会社に戻ったら、俺だけ立ち位置が変わっていた
木曜の十二時半。
俺は玄関の鏡の前で、自分の格好を最後にもう一度確認していた。
白いトップスに黒いパンツ、その上から紺の軽い羽織り。靴は日曜に買った黒いスニーカーで、化粧は結局していない。
千尋に相談した通り、何の変哲もない格好だった。
会社へ行くのだから、それでいい。
そう納得したはずなのに、家を出る直前になると、襟元がおかしくないか、髪が跳ねていないかと妙に気になってしまう。
「……別に面接じゃねえんだから」
鏡の中の自分へ言う。
今日は人事の手続きが主目的だ。仕事をしに行くわけでも、誰かに今の姿を披露しに行くわけでもない。
それでも、四年間働いてきた会社へ、初めてこの身体で行く。
オンラインでは昨日、チームのメンバーに顔を見せた。
だが実際に会うとなれば話は違う。
俺を知っている人間がいる。
俺を男として知っている人間がいる。
そこへ、百四十八センチの女になった俺が入っていく。
考え始めるとまた玄関から出られなくなりそうだったので、仕事用のバッグを肩に掛けた。
これは以前から使っているものだ。
服も靴も身体に合わせて変わった中で、そのまま使える物が一つあるだけで少し安心する。
「行くか」
鍵を持ち、家を出た。
*
平日の昼過ぎということもあって、電車は思っていたより空いていた。
それでも駅構内を歩けば、自分の視界が以前より低いことには嫌でも気づく。案内板を見る時は今までより首を上げるし、ホームの人混みでは前の人間の肩が邪魔になる。
数日前なら、それだけでいちいち苛立っていた。
今日は少し違った。
前が見えなければ横へずれる。階段では歩幅を小さくする。吊り革も、無理に高い位置を取らず届く場所を選ぶ。
まだ意識しなければできないが、それでも身体の使い方は少しずつ分かってきている。
電車へ乗ると、空いていた端の席に座った。
以前より座面が広く感じる。
バッグを膝に乗せ、スマホを見ると、千尋からメッセージが来ていた。
『もう出た?』
『電車』
『服大丈夫?』
『お前が選んだんだろ』
『髪は?』
『母親かよ』
すぐに、
『妹です』
と返ってくる。
少し笑った。
『行ってきますくらい言えば?』
『なんでだよ』
『初登校みたいだから』
『殺すぞ』
そこでやり取りを終える。
スマホをしまうと、向かいの窓に自分の姿が薄く映った。
小柄な女が、昔から使っている黒い仕事鞄を抱えて座っている。
服装だけを見れば、どこにでもいそうな会社員だった。
四日前までなら、たぶん俺自身もそう思っただろう。
電車が会社の最寄り駅へ近づくにつれ、胸の奥が少しずつ落ち着かなくなってくる。
道は知っている。
駅の出口も、信号のタイミングも、コンビニの場所も、全部知っている。
会社までの道を歩くのは何百回目か分からない。
なのに今日は、初出社みたいだった。
*
会社の入っているビルへ着いたのは十三時四十分頃だった。
人事との約束は十四時。
少し早い。
エントランスを抜け、いつものように社員用ゲートへ向かう。
そこで俺は立ち止まった。
「……あ」
社員証。
財布から取り出す。
そこには男だった俺がいた。
今よりずっと短い髪。スーツ姿。二十代半ばの男。
名前は間違いなく香坂悠真。
写真だけが、今の俺とはまるで違う。
これで通れるのか。
物理的にはICなので通れるだろう。
問題は警備員だ。
一瞬迷った末、とりあえずゲートへ社員証をかざした。
電子音が鳴り、扉が開く。
何事もない。
そのまま通ろうとしたところで、やっぱり声を掛けられた。
「すみません」
ですよね。
警備員がこちらへ近づいてくる。
「あの、社員の方でしょうか」
「はい」
自分でも分かる。
今の声で「はい」と答えても、社員証の写真との整合性は一切上がらない。
俺は社員証を見せた。
「香坂です。今日、人事にも話が通ってると思うんですけど」
