俺の知らない「普通」を、美琴は知っている
金曜の朝は、久しぶりに何事もなく始まった。少なくとも、目を覚ました時点では新しい問題が増えていなかった。
身体が女になってから一週間も経っていないのだから、起床直後に何も起きていないだけで「今日は平和だ」と思えるあたり、俺の基準もだいぶ壊れてきている気がする。
顔を洗って髪を整え、昨日会社へ着ていった服を洗濯機へ放り込む。朝食を簡単に済ませて、通販の箱を足置きにした仕事机へ座ると、会社のチャットにはすでに黒田さんからメッセージが届いていた。
『昨日の出社で体調問題なし?』
『大丈夫です。ちょっと疲れましたけど』
『今日はリモート。無理そうなら言え』
『普通に働けます』
少しして、
『昨日も聞いた』
と返ってきた。
「信用ねえなあ」
口では文句を言ったが、実際にはありがたかった。
昨日会社へ行ったことで、とりあえず仕事へ戻るための大きな山は一つ越えた。社員証はまだ再発行待ちで、公的な手続きもこれからだが、少なくとも社内では「香坂悠真が突然いなくなった」状態ではなくなっている。
午前中はそのまま普通に仕事をした。案件を確認し、仕様書へコメントを入れ、佐々木とチャットでやり取りする。昨日、自分の席に座った時は椅子と机の高さが合わなくて笑ってしまったが、仕事そのものは変わらない。
十一時を過ぎた頃、個人用のスマホが震えた。
美琴だった。
『昨日の「色々あったけど大丈夫」の色々、今日になったら話せる?』
覚えていたらしい。
『仕事中』
『お昼なら?』
時計を見る。
『12時過ぎなら』
『じゃあ電話する』
俺はスマホを伏せた。昨日は説明する気力がなくて流したのに、結局翌日には話すことになるらしい。
まあ、美琴ならいいか。
そう思えるくらいには、俺の中で近い相手なのだろう。
*
十二時十分。
昼飯を温めているところで、美琴から電話がかかってきた。
「もしもし」
『お疲れさま』
「お疲れ。何か仕事の電話みたいだな」
『香坂さん、昨日の件についてヒアリングさせていただきます』
「切るぞ」
美琴が笑った。
俺は電子レンジから皿を出し、スマホをテーブルへ置く。今日はビデオ通話ではなく音声だけなので、そのまま食べながら話すことにした。
『で、会社どうだった?』
「思ったより普通だった。最初はみんな固まったけど、仕事の話始まったらいつも通り」
『よかったじゃん』
「男連中がちょっと遠くなって、女の人らが近くなったけどな」
『ああ』
「お前も千尋も、その話だけ反応軽いんだよ」
『だって想像つくもん。男の人側は今までと同じ感じで触ったり近づいたりしていいのか分かんなくなる人もいるだろうし、女の人は逆に前より警戒しなくなるでしょ』
「俺、昨日まで同僚だっただけなんだけどな」
『でも身体は変わってるからね』
「分かってるけど、頭が追いつかねえんだよ」
『それは悠真が一番大変だろうね』
美琴の言い方には、面白がるようなところがなかった。
そういうところが好きだったのかもしれない。人の話を聞く時、必要以上に深刻にはしないが、本人が本当に困っているところではちゃんと止まる。男だった頃から変わらない部分だ。
『それで?』
「何が」
『「色々」の残り』
覚えてやがる。
俺は箸を止めた。
「帰りにナンパされた」
数秒、電話の向こうが完全に静かになった。
「もしもし?」
『何されたの?』
声が一段変わっていた。千尋とほとんど同じ反応だ。
「何もされてない。声掛けられて、断ってもしばらくついてこられただけ。途中で人多い方行ったら来なくなった」
『触られてない?』
「触られてない」
『それ、普通に怖いやつじゃん』
「千尋にも同じこと言われた」
『怖くなかった?』
少し迷ったが、昨日よりは素直に答えられた。
「……ちょっとは」
一晩寝たからなのか、すでに千尋へ話したからなのかは分からない。
美琴は笑わなかった。
『そっか。ちゃんと人いる方行ったの偉いね』
