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女になった俺と、距離感がおかしくなった奴ら  作者: わかめ
女になった俺

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13/25

画面の向こうに、昨日までの同僚がいる


水曜の朝、目が覚めた時から妙に頭が重かった。


痛いというほどではないし、吐き気もない。ただ身体の奥に薄くだるさが残っていて、布団の中でしばらく原因を考えた末に、昨夜飲んだものへ思い至った。


「……一杯だぞ」


生ビールを一杯。それも店を出るかなり前には飲み終えている。


男だった頃なら飲酒に数えるのも微妙なくらいの量だったのに、翌朝まで影響が残っているという事実は、地味ながらかなりショックだった。


枕元のスマホを見ると、昨夜の蓮とのやり取りが残っている。俺が帰宅後に送った『着いた』に対して、蓮は『ならよし』と返していた。それ以降のやり取りはない。


その画面を見たせいで、改札前で自分が口にした言葉まで一緒に思い出した。


『お前、俺の彼氏かよ』


朝から考えることじゃない。


俺はスマホを伏せて布団から出ると、水を多めに飲んで顔を洗った。身体を起こして動いてみれば、足元がふらつくほどではなく、支度をしているうちに頭の重さも少しずつ抜けていく。


鏡には、寝癖で後頭部だけ妙に膨らんだ女が映っていた。


「酒まで一から覚え直しかよ」


服のサイズや歩幅だけでなく、自分がどの程度飲めるのかまで再確認しなければならないらしい。今後しばらく、飲み会で昔の感覚を基準にするのはやめておこう。


そう決めながら髪を直していると、スマホが震えた。


蓮だった。


『生きてる?』


「昨日からそればっかだな」


『生きてる。一杯で微妙にだるい』


送ると、すぐに返事が来る。


『やっぱ弱くなってんじゃん』


『うるせえ』


『昨日止めてよかったな』


『調子乗んな』


そこまでやり取りして、俺の指が少し止まった。


蓮は昨夜のことに何も触れてこない。俺も触れない。


だから、そのままいつもの会話として終わった。


たぶん今は、それでいい。


     *


昨日より、仕事机には少し慣れた。


通販の箱を足元へ置いて椅子の高さを調整すれば、とりあえず長時間座っていられる。見栄えは最悪だが、仕事中ずっと足が浮いているよりは遥かにマシだった。


九時前に会社のチャットへログインすると、黒田さんからすでにメッセージが入っていた。


『10時からチーム定例。参加できそう?』


昨日までは俺抜きで進めてもらっていた定例だ。


『大丈夫です』


そう返すと、


『カメラは好きにしていい』


と来た。


その一文を見て、少し考える。


声については昨日、佐々木にも変わったことが伝わっている。顔についても、人事からチームの必要なメンバーへは、転性現象が起きたことをすでに説明しているはずだった。


つまり、今日の参加者は俺が女になったこと自体は知っている。


ただ、知識として知っていることと、実際に今の俺を見ることは別だ。


黒田さんだって、説明を聞いたあとで俺を画面に映したら第一声が「誰?」だった。


それでも明日の午後には会社へ行く。


昨夜、人事から正式に連絡があり、社員証関係の手続きと面談のため、木曜の十四時に来社することになっていた。


どうせ明日には実物を見られる。それなら今日だけ画面を隠す意味もあまりない。


むしろ一度画面越しで見せておいた方が、明日の衝撃が少しは減るかもしれない。


十時。


定例のURLを開く。


参加者は黒田さん、佐々木、デザイナー、営業担当、それに俺を含めて五人だった。


俺は数秒だけ迷ったものの、最初からカメラをオンにして参加した。


「おはようございます」


『おはよう』


最初に返したのは黒田さんだった。


その直後、ほかの全員が一瞬だけ黙る。


あまりにも分かりやすい反応に、俺の方から笑ってしまった。


「やっぱそうなります?」


佐々木が我に返る。


『いや、すみません。分かってたんですけど、思ってたより……』


「思ってたより?」


『普通に女の人で』


「そりゃ医者にも完全に女性って言われてるんで」


『声も全然違いますね』


「昨日もチャットで聞かれたけど、喉やったわけじゃないからな」


そこで誰かが小さく笑い、張っていた空気が少し緩んだ。


女性のデザイナーが画面へ少し顔を近づける。


『でも目元は確かに香坂さんですね』


「全員そこ言うんですよ」


『喋り方もそのまま』


「そっちは変わる理由ないですからね」


佐々木が笑う。