警備員が写真を見る。
俺を見る。
もう一度写真を見る。
この視線にも、ここ数日ですっかり馴染みができた。
「少々お待ちいただけますか」
「はい」
当然だ。
むしろこれで素通りさせられたら、会社のセキュリティを心配する。
警備員が受付へ確認を取り始める。
俺は少し離れた場所で待ちながら、社員証の写真を眺めた。
四日前までは何とも思っていなかった顔だ。
特別好きでも嫌いでもない。
毎朝鏡で見ていた、自分の顔。
その写真が今では、他人の社員証を持っているようにすら見える。
「香坂さん」
呼ばれて顔を上げると、人事の女性がこちらへ歩いてきた。
火曜にオンラインで話した人だった。
「すみません、お待たせしました」
「いや、こっちこそすみません。普通にゲート通ろうとして」
「事前に警備にも共有しておけばよかったですね」
警備員にも事情が説明され、ようやく中へ入る。
その途中、人事の女性が俺の社員証を見た。
「今日これも交換しましょう」
「お願いします。毎回これやるの無理なんで」
「そうですね」
自分で言って、少し笑った。
人事の女性も笑う。
そこでようやく、緊張が少し抜けた。
*
最初の一時間ほどは、ほとんど事務手続きだった。
社員情報の変更。
社内システム上の性別情報。
健康診断の扱い。
保険関係について今後提出する書類。
新しい社員証の申請。
説明を聞きながら署名したり、確認したりする。
名前も生年月日も社員番号も変わらないのに、変更する項目は想像以上に多かった。
「本人情報ってこんなに性別に紐づいてるんですね」
俺が言うと、人事の女性が頷いた。
「普段は意識しないですよね」
「俺も五日前まで一回も考えたことなかったです」
「私も今回かなり調べました」
「前例ないです?」
「少なくとも当社では初めてです」
「ですよね」
全国どころか世界で見ても珍しい現象だ。
会社に経験者が何人もいたら、それはそれで怖い。
新しい社員証用の写真は、その場で簡易的に撮影することになった。
壁を背に立つ。
「もう少し顎引いてください」
「はい」
「前髪、大丈夫ですか?」
言われて反射的に髪へ手をやる。
その瞬間、自分で少し嫌な顔をした。
「何か最近こればっか気にしてるな……」
「髪ですか?」
「前まで社員証の写真なんてどうでもよかったんですよ」
人事の女性が少し笑った。
「今もどうでもよくて大丈夫ですよ」
「ですよね」
そう言いながら、結局一度前髪を整えた。
撮影された写真を確認する。
ショートボブの女。
少し不機嫌そうな切れ長の目。
休日に千尋が撮った写真より、明らかに仕事中の俺の顔だった。
「これでいいです」
答えるまでに、ほとんど迷わなかった。
古い社員証と新しい写真が画面上に並ぶ。
どちらも香坂悠真。
見た目は全然違う。
それでも今回は、不思議と「どちらが本物なのか」とは思わなかった。
前の俺も俺で。
今の俺も俺だ。
そのくらいには、四日間で考え方が変わっていたらしい。
*
一通りの確認が終わった頃、人事の女性が少し言いづらそうに資料を閉じた。
「あと、出社時の設備についてなんですが」
何の話かはすぐ分かった。
「トイレですよね」
「はい」
避けられない問題だ。
病院では身体が完全に女性化していると確認されている。今後、公的な書類の変更も進める予定だ。
会社としては女性用設備を利用して問題ないという整理になっているらしい。
ただし、人事からは無理にそれを選ぶ必要はないとも言われた。
「このフロアに共用の個室もあります。慣れるまではそちらを使っていただいても構いませんし、女性用を使っていただいても大丈夫です。どちらにするかは香坂さんが使いやすい方で」
「……助かります」
正直。
女子トイレへ入ることには、まだかなり抵抗がある。
外では必要に迫られて何度か使ったが、そのたびに入口で一瞬止まる。
身体は女だ。
