似合う服と、着たい服は違うらしい
土曜の十一時二十分。
待ち合わせ場所へ着いた俺は、駅前のガラスに映った自分を何となく確認した。
白いトップスに黒いパンツ。日曜に千尋と買った服の中では、たぶん一番無難な組み合わせだ。靴も黒のスニーカーで、髪は朝から二回ほど整えた。
別に気合いを入れたつもりはない。ただ、美琴と二人で飯を食うとなると、男だった頃から多少は格好を気にしていた。それが今も残っているだけだ。
そういうことにしている。
「悠真」
声のした方を向くと、美琴が歩いてきた。
薄手のシャツに細身のパンツという、いつもの美琴らしい格好だった。俺を見るなり少し笑って、目の前まで来る。
「早いじゃん」
「お前が五分前行動しないだけだろ」
「まだ十分前だよ」
「じゃあ俺が早すぎた」
美琴は時計を確認してから、俺を上から下まで見る。
「何だよ」
「ちゃんと自分で服選べたんだなと思って」
「馬鹿にしてんの?」
「褒めてる」
「二十六歳の男に言う褒め方じゃねえだろ」
「今着てるの女物じゃん」
「そこは関係ないだろ」
美琴が笑う。
こういう会話自体は以前と変わらない。ただ、並んで歩き始めると、やっぱり視界が違う。以前はほぼ同じ高さだった美琴の顔を、今は少し見上げる形になる。
もう一週間近く経ったのだから、そろそろ慣れてもよさそうなものだが、知っている相手ほど身長差の変化が分かりやすい。
「何食べるんだっけ」
「ランチ。前に話したカフェ」
「量少ないって言ってたやつ?」
「昨日、会社の人にも同じこと言われた」
「今の悠真ならちょうどいいんじゃない?」
「最近みんな、俺の食事量を勝手に管理し始めてない?」
「だって明らかに減ってるでしょ」
否定はできなかった。
女になってから、以前と同じ量を食べようとすると途中で苦しくなる。身体が小さくなった以上、当然といえば当然なのだろう。
そんな話をしながら歩いていると、駅の反対側にある店へ着いた。
以前、美琴が一度行ってみたいと言っていた店だ。
*
ランチは普通に美味かった。
問題があるとすれば、美琴の言った通り、今の俺には量がちょうどよかったことくらいだ。
「悔しい」
「何が?」
「昔ならこれ食って、帰りに何か追加してた」
「それは食べすぎ」
「普通だろ」
「普通じゃない」
美琴はサラダを食べながら笑っている。
以前なら俺の方が先に食べ終わることが多かったが、今日はほとんど同時だった。身体が変わってから、こういう小さなところまで以前の基準が使えなくなっている。
ただ、もう毎回驚くほどではなくなってきた。
「で、服見るんだろ?」
俺が聞くと、美琴が少し嬉しそうに頷いた。
「うん。この辺、いろいろあるよ」
「その顔、絶対俺よりお前が楽しみにしてるだろ」
「だって悠真、今ほとんど服ないんでしょ?」
「あるって」
「何着?」
答えに詰まる。
日曜にまとめて買ったとはいえ、普段着として使えるものを数えても、それほど多くはない。
「……一週間くらいは回せる」
「洗濯しながら?」
「当然だろ」
「じゃあ、見るだけ見ようよ」
「まあ、いいけど」
本当に見るだけで終わる気はしなかった。
*
最初に入った店は、日曜に千尋と行ったところより少しカジュアルだった。
男女で完全に売り場が分かれているというより、同じフロアにいろいろな形の服が並んでいる。それだけで少し気が楽になる。
女物売り場へ入ること自体にはもう抵抗が薄れてきたが、いかにも女性向けの店に一人で入れるかと言われると、まだ自信がない。
美琴は慣れた様子でラックを見ながら、ときどき服を手に取っている。
「これとかどう?」
差し出されたのは、薄い色のシャツだった。
「普通じゃない?」
「普通でいいじゃん」
「千尋も同じこと言ってたな」
「じゃあ正しいんだよ」
受け取って身体に当ててみる。
鏡を見ると、確かに悪くない。ただ、何となく自分で選びたい感じはしなかった。
「似合うと思うけどな」
美琴が言う。
「似合うのと、着たいのは違うな」
口にしてから、自分で少し驚いた。
つい数日前まで、俺にとって服は「今の身体に合うか」「外に出ても変じゃないか」くらいしか基準がなかった。着たいかどうかまで考えたのは、もしかすると初めてかもしれない。
美琴は少し考えるように俺を見た。
「じゃあ、悠真が着たいの探してみれば?」
「それが分かんねえんだよ」
「男の時、どういう服が好きだった?」
「適当。黒とか紺とか多かったし、シャツとかパーカーとか。ちょっと大きめのやつ」
「じゃあ、その辺から探せばいいじゃん」
「女物で?」
「女物でもあるよ」
