知らない男は、俺を知らない
駅に着いた俺は、そのまま改札へ向かう人の流れに入った。
会社には二時間ほどしかいなかったのに、思った以上に疲れている。人事の説明を聞いて、書類を確認して、社員証用の写真を撮り、同僚に今の姿を見られただけだ。仕事らしい仕事は何もしていない。
それでも、今日はずっと誰かの反応を意識していた気がする。
驚かれること自体はもう慣れつつある。問題は、その後だった。
男の同僚は以前より少し遠くなり、女の同僚は逆に近くなった。誰かに嫌われたわけでも避けられたわけでもない。それなのに、自分が今までいた場所からほんの少しだけ横へ動かされたような感覚が残っている。
そんなことを考えていたせいで、改札へ入る前に喉が渇いていることに気づいた。
駅構内の売店で水を買い、そのまま近くの柱脇へ避ける。ひと口飲んでからスマホを見ると、千尋からメッセージが届いていた。
『会社どうだった?』
『思ったより普通』
そこまで打って、少し考える。
『でも男連中が若干遠くなって女連中が近くなった』
送ると、すぐに既読がついた。
『まあそうなるよね』
「軽いな」
続けて、
『兄ちゃん側は変な感じするだろうけど、女同士って男友達より距離近いこと多いし』
と来る。
確かにそうなのだろう。
美琴の時もそうだったし、今日のデザイナーの女性も、俺が男だった頃より明らかに近い位置で話していた。
そこまで読んだところで、横から声を掛けられた。
「ねえ」
顔を上げる。
知らない男が立っていた。
年齢は俺と同じくらいか、少し若そうだった。私服姿で、見た目に特別怪しいところはない。駅前ならいくらでも歩いていそうな普通の男だ。
最初は、自分に声を掛けられたとは思わなかった。
少し周りを見る。
他にそれらしい相手はいない。
「……俺?」
男が少し驚いたように笑った。
「俺って言うんだ」
口にしてから、そういうところを拾われるのかと思った。
「まあ」
「一人?」
そこでようやく意味が分かった。
ナンパだ。
「いや、そういうのいいんで」
俺はスマホをしまい、そのまま改札へ向かって歩き始めた。
人生初ナンパ。
男だった頃、客引きやキャッチに声を掛けられた経験ならいくらでもあるが、もちろんそういう意味ではない。
女になった以上、いつかはあるのかもしれないとは思っていた。ただ、実際に自分へ向けられると、いまひとつ現実感がなかった。
「ちょっと待ってよ」
男が横へ並んできた。
「今から帰るだけ?」
「帰るだけ」
「じゃあちょっと飲まない?」
「飲まない」
「一杯だけ」
「昨日飲んで懲りたから」
そこまで答えてから、自分でも変だと思った。
何で俺は断る理由を説明しているんだ。
「いや、そうじゃなくて。行かないんで」
今度ははっきり言う。
普通なら、これで終わると思った。
ところが男はそのまま俺の横を歩いている。
「彼氏いるの?」
「関係ないだろ」
「じゃあいないんだ」
「何でそうなるんだよ」
面倒になり、少し歩く速度を上げる。
しかし今の俺の歩幅では、相手は何の苦労もなくついてきた。
「名前は?」
「教えない」
「そんな警戒しなくてもいいじゃん」
「知らない奴にいきなり名前聞かれたら警戒するだろ、普通」
俺の返し方が面白かったのか、相手は笑った。
「結構面白いね」
「面白くねえよ」
「何歳?」
今度は無視した。
改札はもう見えているし、人通りも多い。
危険な状況ではない。
ただ面倒なだけだ。
そう思っていた。
「ねえ、本当にちょっとだけ」
男が俺より半歩前へ出た。
そのまま自然に進路へ入る。
俺は足を止めた。
相手も止まる。
「行かないって言ってるだろ」
声を低くしたつもりだった。
ただ、今の声はどうやっても女性の声だ。男だった頃のように、少し声を落としただけで相手へ圧がかかるわけではない。
男は一瞬だけ眉を上げたが、特に退く様子はなかった。
「そんな怒らなくてもいいじゃん」
「何回断らせんだよ」
「じゃあLINEだけ」
「嫌だ」
「連絡先交換するだけでいいから」
「嫌だって」
横から抜けようとすると、相手も同じ方向へ動いた。