『昨日チャットした時、文章はいつもの香坂さんだったからちょっと安心しました』


「文章まで変わってたら俺も怖いよ」


『でも、すごいですね……』


言った直後、佐々木が少し気まずそうな顔をした。


「別にいいよ。俺も他人に起きてたらすげえって言うと思うし」


必要以上に慎重に扱われるより、そのくらい普通に反応してもらった方が楽だった。


俺は画面の向こうの全員を見ながら続ける。


「見た目は完全に変わりましたけど、中身は普通に俺なんで。仕事は今まで通りでお願いします」


すると、黒田さんが間髪入れずに言った。


『本人から許可が出たから、資料のミスは今まで通り遠慮なく指摘していいぞ』


「そこまで許可してないです」


『昨日、自分で言っただろ』


「今まで通りとは言いましたけど、多少は優しくてもよくないですか」


『駄目』


佐々木が吹き出し、そのまま全員が笑った。


それで空気はほとんど元に戻った。


画面に映っている俺は完全に女なのに、会話の中では昨日までと変わらない香坂として扱われている。


そのことが、不思議なくらいありがたかった。


     *


定例が始まってしまえば、本当に普通の仕事だった。


先週から進めている案件の状況を確認し、デザインの修正案を見ながら仕様の懸念点を佐々木と詰める。


「そこ、API側で吸収するより画面側で制御した方が早くない?」


『できますけど、あとで条件増えると面倒なんですよ』


「増える予定ある?」


『営業次第』


「こっち見るなよ」


営業担当が苦笑する。


『先方に確認します』


「じゃあ一旦保留で」


そんな話をしているうちに、自分がどう見えているかなんて考えなくなった。


一度だけ、デザイナーが俺の画面を見ながら妙に考え込んでいたので、


「何ですか」


と聞いたら、


『いや、普通に仕事してるなと思って』


と言われた。


「何すると思ってたんですか」


『もっとこう……ずっと大変そうなのかなって』


「大変ですよ。昨日まで届いてた棚に手が届かないし、今仕事机の足元Amazonの箱ですからね」


『そっち?』


画面の向こうで笑いが起きる。


俺もつられて笑った。


大変なのは本当だ。


今のところ戻る方法はないし、生活のあちこちで自分の身体が以前とは違うことを思い知らされている。


ただ、四六時中そのことだけを考えているわけでもない。


仕事が始まれば仕様の方が気になるし、資料に間違いがあれば直す。腹が減れば昼飯のことを考えるし、眠ければ眠い。


当たり前の話だった。


女になったからといって、人生の全部が一日中「女になったこと」だけで埋まるわけではない。


それは、思っていた以上に救いだった。


定例の最後に、黒田さんが明日の予定を共有する。


『香坂は明日十四時に来社予定。人事の手続きがメインだから、仕事はさせない予定』


「本人より強めに宣言するのやめてもらえます?」


『放っておくと仕事始めるから』


『分かります』


佐々木が即答した。


「お前まで何なんだよ」


また笑いが起きる。


定例が終わり、参加者が一人ずつ抜けていく。


最後に佐々木が、


『じゃあ明日。今日見たんで、もう驚かないようにします』


と言った。


「昨日からみんな『実物はまた違う』って言うんだよな」


『実物はまた違うと思います』


「お前も言うのかよ」


通話が切れた。


画面には俺だけが残る。


昨日までの仕事と同じ顔をしている、ショートボブの女。


今日、会社の人間に初めて今の姿をまともに見せた。


もっと嫌な感じになるかと思っていたが、実際に驚かれたのは最初の数分だった。その後は仕様の話をして、資料の話をして、いつものように俺が文句を言った。


案外、こんなものなのかもしれない。


もっとも、明日は画面ではない。


会社へ行けば、今日の五人以外にも俺を知っている人間がいる。その全員へ一度に見られることを考えると、まだ安心するのは早そうだった。


     *


昼過ぎ、仕事をしていると千尋からメッセージが来た。


『明日会社行くんだって?』


情報が早い。


『何で知ってる』


『昨日兄ちゃんが自分で言ってた』


最近、このやり取りを何度している気がする。


『そうだった』


『何着てくの?』


そこで手が止まった。


会社へ行くことばかり考えていて、服装まではほとんど考えていなかった。


うちの会社は服装がかなり自由だ。客先へ行く日でもなければスーツ姿の方が少ないし、男だった頃の俺もシャツやニットにパンツくらいで出社していた。


だから日曜に買った服で十分なはずだった。


ただ、今の身体に合う服はまだ最低限しかない。


白や黒、紺を中心にしたトップスとパンツ。それに千尋が勧めた薄い青。