他人から見れば、俺が女子トイレへ入る方が自然だろう。
頭だけが追いついていない。
「しばらく共用使ってもいいですか」
「もちろんです」
「慣れたら考えます」
そう答えると、人事の女性はそれ以上何も言わなかった。
この会社でよかった。
最近、そう思う回数が増えている。
*
人事面談が終わったのは十五時半近くだった。
そのまま帰ってもよかった。
というより黒田さんからは、
『手続き終わったら帰れ』
と朝の時点で言われている。
ただ、せっかく会社まで来たのだから、自分の席くらい見ておきたかった。
人事の女性に確認すると、
「黒田さんから聞いてます。顔出すくらいなら大丈夫だそうです」
と言われた。
「仕事はするなって?」
「かなり強めに」
「ですよね」
エレベーターでいつものフロアへ上がる。
扉が開く。
見慣れたオフィスだった。
机の配置も、壁のモニターも、会議室のガラス扉も変わっていない。
俺が休んでいたのは、たった数日だ。
何かが変わっている方がおかしい。
それでも、入口で一度足が止まった。
画面越しではなく。
ここから先には、実際の俺を知っている人間たちがいる。
深く考える前に歩いた。
最初に俺へ気づいたのは佐々木だった。
モニターから顔を上げ、こちらを見る。
そのまま数秒止まった。
俺はため息をつく。
「昨日見たろ」
「いや、実物はまた違いますね」
「お前ほんとに言ったな」
佐々木が笑う。
その声で周りもこちらへ気づいた。
何人かが視線を向ける。
驚かれる。
当然だ。
ただ、昨日の定例で一度顔を見ていたメンバーが普通に話し始めたせいか、思っていたほど大騒ぎにはならなかった。
「香坂さん、本当に小さくなったんですね」
デザイナーの女性が俺のところまで来る。
「画面じゃ身長分かんないですからね」
「百四十八でしたっけ?」
「数字まで共有されてる?」
「昨日自分で言ってましたよ」
「最近みんなそれ言うな……」
笑われる。
佐々木も席を立って近づいてきた。
以前なら、そのまま俺の肩でも軽く叩きながら「大変でしたね」と言っていたかもしれない。
実際、佐々木の手が一度上がった。
でも。
途中で止まった。
そのまま行き場を失った手が、何となく自分の首の後ろへ回る。
「……とりあえず、元気そうでよかったです」
「ああ。ありがと」
それだけのことだった。
たぶん佐々木本人も、深く考えていない。
ただ今の俺へ、以前と同じように触れていいのか一瞬迷った。
俺にはそれが分かった。
少し離れたところでは、別の男性社員が俺に気づいて会釈だけしている。今までなら近くまで来て雑談していた人だ。
その一方で、デザイナーの女性は俺のすぐ横に立ったまま、髪を見ていた。
「ショート似合いますね」
「ありがとうございます。長いの無理だったんで」
「前はどのくらいあったんですか?」
「腰くらい」
「え、見たかった」
「美琴にも同じこと言われた」
そこまで言ってから、相手が美琴を知らないことに気づく。
「友達です」
「ああ」
彼女は普通に頷き、今度は服を見る。
「それも似合ってますよ」
「妹に選ばれました」
「妹さんいるんですね」
「最近めちゃくちゃ楽しそうですよ」
話している距離が近い。
昨日、美琴との間で気づいたものとはまた違う。
恋愛的な意味なんて当然ない。
単純に、女性同士で会話する時の距離なのだろう。
数日前まで、彼女とは仕事の話をする時でももう少し離れていた気がする。
反対に、佐々木はほんの少し遠い。
誰かが意図して決めたわけではない。
俺自身だって、何も希望していない。
それなのに、身体が変わっただけで周囲の立ち位置が自然に組み替わっている。
「……何か変な感じだな」
俺が小さく言うと、デザイナーの女性が首を傾げた。
「何がです?」
「いや、何でもないです」
今説明しても、たぶん俺自身が一番うまく説明できない。
*
自分の席へ行く。