「二十二歳の妹にも似たようなこと褒められたんだけど、俺二十六なんだよな」
『年齢関係ないでしょ。悠真こういうの初めてなんだから』
「初めてだけどさ」
『男だった頃、ナンパされたことないでしょ?』
「あるわけねえだろ」
『知らない男にしつこくついてこられたことは?』
「客引きなら」
『それとは違うから』
「昨日知った」
言うと、美琴が少し笑った。ただ、からかうような笑いではなかった。
何となく気になって、
「お前、こういうのある?」
と聞いてみる。
美琴は少し考えてから、ごく普通の調子で答えた。
『あるよ。毎週とかじゃないけど、駅でついてこられたり、断ったら急に怒る人いたり。昔、一回だけ家の方向知られたくなくてコンビニ入ったこともある』
箸を持ったまま、俺は黙った。
美琴の口調は淡々としている。大事件として話しているわけではなく、「そういうこともあった」くらいの話し方だった。
だから逆に引っかかった。
俺は美琴と二年近く知り合いだった。二人で飯も食ったし、飲みにも行った。終電近くまで一緒だった日だってある。
それでも、そんな話を聞いたことは一度もない。
たぶん、話す理由がなかったのだ。
男だった俺には。
「そういうの、今まで聞いたことなかったな」
『言ってないもん。別に隠してたわけでもないけどね』
「まあ、そりゃそうか」
俺だって駅でしつこい客引きに捕まった話を、いちいち美琴へ報告したりはしなかった。
ただ、美琴にとっては昔から知っていた「外を歩く時の選択肢」の中に、昨日俺が初めて知ったものが普通に入っている。
人の多い方へ行く。店へ入る。駅員の近くへ行く。家の方向を知られないようにする。
俺は昨日、その場になって初めて考えた。
美琴はもう知っている。
「なんか知らないルール多いな」
『ルールってほどじゃないけど』
「俺には全部新しいんだよ」
『まあね。でも、知らないなら聞けばいいじゃん』
「誰に」
『私とか。千尋ちゃんとか』
「千尋は昨日からめちゃくちゃ言ってくる」
『ちゃんと聞きなよ』
「妹に説教される兄の気持ちにもなってみろ」
『今は千尋ちゃんの方が先輩なんだから仕方ないでしょ』
「何の先輩だよ」
『こういうのの』
少し間を置いて、美琴がごく自然に続けた。
『私も、こういうのなら悠真より先輩だから』
その言葉が妙に残った。
美琴は俺より年下だ。社会人としても俺の方が少し長い。男だった頃なら、俺が美琴に何かを教える側になることはあっても、こういうことについて教わるなんて考えたこともなかった。
でも今は、本当にその通りだった。
「じゃあ頼むわ、先輩」
冗談っぽく返す。
『任せなさい』
「調子乗んな」
『素直じゃない後輩だなあ』
電話越しだから、どんな顔をしているのかは分からない。
それでも俺は少し安心していた。昨日怖かったことを話しても、自分が弱くなったような嫌な気分にはならなかった。知らないものを知らないと言っていい相手がいるだけで、こんなに楽になるものなのかと思う。
同時に、少しだけ複雑でもある。
好きな女との距離は、以前より明らかに近くなっている。
ただ、美琴が近づいているのは、男だった俺へではない。女性になった俺を同じ側へ引き入れるようにして、手を伸ばしてくれている。
ありがたいし、嬉しい。
だからこそ、全部を素直に喜べない自分が面倒だった。
*
昼休みが終わる少し前、美琴が思い出したように言った。
『そういや明日空いてる?』
「土曜?」
『うん』
今週は病院と買い物と仕事復帰で予定が詰まりすぎていたが、明日は特に何もない。
「空いてるけど」
『じゃあ昼ご飯行かない? 前に言ってた店、新しいランチ始めたらしいよ』
「駅の反対側のカフェだっけ」
『そう。あと、そのへん服屋多いから、必要なら見ればいいし』
「服?」
『まだ全然ないんでしょ』
「最低限はある」
『最低限しかないってことでしょ』
反論できない。
昨日会社へ行く服を選ぶだけで千尋へ相談したくらいだ。
「お前まで千尋みたいになってきたな」