会社へ着ていけそうなものはあるが、それが「会社へ着ていく女物」として正しいのかまでは、俺にはよく分からない。


『普通のでいいだろ』


そう返すと、すぐ電話がかかってきた。


「何で電話なんだよ」


『絶対何も考えてないと思って』


「考えてるよ」


『じゃあ何着るの?』


「白いのと黒いパンツ」


『小学生の説明?』


「服の名前なんて知らねえよ」


電話の向こうで千尋が笑った。


『写真送って』


「嫌だ」


『じゃあ明日変でも知らない』


「脅すな」


結局、日曜に買った服をベッドへ並べて写真を撮り、送ることになった。


しばらくして、


『白のトップス、黒パンツ、紺の羽織りでいいんじゃない?』


と返ってくる。


『普通だな』


『会社でしょ。普通でいいじゃん』


その言葉で、少し納得した。


別に明日は、女になった俺のお披露目会ではない。


人事の手続きをして、必要なら自分の席へ顔を出す。それだけだ。


無理に女性らしい格好をする必要もないし、逆に男だった頃の自分へ寄せる必要もない。


今の身体に合っていて、会社へ行ってもおかしくない。


それで十分だ。


少し考えてから、もう一つ聞いた。


『化粧とかいる?』


返事はすぐ来た。


『したいならすればいいけど、別にしなくていいでしょ』


続けて、


『兄ちゃん今まで会社行くために化粧してなかったじゃん』


と来る。


『それは男だったからだろ』


『今だって、女になったら絶対しなきゃいけないわけじゃないよ』


その文章を見て、俺は少し考えた。


この数日、服も下着も髪もトイレも、何かにつけて「女ならどうするのか」を考えていた。


必要なことは確かにある。


身体が女性になった以上、身体に合わせなければならない部分はどうしても出てくる。


でも、身体が女になったからといって、俺の生活全部を「女として正しい形」へ作り替えなければならないわけではない。


「……それもそうか」


電話の向こうから、すぐに声が返った。


『でしょ』


「聞こえてねえだろ」


『兄ちゃん絶対それ言うと思った』


「エスパーかよ」


千尋が楽しそうに笑う。


まだ分からないことは多い。


ただ、誰かに教わるたびに「女ならこうしなきゃいけない」が増えるのではなく、逆に「別にしなくてもいい」も増えていくなら、それは少し楽だった。


     *


夕方、仕事を終えた俺は、明日着ていく服をベッドの端に揃えて置いた。


白いトップスに黒いパンツ、紺の軽い羽織り。靴は日曜に買った黒いスニーカー。


特別おしゃれなわけではないし、いかにも女性らしい服装でもない。それでも今の俺が着れば普通に見えるし、会社へ着ていっても問題はない。


鏡の前で一度合わせてみる。


ショートボブに、切れ長の目。百四十八センチの小さな身体。


最初に鏡を見た朝から、まだ四日しか経っていない。


身体そのものはあの朝と変わっていないはずなのに、今は鏡を見ても最初に「知らない女がいる」とは思わなくなっていた。


髪を自分で選んで切った。


服も少ないなりに、自分で着るものを決めた。


それだけでも、鏡の中にいる人間が少しずつ「今の俺」へ近づいているのかもしれない。


スマホが震えた。


蓮からだった。


『明日会社だっけ』


『そう』


『頑張れ』


短いメッセージに、


『おう』


と返す。


その少し後、もう一件届いた。


『そういや金曜、真帆と飯行くことになった』


「お」


思わず声が出た。


倉田真帆。


ここ最近、蓮が何度か二人で会っている女だ。


金曜の夜、俺が女になる直前にもその話をしていた。順調なら、そのうち付き合うんじゃないかと思っていた相手でもある。


『いいじゃん』


すぐに送る。


続けて、


『告る?』


と送った。


少しして、


『まだわからん』


と返ってきた。


俺は笑う。


『お前この前俺に告れ告れ言ってたくせに』


『人のは簡単なんだよ』


『クズ』


『うるせえ』


いつもの蓮だった。


俺はスマホを置いて、ベッドの上に揃えた明日の服を見る。


蓮と真帆がうまくいくなら、それは普通にいいことだと思う。


俺だって美琴が好きで、蓮には蓮の恋愛がある。


何もおかしくない。


金曜までは、それがごく自然な未来だと思っていた。


「……よかったじゃん」


誰もいない部屋で、そう呟いた。


本当にそう思った。


それなのに。


スマホを置いたあとも、真帆という名前だけが、なぜか少し長く頭に残っていた。

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