、まだ分かんないですね」


「そりゃ一週間ですもんね」


「最近そればっか言われます」


「でも本当にそうじゃないですか」


高瀬さんはそれ以上踏み込まなかった。


その距離がありがたかった。


     *


午後の仕事を終えて帰宅すると、支援団体から新しいメールが届いていた。


来週末の相談日時が正式に確定したらしい。


東雲遥。


転性から九年の当事者。


メールには、事前に簡単なアンケートへ回答してほしいと書かれていた。


リンクを開く。


転性した日。


現在の生活状況。


就労状況。


家族や友人への説明状況。


困っていること。


医療面で確認したいこと。


順番に入力していく。


仕事は復帰済み。


家族には説明済み。


友人にも一部説明済み。


身体面については、今のところ特に異常なし。


困っていることの欄では少し迷い、


『生活そのものより、人との距離や、自分がどう考えればいいのか分からないこと』


と書いた。


次の項目へ進む。


そこで指が止まった。


現在、ご自身の性別をどのように認識していますか。


選択肢が並んでいる。


男性。


女性。


その他。


わからない。


回答したくない。


俺はしばらく画面を見た。


これなら簡単だと思っていた。


自分は男だ。


身体が女になっただけだ。


だから「男性」を選べばいい。


実際、そのつもりで指を動かした。


でも、押す直前に少し止まった。


今日、女性社員たちと昼飯を食った。


服の話をした。


ナンパされた話をして、知らなかったことを教えてもらった。


女子ランチに誘われることも、今の俺が女性用設備を使えることも、世間から女として見られることも、もう事実として生活の中に入っている。


だからといって、自分が女になったと思っているわけではない。


男だった俺が消えたとも思っていない。


それでも。


「自分は男です」とだけ答えると、今の生活の一部が抜け落ちるような感じがした。


逆に「女性」を選ぶ気にはならない。


「その他」も違う。


「わからない」。


そこまで分からないわけでもない。


「……質問むずくね?」


誰もいない部屋で文句を言う。


結局、俺は「男性」を選んだ。


今の自分に一番近いのは、それだった。


ただ、その下に自由記入欄があった。


補足があればご記入ください。


俺は少し考えてから入力した。


『自分では男のつもりです。ただ、身体や社会生活は女性として扱われるため、その二つをどう考えればいいのかはまだ分かりません』


読み直す。


これなら、今の俺に一番近い。


送信ボタンを押した。


画面が切り替わる。


回答完了。


それだけだった。


一週間前なら、「男」に丸をつけて終わっていたと思う。


今でも答えそのものは変わっていない。


ただ。


その答えに、説明が必要になった。


俺はスマホを置き、ソファへ身体を預ける。


女になったから、俺が男ではなくなったわけじゃない。


でも、男だと言えばそれで全部説明できるほど、今の俺は単純でもなくなっていた。

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