一週間経っても、俺は戻らない
日曜の朝、目を覚ました俺は、天井を見たまましばらく動かなかった。
カーテンの隙間から差す光も、枕元のスマホも、寝る前に脱いだ部屋着の位置も昨日と変わらない。ごく普通の朝だった。
ただ、今日は日付を意識していた。
身体を起こすと、胸元にいつもの重さがついてくる。ベッドから足を下ろした時の床までの距離も、もう見慣れていた。
洗面所へ行き、鏡を見る。
ショートボブの女が、眠そうな顔でこちらを見返している。
「……一週間か」
先週の日曜は、この身体になった翌日だった。
朝起きたら戻っているかもしれない。
一日では無理でも、数日なら。一週間経てば。
そんな根拠のない期待が、どこかに残っていたらしい。
けれど、鏡の中にいるのは昨日と同じ女だった。
「そりゃそうだよな」
落ち込んでいないわけではない。ただ、初日のように頭が真っ白になることもなかった。
顔を洗い、髪を整える。
七日前には腰まであった髪をどう扱えばいいのか分からなかったのに、今は寝癖を直すくらいなら自分でできる。
身体が戻らなかったことより、そんなことを当たり前にしている自分の方が不思議だった。
*
朝飯のあと、洗濯機を回している間にクローゼットを開けた。
昨日、美琴と買った服をまだしまっていなかった。黒いシャツとワイドパンツ、白いトップスをハンガーに掛けようとして、手が止まる。
クローゼットの大半を占めているのは、男だった頃の服だ。
シャツ、パーカー、ジャケット、スラックス。
以前なら普通に着ていたものばかりだが、今はどれも大きすぎる。
「……狭えな」
物理的には十分広い。
ただ、男だった俺の服と、今の俺の服が、別人の衣装のように並んでいるのが妙だった。
古いシャツを何枚か取り出す。
捨てるか。
そう思ったが、すぐにやめた。
「いや、捨てる理由ねえだろ」
戻るかもしれない。
戻らなかったとしても、今すぐ処分する必要はない。
俺は古い服を左側へまとめ、右側に今の身体用の服を掛けた。左側の方が圧倒的に多い。それでも、昨日買った黒いシャツを右側へ掛けると、妙に収まりがよかった。
日曜に千尋と買った服は、生活に必要だから買った。
昨日の服は少し違う。
初めて、自分で着たいと思って買ったものだった。
「……増えたな」
まだ数えるほどしかないのに、そう感じた。
一番端に掛かっていた黒いパーカーに目が留まる。男だった頃によく着ていた服だ。数日前に一度着てみたが、完全に服に着られていた。
俺は袖をつまみ、少し考える。
「まあ、これは取っとくか」
戻った時に着るかもしれない。
戻らなくても、いつか別の使い道があるかもしれない。
今はまだ、全部を決める必要はなかった。
*
昼前、クローゼットの整理を終えると、洗面所や机の引き出しも片づけ始めた。
髭剃り、男物の整髪料、大きめのベルト、今の足に合わない靴。
一週間使っていない電動シェーバーを手に取る。スイッチを入れると、聞き慣れた音が鳴った。
七日前まで、毎朝これを顔に当てていた。
今では使う場所がない。
胸や身長、声の変化だけではない。毎朝の習慣が、何の説明もなく生活から消えている。一方で、下着を選んだり髪を整えたり、以前は必要なかったことが増えた。
俺はシェーバーの電源を切り、棚の奥へしまった。
今は使わない。
それだけでいい。
*
昼飯のあと、病院でもらった書類のことを思い出した。
封筒の中から、転性現象当事者・家族向け相談窓口の案内を取り出す。
初日に説明された時は、それどころではなかった。身体の変化を理解するだけで精一杯で、知らない当事者と話す気にはなれなかった。
今も積極的に行きたいわけではない。
ただ、この一週間で周囲にはずいぶん助けられた。
蓮、千尋、黒田さん、美琴、会社の人たち。
みんな俺を知っているから、話を聞いてくれる。
けれど、誰も男として二十年以上生きたあと、突然女になった経験はない。
千尋や美琴は女性としての生活を教えてくれる。蓮は男だった俺との違いを一番よく知っている。会社は社会生活を続ける方法を考えてくれる。
それでも、その先の答えだけは誰も持っていなかった。
俺は案内のQRコードを読み込み、サイトを開いた。
活動内容、相談窓口、医療機関や行政手続きの情報共有、当事者交流会、家族向け相談。
ページの下には、
「現在、国内で確認されている転性現象当事者およびその家族を中心に運営しています」
と書かれていた。
当事者向けのページには、初めての受診から仕事への復帰、身分証の更新、生活用品、体調管理まで、この一週間でぶつかってきた問題が並んでいる。
「先に見とけばよかったな……」
その中に「月経周期」という文字を見つけ、指が止まった。
病院でも説明された。身体は健康な成人女性として機能している。転性直後はホルモン環境の変化で、最初の月経まで数週間かかる場合もある。