反対へ行こうとする。
また重なる。
偶然なのか、わざとなのかは分からなかった。
ただ、その時になって初めて、俺は目の前の男をきちんと見上げた。
高い。
百七十後半くらいだと思う。
男だった頃なら、ほぼ同じ目線だった。
今は違う。
自分より三十センチ近く高い男が、目の前に立っている。
さっきまで感じていたのは苛立ちだけだった。しつこい。邪魔だ。早くどけ。
でも、そこで別の考えが頭に入ってきた。
もし腕を掴まれたら。
俺は今、それを普通に振りほどけるのか。
蓮を蹴った時、以前より明らかに力が落ちていることは分かった。握力も弱くなっているし、体重差だって相当あるはずだ。
男だった頃なら、知らない男に道を塞がれた時、まずそんな計算はしなかったと思う。腹を立てるか、相手が何をするつもりなのか見るか、それくらいだった。
ところが今は、相手が一歩近いだけで、自分の身体が勝手に半歩下がった。
その動きに、自分自身が一番驚いた。
「……邪魔だから」
さっきより声が弱くなった気がして、それがまた腹立たしかった。
男が何か言おうとする。
俺はその顔ではなく、周囲を見た。
改札。
駅員。
人通りの多い場所。
さっきまでなら、どうやって相手を退かせるか考えていたはずなのに、今はどうやって相手から離れるかを考えている。
その違いに気づいた。
「悪いけど、本当に興味ないから」
今度は相手の横を無理に抜けようとせず、人が多い方へ向きを変えた。
改札へ向かって歩く。
「え、待って」
後ろから声がしたが、振り返らなかった。
駅員の姿が見えるところまでそのまま進み、改札前で人の流れから少し外れる。
そこまで来てから後ろを見る。
男はいなかった。
追ってきてはいない。
何もされなかった。
触られてもいないし、怒鳴られてもいない。ただ、断っているのに少ししつこくついてこられただけだ。
それなのに、心臓が思ったより速かった。
俺は壁際へ寄り、さっき買った水をもう一口飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
「……怖かったのか、俺」
口にすると、妙に認めづらかった。
でも、ほかに適当な言葉が見つからない。
一瞬だけ、確かに怖かった。
相手が自分より大きいことも、自分の力が以前ほどないことも、強引に来られた時にどうなるのか分からないことも、頭で整理するより先に身体の方が理解していた。
男だった頃の俺には、たぶんほとんどなかった感覚だった。
*
電車へ乗り、空いていた席へ座ったところで、千尋とのやり取りが途中だったことを思い出した。
画面には、
『兄ちゃんそのうち慣れるんじゃない?』
というメッセージが残っている。
少し迷ってから、
『今ナンパされた』
と送った。
既読がついた直後、電話がかかってきた。
「何でお前すぐ電話すんの」
『大丈夫!?』
思った以上に大きな声が返ってくる。
「大丈夫。もう電車」
『何されたの?』
「何も。声掛けられて、断ってもしばらくついてきただけ」
『触られた?』
「触られてない」
『今一人?』
「一人だから電車乗ってるんだよ」
電話の向こうで、千尋が大きく息を吐いた。
『びっくりさせないでよ』
「俺もびっくりしたわ。人生初ナンパだぞ」
『そこ喜ぶところじゃないからね』
「喜んではねえよ。最初は『あ、これナンパか』って思っただけ」
それから少し黙る。
最初は本当に、それだけだった。
面倒ではあったが、怖いとは思っていなかった。
「……ちょっとしつこかったんだよ」
俺がそう言うと、千尋の声から少し冗談っぽさが消えた。
『怖かった?』
聞かれて、すぐには答えられなかった。
妹相手に格好をつける意味なんてない。
それでも、男だった頃の俺なら「知らない男が怖かった」なんて言葉を自分の口から出すとは考えもしなかったと思う。
「ちょっとな」
正直に答える。
千尋は笑わなかった。
『そりゃ怖いよ。断ってるのについてこられたら普通に嫌だし』
「でも駅前だったし、人もいっぱいいたぞ」
『人がいるから絶対何も起きないってわけじゃないでしょ』