『私の方がお姉さんだからね』
「一個下だろ」
『今の見た目なら私の方がお姉さんに見えるかも』
「それ言うな」
また笑われる。
俺は少し考えてから、
「じゃあ昼な」
と答えた。
前なら、ただの食事の約束だった。
美琴と二人で飯を食うことはこれまでにも何度かあるし、そのたびに「これデートなのか?」と少し期待して、結局よく分からないまま帰った。
今も誘われたこと自体は嬉しい。好きな相手なのだから当然だ。
ただ、昼飯のついでに女物の服を一緒に見るという予定まで加わると、以前の二人きりとはずいぶん意味が違って見える。
『十一時半くらいでいい?』
「いいよ」
『じゃあまた連絡する』
電話が終わった。
俺はスマホをテーブルへ置き、しばらく画面を見た。
「女友達コース、順調すぎない?」
誰もいない部屋で言っても、当然返事はなかった。
*
午後は忙しかった。
昼休みに余計なことを考えていた反動なのか、仕事へ戻ってからはむしろ集中できた。十七時半を過ぎた頃、黒田さんから『今日は終われ』とメッセージが届き、少しだけ抵抗したものの、結局十八時前にはログアウトする。
椅子から立って背伸びをした。身体が小さくなっても、デスクワークで肩が凝ることだけは変わらないらしい。
冷蔵庫を開けて夕飯を考えながら、何気なくスマホを見る。
通知は特にない。
そこで、今日が金曜だったことを思い出した。
蓮は真帆と飯に行くと言っていた。
時計を見ると、十八時十二分。もう会っているかもしれない。
別に連絡する用事はないし、昨日までも蓮が誰かと飯を食っている時に逐一連絡なんてしなかった。俺だって明日は美琴と二人で飯へ行く。蓮だって真帆と行く。それだけの話だ。
夕飯を作って食べ、洗い物を済ませる。それから動画を流しながら少しゲームをして、気づけば二十一時を過ぎていた。
区切りのいいところで、またスマホを見る。
通知はない。
「何確認してんだ俺」
自分で呆れて、画面を伏せた。
蓮が真帆と何を話していようが、俺には関係ない。うまくいけばいいと思っているし、それは本心だ。
それより明日は美琴と昼飯なのだから、そっちを楽しみにしていればいい。
そう考えてゲームへ戻ったのに、少しするとまたスマホへ視線が向いた。
さすがに気持ち悪い。
俺はスマホを手に取り、蓮とのトーク画面を開いた。最後に残っているのは、真帆との飯について話した昨日のやり取りだ。
『どうだった?』
そこまで打つ。
送信ボタンの上で、指が止まった。
聞いても何もおかしくない。十年以上の付き合いだし、以前だって蓮が女と飯へ行けば普通に聞いたことはある。
なのに今日は、なぜか送りづらかった。
数秒迷ってから、文字を全部消す。
「帰ってから聞きゃいいだろ」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
スマホをソファの端へ置く。
その直後、通知音が鳴った。
反射的に手を伸ばす。
蓮だった。
ほんの一瞬だけ胸が跳ねたことに、自分で腹が立った。
『お前明日暇?』
真帆の話ではなかった。
『昼は美琴と飯』
少しして、
『そっか』
とだけ返ってくる。
何の用だったのか気になって、
『何かあった?』
と送ると、今度はすぐ返事が来た。
『いや、ゲームしようかと思っただけ』
「いつでもできんだろ」
思わず笑って、
『夜ならいる』
と返す。
『じゃあ夜』
それで終わった。
真帆の話は出なかった。
俺も聞かなかった。
さっきまで妙に気になっていたものが、少しだけ軽くなっている。
その理由まで考えそうになって、やめた。
身体のことも、女として外を歩くことも、人との距離も、今週だけで分からないことが増えすぎている。
全部に一週間で答えを出す必要なんてない。
明日は美琴と昼飯を食べて、夜は蓮とゲームをする。
男だった頃なら何も考えなかった予定が、今は少しずつ違う意味を持ち始めている。
俺はまだ、その違いに名前をつけられなかった。