数日ぶりの机は、何も変わっていなかった。
モニター。
キーボード。
俺が置きっぱなしにしていたマグカップ。
引き出しの中の菓子。
椅子。
その椅子へ座る。
「…………」
足が浮いた。
「マジかよ」
思わず声が出る。
近くにいた佐々木が吹き出した。
「そこもですか」
「俺の席なのに合わねえ」
椅子を下げる。
今度は机が高い。
自宅と同じ問題だった。
「フットレスト必要ですね」
「家ではAmazonの箱使ってる」
「会社でも段ボール探します?」
「やめろ。ちゃんと買ってもらう」
笑いながら答える。
俺の席だ。
モニターにも。
引き出しにも。
置いてある物にも。
俺がここで働いてきた痕跡がある。
なのに、椅子だけが今の身体に合わない。
妙な感覚だった。
そこで背後から黒田さんの声がした。
「香坂」
振り返る。
オンラインでは何度も話したが、今の姿になってから直接会うのは初めてだ。
黒田さんは俺を見て。
少し黙った。
「黒田さんまで止まるんですか」
「いや」
一度俺の全身を見る。
「本当に小さいなと思って」
「そこですか」
「画面だと分からんからな」
この人も同じだった。
「手続き終わった?」
「終わりました」
「じゃあ帰れ」
「まだ来て十分くらいなんですけど」
「顔出しただろ」
「自分の席にも座ったし」
「目的達成だな」
「ちょっとくらい仕事を」
「帰れ」
即答だった。
周囲から笑いが起きる。
「俺ここに何しに来たんですか」
「人事手続き」
「会社員なのに」
「明日から働け」
完全に追い出される流れだった。
仕方なく椅子から立つ。
その時、デザイナーの女性が俺へ声を掛けた。
「香坂さん、明日も出社ですか?」
「いや、明日はリモートの予定です」
「そっか。じゃあ今度出社する時、お昼一緒に行きません?」
「昼?」
「はい。女子何人かでよく行ってる店あるんですよ。量少なめのメニューもあるから、今の香坂さんちょうどいいかも」
悪意は一切ない。
むしろ普通に誘ってくれている。
だからこそ、一瞬だけ返事に困った。
女子何人かで。
今の俺も、その中に入っている。
「……ああ」
少し遅れてから頷く。
「タイミング合えば、ぜひ」
「じゃあ声掛けますね」
「お願いします」
それだけの会話だった。
周りの人間も、誰も気にしていない。
俺だけが少し引っかかっている。
男の同僚は以前よりわずかに距離を取るようになり、女性の同僚は以前より自然に近づいてくる。
誰も俺を嫌っていない。
むしろ、みんな普通に接しようとしてくれている。
その「普通」の形だけが、以前とは違っていた。
*
会社を出たのは十六時前だった。
エレベーターを降り、社員用ゲートを抜ける。
今度は人事から連絡が入っていたのか、警備員に止められることはなかった。
外へ出ると、まだ明るい。
昼から来て、二時間ほどしか会社にいなかった。
それなのに妙に疲れていた。
駅へ向かって歩きながら、今日のことを思い返す。
驚かれた。
でも笑って話せた。
仕事の席も残っていた。
人事も黒田さんも、俺を特別扱いしすぎないようにしてくれている。
たぶん、かなり恵まれている。
それでも。
佐々木が途中で止めた手。
すぐ横まで近づいてきた女性社員。
『女子何人かで』
その一つ一つが、頭の中に残っていた。
会社へ行く前は、今の姿を見られることばかり心配していた。
誰に驚かれるか。
どんな顔をされるか。
でも、本当に変わっていたのはそこではなかったのかもしれない。
見慣れてしまえば、俺の顔なんてそのうち誰も気にしなくなる。
問題は、その後だ。
俺が女としてそこにいることへみんなが慣れていった時、今まで俺がいた場所と同じところに、本当に戻れるのか。
駅へ着く。
改札へ向かう人の流れの中で、俺は一度だけ足を緩めた。
俺の席は、ちゃんと残っていた。
ただ。
俺の立ち位置まで同じだったわけではないらしい。