「まあ、そうだけど」
『兄ちゃん、喧嘩売らなかった?』
「何で急にそっち心配すんだよ」
『昔の兄ちゃんなら、しつこかったら「何だこいつ」ってやりそうだから』
言い返そうとして、やめた。
否定しきれない。
「途中までは普通にムカついてたよ。でも相手が前に立った時、思ったよりでかくてさ」
そこまで言いながら、自分の手を見る。
指も掌も、まだこの大きさに慣れきっていない。
「今の俺、あいつに本気で腕掴まれたら、普通に振りほどけんのかなって思った」
言葉にしたことで、さっき自分が感じたものが少しだけ整理された。
『そんなの試さなくていいからね』
「分かってるよ」
『ほんとに?』
「信用なさすぎだろ」
『兄ちゃんだから』
即答された。
「ひでえ妹だな」
『今までと条件違うんだから、昔の感覚で知らない男の相手しないでよ。ムカついても、人がいる方に行けるなら行けばいいし、逃げられるなら逃げた方がいいんだから』
逃げる。
その言い方に、少しだけ引っかかった。
俺は昔から、自分が悪くもないのに相手のせいで道を変えたり、その場から離れたりするのがあまり好きではなかった。負けたような感じがする。
今日も途中までは、そんな感覚だったと思う。
相手が邪魔なら退かせればいいし、断れば終わる。そのつもりだった。
結局、俺は人の多い場所へ移動した。
「……今日、それやった」
『じゃあいいじゃん』
「何か負けた感じするけどな」
千尋は少し間を置いてから、呆れた声で言った。
『それで何もされずに帰れてるなら勝ちでしょ』
その言い方が妙に千尋らしくて、俺は少し笑った。
「そういうもんか」
『私はそう思う』
窓の外を流れる景色を見る。
今日の一件だけで、急に世の中の女性がどうだとか、そんな大きな話をする気はなかった。
俺が今日、しつこい男に声を掛けられて、少し怖いと思った。
それだけだ。
ただ、その「それだけ」は、五日前までの俺にはたぶん一生分からなかった種類のものだった。
「女って面倒だな」
思わず漏らすと、千尋がすぐに返してきた。
『主語でかくしない』
「はい」
『兄ちゃんが今日めんどくさい目に遭った。それでいいの』
「分かりました」
素直に訂正しておく。
こういうところは、妹の方がよほど冷静だった。
*
家へ着く頃には、さっきまで速かった心臓もすっかり落ち着いていた。
靴を脱いでバッグを置き、紺の羽織りを脱いでソファへ沈む。
「疲れた……」
会社で二時間過ごしたことより、帰りの十分ほどの方が妙に疲れた気がする。
スマホを見ると、千尋から追加で、
『あと歩きスマホやめな』
と届いていた。
「最後に説教追加すんなよ」
とは思ったが、声を掛けられた時にスマホを見ていたのは事実なので、
『はいはい』
と返しておいた。
すぐに別の通知が入る。
今度は美琴だった。
『会社どうだった?』
俺は少し考えた。
会社そのものは、思っていたより普通だった。
ただ、人との距離は少し変わっていた。
帰りには知らない男に声を掛けられた。
何もされなかったけれど、少し怖かった。
そこまで入力しかけて、全部消す。
今日はもう、起きたことを一から誰かへ説明するのに疲れていた。
『色々あったけど大丈夫』
送る。
数秒後。
『その「色々」がすごい気になるんだけど』
「だよな」
思わず笑う。
でも今日は、それ以上返さなかった。
風呂へ入ろうと立ち上がり、洗面所へ向かう途中で玄関の鏡が目に入った。
朝と同じ格好をした俺がいる。
白いトップスに黒いパンツ。短い黒髪。小さな身体。
見た目は、家を出た時と何も変わっていない。
ただ今日は、会社で一つ、街で一つ、今まで知らなかった自分の立ち位置を知った。
会社の人たちは、俺が香坂悠真だと知っている。蓮も、美琴も、千尋も知っている。だから今の姿を見ても、その向こうに昨日までの俺を探してくれる。
でも、駅前の男は違った。
俺の名前も、仕事も、男だったことも知らない。
あいつにとって俺は最初から、ただの若い女だった。
その事実が、身体が女になったことそのものとは少し違う形で。
俺の中に残っていた。