その時は情報量が多すぎて、ほとんど頭に入っていなかった。
「……これもあるんだよな」
まだ来ていない。だから実感もない。
ただ、戻らない限り、そのうち来る可能性は高い。
俺はページを閉じた。
今日は考えなくていい。
来た時に考える。
最近、そういうものが増えていた。
*
サイトを見ていると、匿名の記事が目に留まった。
「転性から九年経った当事者から、発症直後の方へ」
内容は思っていたより普通だった。
突然変わった身体を、すぐに受け入れる必要はない。
元の身体へ戻りたいと思ってもいい。
今の身体に合う服を選ぶことは、元の自分を諦めることではない。
生活できる状態を作ることと、将来どう生きたいかを決めることは別の問題だ。
最後に、
「最初から答えを決めなくて大丈夫です。私も長い間、何一つ決められませんでした」
と書かれていた。
俺はその言葉を二度読んだ。
この一週間、女物の服を買い、髪を切り、会社へ戻り、今の身体用の社員証を作った。クローゼットにも、今の身体用の場所を作った。
そのたびに、戻らない前提で生活を作っているような気がしていた。
でも、生活できる状態を作ることと、戻りたいかどうかは別だ。
「……そりゃ生活しないわけにいかねえしな」
仕事もある。腹も減る。外にも出る。
戻る方法が見つかるまで、すべてを止めて待つわけにはいかない。
昨日、美琴と服を選んで楽しかったことも、「このままでいい」と決めたことにはならない。
今の身体で少し楽しく生きることと、元に戻りたい気持ちは、同時にあっていい。
俺は相談フォームを開いた。
氏名、連絡先、転性確認日、相談内容。
何を相談したいのかは、まだよく分からなかった。
身体のことなら病院に聞けばいい。生活のことなら千尋や美琴がいる。仕事は黒田さんがいる。
それでも、少し考えてから入力した。
『一週間前に転性しました。生活はできていますが、この先どう考えればいいのか自分でもよく分かりません。同じ経験をした人の話を聞いてみたいです』
曖昧な文章だった。
だが、今の俺にはそれ以上書けなかった。
送信すると、「お問い合わせを受け付けました」と表示された。
何かが解決したわけではない。
*
夕方、千尋から電話がかかってきた。
「何」
『暇?』
「まあ」
『そっち行こうかと思って』
「何しに」
『兄ちゃんが生きてるか見に』
「毎日確認されてんな、俺」
結局、千尋は来ないことになった。話の途中で、俺は支援団体へ連絡したことを伝えた。
『いいんじゃない?』
「お前、もうちょっと悩んだりしないの?」
『同じ経験をした人と話せるなら、その方がいいでしょ。私じゃ分かんないこともあるし』
「潔いな」
『分かんないものは分かんないもん』
無理に分かったふりをしない。
それが今はありがたかった。
『で、一週間だけどどう?』
「何が」
『身体』
「どうって、女のまま」
『それは見れば分かる』
電話の向こうで笑い声がした。
『ちょっとは慣れた?』
考えてから答える。
「最初よりは」
髪は整えられる。服も着られる。外にも出られる。仕事もできる。
知らない男に声を掛けられたら、人の多い方へ行くという選択肢も覚えた。
「でも、慣れたって言うと違うんだよな」
『じゃあ?』
「分かるようになってきた、くらい」
この身体でどう動けばいいのか。
何に困るのか。
何を知らないのか。
少しずつ分かってきただけだ。
千尋は少し黙ってから言った。
『それでいいんじゃない?』
「また適当だな」
『だって一週間だよ』
言われて、少し笑った。
確かに、まだ一週間しか経っていない。
*
夜、風呂から上がり、部屋着のままベッドへ座った。
クローゼットの左側には男だった俺の服、右側には今の俺が着る服が並んでいる。
どちらも、今は捨てなくていい。
スマホが震えた。
昼間連絡した支援団体からの返信だった。
『香坂悠真様
お問い合わせありがとうございます。
ご希望であれば、当事者相談員とのオンライン面談、または対面での個別相談をご案内できます。
初回相談については、転性から九年経過している女性相談員が担当可能です』
メールの下には、相談員の名前があった。
東雲 遥。
転性から九年。
俺より九年先に、この身体の変化を経験した人。
この一週間、俺は何度も「女になった」と説明してきた。病院にも、会社にも、美琴にも。
でも、今度話す相手には、その説明から始めなくていい。
それだけで、少し不思議だった。
俺は候補日時を確認し、来週末の枠を選んだ。送信する前に少し迷ったが、そのまま申し込む。
一週間経っても、俺は男には戻らなかった。
だからといって、女として生きていく覚悟ができたわけでもない。
俺はその間にいる。
今は、それでいいらしい。
そう思えるだけでも、一週間前より少し楽だった。