美琴はそう言って、少し離れたラックへ歩いていった。
俺も後を追う。
並んでいたのは、さっきよりゆったりしたシルエットのトップスだった。ドロップショルダー気味のシャツや、少し厚手のパーカー、横幅のあるカットソー。
その中に黒のシャツを見つける。
手に取ってみると、かなりゆるい。
「これ、でかくね?」
「そういう形なんじゃない?」
「俺が着たら、また服に着られそう」
「サイズ見れば?」
以前、自分の古いパーカーを着て完全に失敗したことを思い出す。
男だった頃の俺が着ていたオーバーサイズと、今の身体に合わせて作られたオーバーサイズは、たぶん全く違う。
美琴がタグを確認した。
「これ、一番小さいサイズあるよ。試してみたら?」
少し迷った。
「……まあ、試すだけ」
「うん」
美琴の顔が明らかに楽しそうなのが気に入らない。
*
試着室で着替えて、カーテンを開ける。
「どう?」
外で待っていた美琴が俺を見て、少し黙った。
「何」
「いや」
「何だよ」
「似合う」
さっきより即答だった。
鏡を見る。
黒のゆったりしたシャツ。
袖は少し長めだが、手が完全に隠れるほどではない。肩も落ちている。ただ、前に自分の古いパーカーを着た時みたいに、服の中で身体が消えている感じはしなかった。
むしろ、小さい身体と大きめの服の差が、最初からそういう形として成立している。下に履いている黒のパンツとも合っていた。
「……ああ」
少しだけ分かった。
大きい服が駄目だったわけではない。
サイズが合っていなかったのだ。
「これなら変じゃないな」
「変どころか、かなり似合うよ」
「そこまで?」
「悠真、顔ちょっときつめだから、こういうの合うんだと思う」
「顔きついは余計だろ」
「褒めてるって」
美琴が鏡越しに俺を見る。
「かわいい系より、ちょっと格好いい感じの方が好き?」
「たぶん」
「じゃあ、無理して女の子っぽい服を選ばなくてもいいじゃん」
「別に無理してたわけじゃないけど」
「でも、今まで『女として変じゃないか』で選んでたでしょ」
図星だった。
俺は鏡を見る。
今の身体になってから、自分がどう見えるかはずっと気にしていた。女として変ではないか。知らない人に変な目で見られないか。会社へ行っても浮かないか。
でも、今鏡の中にいる自分を見て考えているのは少し違う。
これなら着たい。
そう思った。
「これ買う」
「早い」
「気に入ったからいいだろ」
「うん。いいと思う」
美琴が笑う。
そのあと、合わせるパンツも何本か見た。
細身より少し太い方が俺は好みらしく、美琴に勧められたものより、自分で選んだワイドパンツの方がしっくりきた。
「何か、どんどん男の時の趣味に戻ってない?」
試着室から出てきた俺を見て、美琴が言う。
「悪いか」
「悪くない。むしろ、ちゃんと悠真だなって」
その言葉に、少しだけ動きが止まった。
「見た目は全然違うけど」と美琴は続けた。「選ぶものは結局そういう感じなんだなって思って」
俺は鏡へ向き直った。
ショートボブの小柄な女が、ゆったりした黒いシャツと太めのパンツを着ている。
男だった頃の俺とは、もちろん全然違う。同じ格好をしているわけでもない。
でも、何となく分かる。
自分で選んだ感じがする。
「……これなら、まあ」
「気に入った?」
「ああ」
「じゃあ買いだね」
今日はじめて、服を買うことが少し楽しいと思った。
*
二軒目の店では、美琴がなぜかスカートを持ってきた。
「いや、いらない」
「まだ何も言ってないけど」
「顔が言ってる」
「一回くらい試してみれば?」
差し出されたのは、膝より少し上くらいの丈のシンプルなスカートだった。
派手ではないし、いかにも可愛いという感じでもない。
それでも俺は首を振る。
「今はいい」
「今は?」
美琴がそこを拾った。
「そのうちな」
「覚えとこ」
「忘れろ」
美琴は楽しそうにスカートを元へ戻した。
その代わり、薄手のパーカーともう一枚シャツを試し、結局黒いシャツとワイドパンツ、それから少し大きめの白いトップスを買った。
紙袋を受け取ったところで、思ったより金を使ったことに気づく。
「服って高えな」
「今さら?」
「男物も高かったけど、一気に揃えることなかったからな」
「今は最初からだからね」
確かにそうだった。
クローゼットを二十六年かけて作ってきたわけではない。一週間前に全部ゼロになったのだから、少しずつ揃えていくしかない。
店を出て、美琴と駅の方へ歩く。
「今日はありがとな」
俺が言うと、美琴がこちらを見る。
「服?」
「それも。昨日の話も」
「ああ、ナンパの?」
「そう」
美琴は少し笑った。
「どういたしまして」
「女側の先輩」
「そうそう」
「調子乗るなって」
また笑われる。
でも、本当に助かっていた。
千尋に教えてもらうのとは少し違う。妹には生活の立て直しを手伝ってもらっているが、美琴から教わるのは、もう少し外側のことだった。
どういう距離で話すのか。どこを警戒するのか。何を着ればいいのか。そして、何を着たいと思ってもいいのか。
少しずつ、俺の知らなかった選択肢が増えている。
*
駅前で美琴と別れる直前、彼女が俺の紙袋を見て言った。
「帰ったら、もう一回着るでしょ」
「何で」
「気に入った服買った時って、そうならない?」
「ならねえよ」
「絶対着ると思う」
「着ねえって」
「じゃあ写真送って」
「何でだよ」
「見たいから」
さらっと言われて、一瞬返事が遅れた。
美琴自身は特に意味を込めていないのだろう。
女友達同士なら、買った服を着て写真を送り合うくらい普通なのかもしれない。
また一つ、俺の知らない普通だ。
「気が向いたらな」
そう返すと、美琴は笑った。
「じゃあ待ってる」
手を振って別れる。
俺は紙袋を持ったまま、電車へ向かった。
*
家に着いたのは十五時過ぎだった。
紙袋をベッドの上に置き、黒いシャツを取り出す。
試着室で見た時と同じ服だ。
「……別に着なくてもいいんだけどな」
誰に言い訳するでもなく言ったくせに、数分後には鏡の前に立っていた。
「着てんじゃねえか」
自分で突っ込む。
改めて見ても、やっぱり悪くない。
男だった頃に好きだったものを、そのまま今の身体へ持ってくることはできない。でも、今の身体に合わせて選び直せば、好きだった雰囲気まで捨てる必要はないらしい。
それは思っていたより嬉しかった。
スマホを手に取り、美琴とのトーク画面を開く。
カメラを起動して鏡越しに一枚撮る。確認すると顔が妙に真面目なのが気になって撮り直し、二枚目は髪が少し変な気がして直した。
三枚目を撮ろうとしたところで、ようやく我に返る。
「……何やってんだ俺」
たかが服の写真だ。
美琴は友達だ。
何をこんなに気にしているのか。
結局、一番マシに見えた二枚目を選んで送った。
『結局着た』
既読はすぐについた。
『ほら』
続けて、
『やっぱり似合う。こういうの好き』
というメッセージが来た。
服の話だ。
分かっている。
それでも「好き」の二文字だけ先に目へ入って、心臓が一瞬だけ変な動きをした。
『服がな』
念のため送る。
少しして、
『何だと思ったの?』
と返ってきた。
「うるせえ」
スマホへ向かって言う。
『何も思ってねえよ』
そう送ると、美琴から笑っているスタンプが返ってきた。
俺はスマホをベッドへ放る。
男だった頃から好きだった相手なのだから、こういう言葉に反応すること自体は別におかしくない。ただ最近は、美琴との距離が近くなるたびに、喜んでいいのか困ればいいのか分からなくなる。
そんなことを考えていると、またスマホが震えた。
今度は蓮だった。
『何時からやる?』
そういえば、夜はゲームをする約束だった。
時計を見る。
まだ十五時半。
『20時くらい』
送ると、少しして返事が来た。
『お前んち行っていい?』
オンラインだと思っていた俺は、画面を見ながら首を傾げた。
『なんで』
『家いるし。久々にあのゲームやりたい』
久々と言っても、最後にうちで遊んだのは二週間も前だ。
男だった頃なら、確認するまでもなく「来れば」で終わる話だった。
俺は少しだけ迷った。
その迷いが出たこと自体に気づいて、余計に腹が立つ。
蓮は蓮だ。
十年以上うちへ来ている。
今さら何を考えている。
『来れば』
送る。
『飯食ってから行く』
『了解』
やり取りを終えた俺は、もう一度鏡を見る。
買ったばかりの黒いシャツを着た、小柄な女が映っている。
このままでも別に問題はない。
ただ、蓮が来るだけなのに、わざわざ今日買った服を着たままでいるのも何となく変な気がした。
美琴に見せるためなら写真を三枚も撮ったくせに、蓮に見せるとなると急に理由を考え始めている自分も気に入らない。
「……何意識してんだよ」
鏡の中の自分へ言って、シャツを脱いだ。
いつもの部屋着に着替える。
そうしてしまえば、さっきまで鏡の前で考えていたことまで少し馬鹿らしくなった。
蓮は蓮だ。
十年以上、何度もこの部屋へ来て、ゲームをして、酒を飲んで、くだらない話をしてきた。
今日だって同じだ。
俺は買ったばかりの黒いシャツをハンガーへ掛けると、いつものようにゲーム機の準備を始めた。




